写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【舞踏】笠井叡・榎本了壱『高丘親王航海記』(原作:澁澤龍彦)@ロームシアター京都

【演劇】笠井叡榎本了壱『高丘親王航海記』(原作:澁澤龍彦)@ロームシアター京都

H31.1/12(土)、榎本了壱が美術を手掛け、笠井叡(かさいあきら)が舞い、澁澤龍彦の幻想世界が観客の五感に迫る。 

澁澤龍彦の遺作小説を【舞踏】によって演じるという試みである。小説でもなければ【演劇】でもない。異世界への長い旅路、文明の尽きる地点を体感した。 

 

1.澁澤世界とわたし。

自分にとって未知のジャンルに出会ったときに、人は懐に忍ばせているいつもの言語の刃が通用しないので、眼前で起き続けることに対して、分かりやすく割って解釈することもできず、身を反らすこともできず、ただただ衝撃を受け続けるだけの身と化すのであった。

友人に舞台公演があると紹介されたのを急に思い出して、突発的に鑑賞に行ったのである。よって準備はなく、阿呆のようにただただ衝撃を受けるだけで終わり、何かすごいものを観たという記憶だけがある。笠井叡の舞は、舞踏を知らない人間にも明らかに素晴らしかった。この人には体重が無いのかと思いながら観ていた。

作品のあらすじは、主人公・高丘親王が幼いころに聞いた伝説の地・天竺を目指して旅に出て、道中いろいろありながらも、目的地に辿り着かず、途中で客死するというものだ。

本当にそうだったのだろうか。夢を見たような気分なのだ。それがどんな夢だったかをうまく喋れないのと似ていて、うまく言語化できない。

 

原作が澁澤龍彦の小説だからと安心していたのが最大の原因だ。

私は大学時代に澁澤ワールドに耽溺していたので、馴染み深いものだから、まあ懐かしい下宿先に戻るぐらいの気分でいたのだ。甘かった。私が愛好していたのは短編集で、特に西洋中世の奇譚、伝説、トリビアを散りばめたものを齧っていた。美食、毒物、奇人、秘密結社、黒魔術、エロス等々、国境も時代も飛び越えて、世界のどこかの古書に書き記された伝奇をひたすら編纂して可視化させるという「異」業は、それこそ伝説上の怪人の仕業であった。引用、記載されているそれらの事々が、本当に存在する記録なのか、実在する書籍なのかどうかは全く分からない。全体的に伝奇なのだ。ただただその筆致は美しく余裕があり、貴族的だ。澁澤世界の短編は、宝石箱の暗闇の中で妖しく光る幻の石だった。それを手に取って触れよう、確かめようと思うと、七色の光はそこにあるのに、プリズムのように手がすり抜けてしまう。

本作の世界観はまさに、そのような現と幻想の境界がよく分からない不確かさに貫かれつつも、とても濃厚な迷宮だという感触であった。本当の異世界、この世のどこにも記録されていない文化や歴史が続いた。短編だけでも「濃い」澁澤世界だが、それが章立てされた小説となると、大変である。昔、短編を読んでいました、では、通用しなかった。古城の宮殿で迷子になったようなものだ。

『高丘親王航海記』を私は読んでいない。存在すら知らなかった。今になって家の短編集をあれこれ確認してみると、サドやエロスや中世の伝奇の作家という印象が強いが、実は日本の歴史、民俗学にも非常に詳しい。ちょっとやそっとで語れる世界ではないのであった。 

2.本作の構成

本作は長編で、澁澤の短編集とはまた違った趣の、長い旅の奇妙な物語である。高岳親王(ここでは史実の方を作品タイトルと区別して「岳」と表記しておく)という、平安時代初期の実在の皇族が主人公だ。西暦799年に生まれ、若くして出家し、後年には中国(唐)へ渡った。そして865年頃に天竺(インド)を目指す過程で消息不明となる。一説には虎に襲われて命を落としたとも言われている。こうした把握可能な史実の部分を、想像、創作の肉付けによって、澁澤は一つの壮大な伝奇へと編み上げ、笠井叡はさらに舞台に向けて意訳した。

本作では澁澤が綴った小説を舞台芸術に起こすに当たって、種々の工夫が為されている。まず物語としての筋を追えるようにするため、各シーンの状況はナレーションで語られる。舞台上では、これは【演劇】ではなく【舞踏】であるため、演者が台詞を直接発することはない。身体の動き、舞いが言語となって状況や感情は表現される。しかし澁澤世界の美は、言葉、現実と空想の辺縁、夢と現実の境界を行きつ戻りつするような言葉にこそ妙味がある。また、澁澤の物語は公的には共有されていない、アンダーグラウンドな物語、密儀、黒魔術の秘伝のようなもので、眼で見ただけで皆が了解できるものではない。宮本武蔵豊臣秀吉西郷隆盛の伝記のように、万人が共有しているものではない。よって必ず言葉による語りが不可欠なのだ。

