nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG】KYOTOGRAPHIE 2017(無名舎、誉田屋源兵衛、元・新風館 etc)

 4/15~5/14でKYOTOGRAPHIE(京都国際写真祭)が開催中です。無名舎、誉田屋源兵衛、元・新風館あたりをまわるの巻。  

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不穏な私。

 

今回は烏丸のあたりの会場を回ります。5月のような陽気とすばらしい陽射しで、世界の不穏や貧困のことがうそのようです。うそかもしれません。酒をしたくなります。うそめいた世界を酒を触媒にしてこの身に転写したいです。

 

 

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阪急の烏丸駅構内は天井が低く、虫のようにひしめいていて、非常にスリリングです。これを中判カメラで徹底的に撮りたいのですが、誰か中判カメラください。いいなあ。いつか駅を貸し切りたいです。いいなあ。乙女のようなことを想いながら生きています。分不相応です。

 

 

 

今回はこちら。

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<巡回先>

【赤】No.12 無名舎 / No.10-11 誉田屋源兵衛 / No.6-7 元・新風館

【黄】No.8 野口家住宅 花洛庵 / No.10-52 元・新風館

 

※【赤】KYOTOGRAPHIE 【黄】KG+

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【KG_No.12 無名舎】○殷 家樑(ヤン・カレン)「Between the Light and Darkness 光と闇のはざまに」

 

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謎に四条烏丸駅から迷子になりました。登山をしていたとは思えないほど狂った方向感覚の持ち主です。 無名舎は素敵な空間なのでまったり味わいましょう。 

 

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 ヤン氏のコンセプトは初見で読んでみても、概念的すぎてよくわかりません。KGスタッフの方のガイダンスと、ヤン氏の作品とが合わさって、この作家の取組みはすごい、ということが理解できます。

 

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先に物販を覗いたりして脱線。

ヤン氏出演の現地取材、撮影、会場セッティング等のメイキング映像が流されており、どのようにこの高度なドキュメンタリー作品が生み出されたかのヒントの一端を与えてくれる。また、撮影に当たっては富士フイルムの中判デジタル・GFX 50sが用いられていることなどが分かる。が、実際には撮影力だけでなく高度な編集・デザイン力、ひいては取材力、コラボレーション力が総動員されていることから、「おれも中判を買えば張り合えるのだ」等の錯覚を起こしてはいけません。ほしいですけど。ほしいなあ。

 

  

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生命、存在が、愛憎が、太陽と月、昼と夜のように循環していることを捉えるという取組みです。テーマの規模が大きいです。力のある人にしかできないことです。うらやましい。普通やると自滅しそうです。うらやましい。

 

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半年間、京都に滞在し、伝統的な工芸職人の仕事場や手仕事に向き合うという取り組みが写真の形で表わされていますが、それは「京都の職人を紹介します」といったものでは全くありません。職人、写真作家の向き合う精神の場所、ひいては、伝統工芸や写真といった分野が追及している「光と闇」というものについて語っているように感じました。

 

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展示に際して作成されたカメラオブスキュラ。スキュラたんかわいいですね。カホンを横置きしたような形状。この木、蝶番の金具、内部の鏡などは、それぞれに京都の職人さんが仕事をしておられ、かわいい外観ながら何気に技術、歴史が高い密度で込められています。

 

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箱を置く黒畳がめちゃめちゃにカッコいいのですが、これも畳職人さんの仕事。たいへんに渋いです。白く光沢のあるスカートなどをはいていくと写真映えします。正直スカートがないと人生損した気分になります。男子の皆さん白いスカートが似合うように頑張りましょう。 

 

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綺麗でつやつやした木蓋を開くと、映像が見えます。和紙に転写された、午前の光。お庭の木々が優しく動き、写真の原型とか生みの親とか言われているカメラオブスキュラですが、写真ともまた異なる魅力、魔力があります。ずっと見ていられる。

 

 

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会場の展示スタイルが冴えまくっていて、歴史的・文化的な京町屋の室内で、堂々と張り合える写真に。それはもう写真の力があるからです。これは茶碗を昔ながらの野焼きにかけているところですが、説明されないとそうと判りませんでした。生きているようなエネルギーと、ぎゅっと封じ込められた祈りのようなもののように見えたのです。

 

 

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古代魚を丁寧に甦らせるような、凄まじい仕事です。

工具ですよね。どうなってんの。しかも職人の側からすれば、日々使っている何気ない日常言語のようなもののはず。それがこうなるんですか。うわあ。えぐい。何気ないブツを写真の力で亜生命の域に引き上げる、という取組みは私の重要なテーマですが、描写、敬意のほうへ針を振り切ったお仕事は正直したことがないので、参考になります。

 

