KYOTOGRAPHIE2018で最も面白く、感動した会場「三三九」(さざんがきゅう)・旧氷工場のことを語ろう。
プロフォトグラファー桜井氏と二人して、作品よりむしろ会場に感動するという、謎の熱いひと時を過ごしました。
これが工場だと・・・?
言われないと「かつて製氷工場だった」ということすら分かりませんし、それ以上に、ここで写真展示が行われているにも関わらず、写真作品の存在感が溶け込んでいて、逆に工場の力が増強するするという、とんでもない逆転現象があります。何がどうなってこうなった。
写真展を見に来たはずなのだが。
◆ギデオン・メンデル(Gideon Mendel)「Drowing World」
先述の、世界13か国における洪水被害での写真と映像作品のうち、ここでは写真を展示していますが、見事に工場が作品を取り込んでいます。どういうことや。
( ゚q ゚ ) どういうことや。
写真のパワーを取り込んだ工場。現役稼働時よりも、この瞬間が最も漲っているかもしれない。リノベーション事業によって消滅するようなので、かなり残念だが・・・
(参考)映像作品
フォトグラファー桜井氏に至っては、彼は人物写真を旨とし、商業と作家の二刀流で駆けておられる方なので、この味わいのある無機物楽園はまさに創作の玉手箱状態です。
「いやもう」「ああっ」「いやこれは」「やばい」等と、激しい昂ぶりがあり、感動のバイブレーションが、私のすぐ隣で漲っておられるので、「はあ、人物写真やらはる人は、いろいろ活発どすなあ」と他人事みたいな顔をしていたものの、知らない間に熱が伝染していました。やばいどすなあ。やばい。
やばい。
やばいし。
ああやばい。
あかんやばい。
やばいなー。
( ´ - ` ) これ写真展の会場にしたらあかんと思う(悦び)
( ´ - ` ) 二回も行ったのに写真全然見てない(悦び)
たいへん稀な現象ですが、写真作品があることによって会場の空気が引き締まり、場の力が逆転して、その場にある全てのノイズが主旋律となって襲い掛かるという、大変幸せな時間でした。
ひとえに、ギデオン・メンデルの作品のクオリティが高く、グラフィカルな美しさが立っていたため、工場部品の背後へと回り込んでしまい、力が逆流したのだと思われます。彼の作品は、写真自体に言葉が持たされておらず、むしろジャーナリスティックなメッセージを回避する眼差しです。逆の意味で会場と相性が良かったということになります。
これは他の鑑賞者も同じ作用に見舞われていたはずです。元々、KGの離れ会場を見に来るような人種は一定のレベルを超えた「写真バカ」(※誉め言葉)ですから、皆、見るより撮る方が好きなわけです。この「場」に全方位から襲われたら、ひとたまりもありません。皆、会場を一生懸命撮っていました。不思議な光景でした。
無機物のシステムが、長い時間をかけて土や水に侵食され、有機物に近づいていく。その交響が生み出すオブジェは、たまらなく美しいのです。よかったですね。
感動した。
こういうものを心底好むというのは、思うに我々、モダニズムに回帰しつつあるのではないでしょうか。
ポストモダンなるものが、ジャン・ボードリャールやジャン=フランソワ・リオタールによって語り出され、デリダやフーコーが吹き荒れ、差異と表象、物語なき世界、その極地に立って・・・あれからもう40年近く経過しています。
結果、皆は、それぞれの立場における安定、それぞれの「芯」を欲しています。自国の大統領を選ぶのに、世界のバランスなど考えたくもない。信じるもの以外は、フェイクニュース。そんな「芯」です。大きな物語や真実、包括的なメディアはもうありません。顧みる余裕もありません。しかし個々人の分化した極における「芯」や「核」は、緊急事態の如く、強く欲されています。騙されたくない、不利益は被りたくない、けれど頼れる「柱」が欲しい。
このような近代的な廃墟の、武骨な力強さに引き付けられるのは何故でしょうか。もう表象や差異でイメージを遊ぶのに飽きているのでしょうか。体力がなくなったのでしょうか。これら古い建築等には、近代に特有な、確かな力を感じられるからでしょうか。
自身が決定的に寄りかかれる、しっかりした世界がほしい。力が欲しい。その願望が、私たちを廃墟や、ひいてはバブル期、昭和的なものへ駆り立てるのでしょうか。
今回のKYOTOGRAPHIEで深瀬昌久、須田一政が登場したのは、何かあるような気がします。あれは良かった。たまらない。この廃工場も。たまらない。何か、あるような気がします。
