【レク】H31.2/9(土)金水敏 大阪大学大学院文学研究科 教授「役割語:大阪弁と都市の美」(主催:DAS_都市の美を考える会)
( ´ - ` ) 「関西人」とか「大阪の人」、「関西弁」「大阪弁」と聞いて、皆さんどんな人を思い浮かべますか。大体あれちゃいますか、決まってまっしゃろ。えへへ。
金水教授がサブカルや文学作品を多彩に引用し、「大阪弁」「大阪人」のイメージがいかに作られていったかを歴史的に紹介されました。
そこでは「役割語」という概念が重要となります。
以下は超かいつまみ。
金水教授の提唱する「役割語」とは、
ある特定の言葉遣い(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、階層、時代、容姿・風貌、性格等)を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、その人物がいかにも使用しそうな言葉遣いを思い浮かべることができるとき、その言葉遣いを「役割語」と呼ぶ。
(金水 2003、205頁)
(関連書籍)
例として
「博士」「教授」→「そうじゃ、わしが〇〇博士じゃ」
だが、例えば金水教授ご本人こそ「大学教授」であるが、喋る時に「わし」とか「~なのじゃ」とは言わない。全然いわない。
このような言葉自体が、ある特定のキャラを付与したり、逆にあるキャラをキャラ立ちさせるための役割で用いられてきた、というわけだ。
これが関西弁と関西人(大阪人)のイメージ形成に一役買ってきた。
ちなみに私が思い浮かべる関西弁のキャラ&性格というと、
・京極さん(美味しんぼ)
=成金、人情家、商売人
=銭にがめつい取立屋、ダークヒーロー
・クモ男(YAIBA) =しぶとい難敵、にくめない
・バトル場所が関西地方になった際に登場する敵、モブ等全般(キルラキル、将太の寿司、スラムダンク、月下の棋士、美味しんぼ、等々)
=おもろいだけのネタキャラ、にぎやかし、ガラが悪い、口が悪い、にくめない、実はいい奴、等
( ˆᴗˆ )三点目のはまさに、アニメ、マンガに顕著ですね。個別の人格はすっ飛ばされて、なくなっていて、「関西人」という単位でキャラ設定がなされている。制作者もまず「関西人キャラ」という、記号に近いものをどう料理するか選択しながら、作中に投入しているフシがある。踏み込んで言うと、主人公の活躍拠点が関東・東京方面であるとき、関西が絡むのは、主人公の成長物語において、関西は試練として「通過」する(=アクの強い障害)役割があると思う。
「方言」には、まさにそういった、キャラクターを作り出す「役割」があるということです。
ではどこに? というと金水教授の言う「ヴァーチャル方言」、つまり『フィクションの中で用いられる表現』である。
→おしゃれな文体ゆえに、舞台の多くが高松市であるにも関わらず現地の方言が出てこない。出てきたのは、金銭的な話題の箇所のみ。値打ちもんをおしむ話をするシーンで、関西弁(悪意(笑))。
こういった感じで歴史的に作られてきたものである。
そもそも「首都」とか「標準語」というのは歴史的には偶然の産物であって、優劣や必然によるものではない。
日本の中心はそもそも関西であった。平安京とかね。しかし関ヶ原の戦いで徳川幕府が出来て以降、中心が関東に移っていったというだけの話。関西人が、粗野で、ゼニカネにがめつい民というわけではない。ケチなのは、江戸は火事が多くて「宵越しの銭は持たない」と言っていたのに対して、関西の中心を担った商人が金銭にシビアだっただけなのでは。
教育機関としても、関西には藩校に対して「私塾」(緒方洪庵の「適塾」など)が発達した。教養や文化的土壌があるんですよ。それに大阪大学かて、国が「東大と京大があればよろしい」と言ったのを、いやふざけんなと、民が設立資金の一部を出したわけで。出すべきところにはしっかり出すのが関西人でっせえ。
戦後は、ラジオ、テレビ、小説、映画、流行歌なとで「大阪弁」が流通した。お笑いと人情、ゼニカネ気質が拡散され、誇張、定着される。