2階の展示方式も大胆です。部屋の中央に竹を通し、その両脇に写真を吊るしていく。これは四国――徳島でしたかね、和紙を作っている現地で、干している光景を見て、インスパイアされたのだとか。写真のプリントも阿波の和紙を用い、現地でプリントしたとか。

 

こういうわけで写真展というよりも、

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日本の伝統工芸、産業そのものに触れているような実感があります。こういう体験は初めてです。写真業界あがりの人間には出来ないことだと確信しました。実際そうで、印刷・出版のアートディレクターとしてキャリアを開始された方でした。ですよねー。写真の中身からしても、画面構図のデザイン性の高さ、大胆な背景の抜き方など、「写真」のルールに囚われない技が盛り込まれています。

 

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絶対に生で見ておくべき。

私はちょっとこの作家さんは桁違いだなと思ったので、写真集を買いました。これも頭一つ抜けた、良いデザインで、勉強になります。

( ゚q ゚ )ぐう。

 

年いっこ下の人なのに何なんだこれは どういうこと

 

才能か

 

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「人生とは何なのか」。だんだん目がうつろになってきて、ぼんやりしていると、にゃんがやってきました。くだらない年上もいれば、強烈に光る年下もいるし、10以上離れた若手が上司のように老成していることもあります。人生とはなんでしょうか。悠久の平和を感じます。ただならぬざわざわした荒波と、おだやかな満たされた凪とが心中共存し、にゃんの背中を見ていると、後者が勝ってきました。いい天気です。ぞわぞわします。5月かなと錯覚します。まだ4月だよね。にゃんは木に飛び移りました。穏やかさが躍動します。なぜこんなに面白いんだろうかと思います。この作品は面白い。ざわざわします。

 

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写真だけしか撮っていない人の写真は、だめです。つまらないと思うことがあります。思惑が透けて見えたりします。どうや、おれはすごいやろう、という声が聴こえたりします。綺麗なものは、綺麗に追われると、永遠に逃げます。きっと、どこにも辿り着きません。カラオケやお習字を思い起こします。残酷さや酷薄さを見なければ、キャバクラのようなところでぐるぐるしているだけになって、そのうち寿命が来て、死にます。そう、私達はそのうち寿命が来ます。やだなあ。その折り合いの中で何かを見つめて、どれかを掬い取って、何かを伝えようとしています。やだなあ。結局は、何だかんだいいながらも、生と死に向き合うことと同義なのかも知れません。残念です。無関係で居たかったのですが。私もこの世も、生きて死ぬものであるならば、生と死を巡って踊り明かすほかはなさそうです。残念でおます。仕方ないか。

 

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 あうー。

 

 

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 取材源が豊富ですが、誰がどうやって交渉してこの展示の礎となったのでしょうか。マネージャー氏が敏腕だったのかな。

  

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デザインや編集、さらには哲学や、自分の日々携わっている職業・職務に対して真摯であれば、良い展示が実現できるようになるかもしれません。ということを祈りつつ、昼ご飯を探しに旅立つことにしました。ずっと居れる会場。

 

 

 

【KG_No.10 誉田屋源兵衛 竹院の間】○メイプルソープ写真展「MEMENTO MORI」/ピーター・マリーノ コレクション presented by CHANEL NEXUS HALL

 KYOTOGRAPHIEでは毎度おなじみの会場、誉田屋源兵衛(こんだや・げんべえ)。京町屋の敷地内で蔵を改造したギャラリー「黒蔵」(くろぐら)が面白いが、今回はその手前の屋敷内が第一展示会場として開陳されています。

 

 

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 しかもメイプルソープ

 

\(^o^)/ メイプルソープ

 

 

大学に入った頃ぐらいから好きで、自伝などを読んでいました。70~80年代ドラッグカルチャー、アンダーグラウンドの状況に触れようとすると、彼を避けては通れません。しかも、写真家。何者なのかと思いました。そういう世界を可視化すべく踏み込んだジャーナリストかなと思いきや、思いっきり人生がAIDS禍に体ごと突っ込んでいるし、作品自体が只事ではない。一体何なんだこの人はと。

 

 会場が撮影禁止です。みなさん脳裏に何が残りましたか。プラスでもマイナスでもない、温度の概念の消失した世界。蘭の花、黒人男性のぷりけつ、スキンヘッド、男性器、変装者、胸骨や腹筋。それらが等価にぽんぽんと立ち現れる、不思議な時空がありました。人物は多く撮られていますが、おそるべきことに、被写体の彼・彼女らが何者なのか、その来歴や固有名詞、感情、属性、将来性などすべてのものが剥ぎ取られています。しかし標本ほど冷徹なものではないのが驚きです。記録的な客観性ではないのです。内側からどこか濡れた眼で見据えられている。美を湛えています。なぜ美しいのでしょうか。写真家は心底惚れていたのでしょうか。これを愛や恋の感情と言うのでしょうか。違うと思います。ではフェティッシュの眼差しなのでしょうか。文法はその作法が用いられていたとしてもそれだけではこんなに相手に丁寧な眼差しを注げるでしょうか。黒人男性のぷりけつ、あれは良かった。リズムがありました。リズムの心地よさ。快楽刺激を全て視覚上に逆転写したようなプリント。