そして、舞台上には背景やセットがない。登場人物らのホームグラウンドとなる船だけは大きなセットが持ち出されるが、明らかな現実(=現)の場だけは固形のセットで表され、そこから親王が踏み込んでゆく未知の世界(=異文化、夢、死)については、基本的に光とBGMだけで場面が表現される。ここでは物理的な移動も、親王が体感する精神的な旅も、すべて等価に一枚の平面空間=舞台で表される。そこに立体性を持たせるのは舞踏家たちの振る舞いと音楽である。

 

あらかじめ観客の手元には冊子でナレーションの言葉が書き起こされている(これは本当にありがたい)。

シーン構成は以下のとおり。

・儒艮  JUGON _南海・広州
・蘭房  RANBO _メコン川デルタ
・獏園  BAKUEN  _盤盤国(タイ南部バンドン湾)
・蜜人  MITSUJIN _アンダマン島付近
・鏡湖  KYOKO _南詔国(ミャンマー付近)
・真珠  SHINJU _南詔国の湖
・頻伽  BINGA _羅越国付近(シンガポール付近)

書き出してみると、天竺方面へ向けての舟による西移動だが、終盤はインドに上陸しておらず、ベンガル湾アンダマン海あたりをうろうろしていることが改めて分かった。

そしてこれらの移動は、物理的な越境だけでなく、夢、幻想、そして死の領域を行きつ戻りつするものとなっている。そのためもあって、上演中に流れるナレーションは、「解説」とは全く性質を異にする。例えばシーン「蘭房」の一節を引用してみよう。

ジャヤヴァルマン一世の後宮、蘭房が、この池の中の小さな島にあります。その後宮には体にただ一つの穴を持つ単孔の女、陳家蘭が、王の愛玩を受けていました。いよいよその単孔の女の秘密のベールが・・・

全く意味が分からない。これぞ澁澤世界である(誉め言葉)。

短編集もだいたいどの頁を開いてもこの調子なので、愛読者は特に驚かない。むしろこの、どの単語も事実、史実として検証しようがなく、全てとにかく「これはこういう世界」と受け容れないと始まらない感じ(誉め言葉)であるから、ナレーションにして正解だったと思う。「単孔の女」ってどういうことだ? つまりカモノハシやニワトリと同じく肛門と尿道口と膣口が一つになった女、ということか。どういうことや。

 

3.「文明が尽きるところ」と「死と夢」

本作の印象に残った点を挙げよう。

異世界の中で遭遇する理解不能領域、「異文化」の圧倒的な立ち上がり方が、壮絶である。これを個人的に「文明が尽きるところ」と呼んだ。

高丘親王は天竺という未知の国へ向う中で、中国やマレーシア半島といったこれまた未知の世界を抜けて進んでいくが、そもそもの「未知」の次元が現代人の我々とは違う。何せ、平安時代である。全ては伝説、空想の域であったろう。そもそも当時の人が、異界に対して「観光」や「視察」「巡礼」といった、フォーマットでの受け止め方ができたのかが不明である。異文化や異国を客観的、科学的に受け止めて解釈する態勢は、貿易、書物を介して考察を経た上で、近代化の中で身体に培われていったことだろう。平安人にとっては、現地を目の当たりにしてもなお、眼前の光景や人びとの暮らしは理解できるものでもなく、圧倒的に「伝説」の域のものであったのではないだろうか。この圧倒的「未知」を舞台上で立体的に表すこと、しかも澁澤世界という、その文体自体が奇怪な美しさを持ったものを、本作品の空間と身体においてどう表わすかが焦眉となっていたと察するところだ。

舞台上では海、国境を越えて次々に冒険が進められてゆき、目まぐるしく未知の世界が登場する。その際に、未知の国、土地として受容し、理解、コミュニケーションがまだ可能なものと、それが圧倒的に異質すぎて言葉が絶えてしまうものとに描き分けされていたと個人的に理解した。後者との遭遇の際には、ナレーションが停止し、言葉のない中で、機械的な音が響き、光に照らされた異形の者たちが、彫刻のように浮かび上がる。シーン「蘭房」の「単孔の女、陳家蘭」と、シーン「蜜人」である。

言葉も文脈も背景も絶たれ、舞台上で凍結した時間が流れる。観客が解釈の前後左右を奪われるとき、私の中で、文明が尽きた地点という言葉が浮かんだ。時間の凍結。人類による営みの成果物の多様さを幾ら勘案してもなお、ヒトが対応しきれない領域、理解の果てに到達した瞬間が描かれている。そこは、人類が発展させてきた最大の成果物である「時間」の概念をも超えた世界が切り立っていたように感じた。恐らくは、平安人の感受性によって直面した、知覚の限界の向こう側の世界である。

本作の特徴として、動物が人間と対等に登場する。ジュゴン、大アリクイ、獏、虎、猿のほか、人間と融合したものもおり、この陳家蘭(鳥とヒトのキメラ)、犬神(アヌビスのような存在)などが現れる。原作の小説を読んでいないのでこれらの扱いが本来どのようなものであったかは置いておくが、笠井舞台においては、圧倒的未知の世界として、ヒト文明の尽きるところ、時間というある規律正しいヒト世界の流れが垂直に切れ落ちて、ヒトならぬ者の世界、幻獣の世界との切断面にぶちあたったところが描写されているように見えた。それはすさまじく美しかった。