あほなこと言ってないで工場2階に上がりましょう。
2階です。ここは人気で、来場者が入れ替わり立ち代わりで撮影です。
みんな廃墟、廃屋のイメージ好きすぎです。単に「絵になるから」「いいねがつくから」では説明がつきません。民が希求している世界像は、「未来」ではないのかもしれません。
◆アルベルト・ガルシア・アリックス(Alberto García-Alix)「IRREDUCTIBLES」
形容詞「irreductible」には「単純化できない」「帰すことができない」といった意味があります。
スペインのレオン生まれ。
写真がめっちゃいい。これはすごい。
日本初の展示で、作者の詳細は不明ですが、作者の魂と触れ合う仲間を撮っているのだと思います。解説文では、作者が気難しい人間であること、反体制的な気質を持ち、常に秩序を嫌うことが触れられています。独白の詩篇のような動画作品では、アンダーグラウンドに身を置き、薬物依存(注射針の写真からするとヘロインか)の暮らしにあったことが言及されています。
写っているのは親愛の情、愛、絆、敬意、仲間ですが、確かに登場する人物らは、どこか陽の当たらないコミュニティに身を置いていることが伝わります。誰にも顧みられない人達を個人的に撮り続けた。しかしそれぞれの人物はスターのように誇らしく存在感を放っています。
彼ら・彼女らが何をしている人たちなのかは不明ですが、それぞれが生粋のアーティストであるかのように、魅力を湛えています。パーソナル・ドキュメンタリーにしては拡張高く、フレームと被写体の距離がありすぎ、ポートレイトにしてはダークスターの香りが効いています。
普通の人ではない、表舞台には立たないであろう人種の香りです。麻薬や夜の味がします。ファッションフォトの分野では巧妙に排され、また演技によって装われる陰なるものを、肉体に宿している人たちです。
忘れていましたがここも会場は氷工場の続きです。こちらは氷の倉庫だったのか、下の工場とは全く違って明るく、まだ展示向きです。それでも木の扉などが上品すぎ、どこかよそよそしいものを感じました。
それはアルベルト自身が本質的に闇、陰の住人であり闇の詩人だからです。動画を見ていて、この人は本当に深いところにいるなあと痛感したものです。
以下は上映されていた動画の、印象的なカットを撮ったものです。
どうですか。自分の息子・娘がこんな記述をしたためていたら心臓に悪くないですか。しかし良いですね。国語の授業に使いましょうよ。定期的に打って摂取したくなる映像です。中・高では英国数理社+映像をやると良いと思います。映像は現代の国語であり、文法でもあり詩でもあり、社会そのものです。闇を摂取すると生きるのが楽になりますよ。魂は救済が不可欠です。
youtubeを漁ったのですが、アルベルトに関する動画は英語ですらない(スペイン語?)のでわけがわかりませんでした。残念。
会場の展示では控えられていますが、彼は男性器、女性器がモロに出た写真も撮るし、 注射針を腕に射した写真もあり、そうした覆い隠されるべき混沌とした暮らしが彼の「日常」で、そこから見た「真実」や「愛」が結晶化されたのが、彼の写真となっています。その精錬の工程では、都市のシステム、秩序に絡めとられることを拒んでおり、独特の濃度の闇が透明度を以って抽出されているようです。
最も存在感が「立っていた」写真たち。恐らく彼・彼女らは、都市のシステム側(役人や議員、警察など)からは揶揄され、はみ出し者と警戒されるのでしょう。マイノリティと名付けることすら出来るのかどうか不確かな存在。名前の分からない、陰鬱だけれど繊細でどこか気になる花のような存在です。
いい写真でした。
中学生めいた落書きが多いのは残念ですが、展示会場のみならず、撮影きちがい(※誉め言葉です)に貸し出すことで何か生まれそうな場でもあります。
三三九さんには、取り壊しまでの間、大胆な利活用を図っていただきたいものです。 少なくともポトレ専門家は泣いて喜ぶのであります。桜井氏の要請で何ヵ所かロケハン的なカットを撮りました。美女と廃墟の取り合わせは万人の好むところです。ここなら金粉を塗ったおっさんを立たせても多分いける。
配管がガチで危険なのか中二病なのか分かりませんが、しっかりと書き込まれた「死」が印象的でした。
死なない間は生きていけるということで、あたりまえや、頑張ってまいりましょう。
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