事例として、アチャコ(漫才・ラジオ)、織田作之助《夫婦善哉》、山崎豊子などなど。
「大阪人」イメージにも系譜があって、「ど根性」なら滋賀の近江商人(《船場》、《細うで繁盛記》など)、「好色・エロ」なら井原西鶴《好色一代男》、今東光(こんとうこう)の《春泥尼》《河内風土記 おいろけ説法》、野坂昭如、笑福亭鶴光など。そしてお馴染み「ヤクザもの」、暴力的な人物像など。ちなみに《じゃりん子チエ》の「テツ」は西成の荒くれ者ではあるが、ヤクザではない。細かい注釈に感動です。
話題は「コテコテ大阪弁」というものとそのイメージへ。歴史的には大正に遡り、「大大阪の時代」、戦後の「糸へん景気」で労働力の流入→大衆芸能の発展により「コテコテ」大阪弁が出来ていった。それがラジオ、テレビにより拡散。また、80年代のお笑いブームにより、「大阪弁」が「役割語」と化したとのこと。さらにゼロ年代以降も「M-1」などお笑いブームが再燃しており、その流れは続いている。
つまり皆がイメージする「コテコテの」大阪弁は歴史的にはつい最近、戦後のものだということが浮かび上がってくる。
トーク終盤では「物の言い方」がそもそも地域で違うことについて、調査結果の一端が示された。東北では朝の挨拶(の習慣)が「ない」ことや、ケンカの物言いにおいては、関西はフォーマットが綺麗に定まっているのに対し、東北は全然バラバラだったりする。
資料より。関西の「喧嘩の文句」はどれもバチッと順序が決まっている。様式美である。喧嘩慣れしすぎてるのか、人間関係が水平的なので喧嘩が発生できるせいなのか…。
で結論として、調査結果などから浮かび上がってくる「大阪人」の性分・特徴は、「楽しければそれでいい」、その「場」の「臨場感」を重視しているという話である。
相手との関係をぐっと詰める・距離を無くすような態度と、加えて、相手を傷付けない・丁寧に対応するという思いやりとが結びついた「おもてなし」の言語が、「大阪弁」(=関西弁)であると言えよう。
( ´ - ` ) 納得が多くて面白かった。
最も「ウッ、」と来たのが、関西弁とオノマトペ(擬音語や擬態語)に関するお話だった。
実際、関西人はオノマトペを多用する。(例「もっとこうバチーッとできへんか?」「あかん、こらヌルヌルやわ」「なんやこら、ぷらんぷらんやがな」「カーンて締めなあきませんわ」「せやろ。バーッて終わらせてはよ飯にしよや」「せやな」等)
これはもう東京の人などと比べて、相手と「自分」との距離感が圧倒的に近いがゆえの話法ではないかというお話である。相手との距離を「ズクズクに」して、「ヌルッ」とゼロ化してしまう、相手と同化するという、商人的な本能というか、生き様が反映されているといった指摘で。
「関西人は臨場感を出したい、現場性を共有したいという思いが強い」それがよりライブな表現として、オノマトペを口にさせるのだという。
大いに賛同です。いやあもう
まったくそう。
というのも私はその前の晩、有名な写真家の個展(石川竜一《home work》)のレビューをオノマトペだらけで書くという、掟破り、訳の分からないことをしており、なぜそんな冒険をおかしてしまったのかと言うと、もう「臨場感」のことしか頭になかったからです。ははは。僕らの眼は軍用ヘリの音を聴いたことがあるか。ないよね。せやねん。だからや。臨場感やで。
「三島由紀夫は小説におけるオノマトペについて、下品だから使わない方が良いと、否定的でした」といった、これまた細やかな補足が、面白かったです。言いそう。あいつめっちゃ言いそう。言うよね。
プライドより臨場感と笑いの関西人。
まったくそう。
( ´ - ` ) 面白かったです。ありがたやー
自殺も止めないとだめですし、共感していきましょう。
この兄ちゃん、火事で焼け出された住民じゃなくて、大人の都合でメーカー名を明記できなかった某お菓子会社のあの人なのでは、という説が有力です。
( ´ - ` ) 完