そして、シーン「蛮人」では凍結した時間から一変し、突然、激しく「世界」が崩れ落ちる。

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これまでのクラシック音楽や、池田亮司のような電子音がベースとなっていた空間は、零度に文明・時間が凍結したまま激しく崩落し、背景にはヒエロニムス・ボスの絵画の各部が連続して映し出される。世界の終わりと始まりが入り乱れる。貴人、僧侶、町人、農民、奇矯者、畜獣、聖なるもの、それらのイメージが秩序なく乱打、繰り返される。激しい舞踏と光と「楽園」が乱れ舞う、原初的な高エネルギーの場、意味は全く分からないが、ただただ「とてつもない世界に遭遇してしまった」というショックに近いものが眼前に繰り広げられる。世俗、神話が切り刻まれ高エネルギーでガンガン焼き付けられる麻薬的チャンプルー。土方巽の舞踏作品でもヒエロニムス・ボス『快楽の園』やミケランジェロ最後の審判』は用いられたことがあるらしい。聖と俗の反転、文明や信仰の崩落。なんという力だろうか。

 

また「死と夢」についても、本作では仕切りがなく、笠井叡無重力のような振る舞いも相まって、この物語では、畜獣とヒトの境目が曖昧であるのと同じように、生と死が「夢」という一つの世界の膜の中にあるかのようであった。

未知への探求であると同時に、本作は「死」を巡る物語だった。史実によれば63歳で中国の寧波に到着したという高岳親王は、平均寿命が当時30歳代だったことからすれば、最初から死を孕んだ旅路であった。

旅の動機となったのは、物語では7,8歳の幼少期に「天竺」という言葉を聴かされ続け、えも言われぬ陶酔感を覚えたという。その思いから後年に死出の旅をやっているので、まるで母乳と伝説・寓話の蜜で育ったような、血の代わりに伝説が流れている、そんなフィクショナルな存在として高丘親王は位置づけられている。作品前半では、「天竺」という言葉(寓話の世界)を吹き込んだ王の寵姫・藤原薬子との回想が度々現れる。そして終盤に差し掛かるにつれて、老いから迫りくる「死」が可視化され、ドッペルゲンガーとの対峙、湖の水面(=鏡)に映らない自分といったシーンが登場する。

最期は虎に身を投げて食われて終わるのだが、恐らくベンガル湾上の「魔の海域」を突破できず、そのままでは天竺に到達できない見込みであった。そこで羅越と天竺を往来する虎に食われてしまえば、天竺に到達できるのでは、という話を受ける。これを提案するのがパタタ姫という盤盤国の王妃だが、彼女は代々の王妃のミイラと共に現れる。詳細は忘れたが、その国では国王の意向によって、王妃は皆、ミイラにされる運命にあるらしい。生と死の境目は攪拌されている。

そのパタタ姫だが、かつて憂鬱病で寝たり起きたりしていた人物だったが、高丘親王が自分の夢を食べさせたバクの肉を食わせることで、その眠りを覚まさせてやったという経緯がある。

言わば、パタタ姫という存在は、現と夢と死の境界を越境させるガイドとしてこの物語に深く関与している。彼女の助言に触れることがすなわち、高丘親王に生死の境目を失わせる力を与え、暗闇に明滅する虎が捕食者ではなく、天竺という極楽への往生を果たすための運び手へと転化する機会を与えたと言えようか。天竺はもはや地理的な場ではなく、概念上の場、死後に向かうべきところと化しており、死と天竺をいかに結び付けるかの理屈付けの整理がなされている。そこで、死を越境することが宿命づけられたパタタ姫の助言が効いてくる。彼女は死後ミイラにされる(=死後も死なない)運命に縛られた存在であるから、その助言は死を越える理屈付けの効力を持つのだ。

 

一貫して場面の区切り、各国の境目はあってないようなもので、まるでその壮大な旅の体験の全てが「夢」であるかのような、この不確かな、暗い宙の中を舞い続けているような感触が、非常に独特であった。ライトの当たっているところは意識、生の時間とすれば、それ以外の影、闇の部分の多くは無意識、死となるのだろうが、ナレーションの語りが終わり、音楽と舞だけがある場面では、それが現なのか、夢、伝説の類の世界なのか。

書いていても、思い出そうとしても、やはり長い長い夢だったように思う。具体的なことは、何も思い出せない。舞踏における手足の動きや演者らの配置を「言語」として認知できていないため、記憶に留められないのだろう。惜しいが、それで正解な気もする。平素の慣れ親しんだ言語や認知の向こう側を見せるという意味では成功しているというわけだ。バクの人形は可愛かった。

 

このような感想を書き留めるのに、実に1週間近くも掛かってしまった。多くは間違っていたり不正確であるだろうが、とにかく、この「夢」を忘れてしまうことだけは避けたかった。

 

( ´ - ` ) 完。