とても粒子が細かく濃密であるような、上質な電子音楽のビートに恍惚を得るとき、似たような描画を感じることがあります。通常人が一生の間に体感する快楽の量と質に比して、彼の場合は色んな挑戦を試みており、人体の限界を行く実践者であったのですから、凡夫には見えない美が見えていたとしても全く不思議ではありません。何か糸口があるようにも思いますが、それだけではあのぷりけつ、あのスキンヘッドは撮れません。

 

( ゚q ゚ ) 良すぎて二回観ました。先々家庭などを持ったらこういうものを妻・子供にはしっかり見せたい所存です。ころされますかね。美に死にたい。いや。うそです。ぷりけつ。

 

 

【KG_No.11 誉田屋源兵衛 黒蔵】○イサベル・ムニョス「Family Album / Love and Ecstasy」

 

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黒人男性の臀部がプリプリであったこと、男性器の描画がたいへんに丁寧であったことなどを踏まえて、すぐそこの「黒蔵」会場でまた全然違う展示です。気持ちを切り替えましょう。激しいな。

 

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「われわれ人間はもはや、「感じる」のではなく、その先の何かを見ることができるのではないかと、高慢にも「考える」ようになった。」

 「(ゴリラやチンパンジーと人類を比して)両者の遺伝子がどれだけ似ているかにもかかわらず、われわれは彼らの方に、人間性の欠如があると決めつけている。彼らとわれわれを生まれながらに枝分かれさせた部分というのは、おそらく精神的な部分であろう」

 

 

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耳が痛い。作品を見ると、彼らは同じヒト科の、親しい者として映ります。こういう部族の人々なのかな、という思うぐらい。思慮深い眼差しが心をうちます。

 

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「人間の目との大きな違いは、彼らの目に白目の部分が欠けていることだ。白目があれば、視線の向きがはっきりして、意思が感じられる。類人猿の真っ黒な目からは、出合った出来事をひたむきに受け入れようとする直接的な感情が伝わってくる。そこに、人間のような下心は感じられない。」

なるほど。

 

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確かに言われてみれば白目がこんなに大きいのは人間ぐらいか。 

 

この二人(二頭)が抜群に哲学的なよい表情でした。

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 哲学者だなあ。

 

二階から右翼の勇ましいBGMのような、変な音楽が流れてくるので、みにいきます。なんやろうか。

 

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 \(^o^)/ スーフィズム!!!

 

メヴレヴィー教団のセマー(旋舞)です。昔、世界史で習ったことがありますが、動画では初めて見ました。しかし変な動画で、首は傾いたまま、体の大部分が固まったままで、写真をそのままCGでぐるぐる回しているような、気持ちの悪い動画です。異様な気持ちになります。悪い夢プロジェクトかな。元々そういう踊りなのならすごいことです・・・

 

類人猿のポートレイトと同じ作家さんなので意味が分からなくなりました。変なテーマだ。。しかも老人男性がカミソリを口に含んでいる大きな顔写真があります。意味が分かりません。

続きはこの上と、未知の部屋へと通されます。小さな螺旋階段を上って、最上階へ行きます。

 

 

 

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(※実際の写真は少々きついので掲載しません)

 

/(^o^)\ ???

 

みんな頬に異物を突き刺している。貫通している。どういうこと。

 

シリーズ名「九皇大帝」とは、マレーシアにおける道教のお祭りらしい。タイでも東南アジアの華僑さんが信仰していて盛大に爆竹を炸裂させたりするようだ。そこでは、トランス状態になって顔に刃物や串を差し込む人たちが存在するらしい。詳しいことは分かりません、会場にもそのあたりの解説はなく、ただただ「神妙な顔で異物を頬に突き刺しているらしき人たち」のポートレイトを観覧することになります。

 

痛い。演技、ポートレイトのための演出かと勘繰ったが、実際にこういう祭があるので、実際の貫通なんですね。いたい。

 

中央がこれ。

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/(^o^)\ ??? 

 

人が極限状態ですが。痛いのダメなんでちょっとつらい。胸や背に針を通して鉤で上から吊り下げて、皮で自重を支えています、いや、痛いと思うんですがどうなんでしょうか。後で調べたらめっちゃ痛いらしいです。あたりまえや。サスペンションという行為だそうです。アートとして、あるいは何か崇高なものへの到達、信仰に近いものがあるということですが、ちょっと分からないです。

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 「それゆえ、鉤針で吊り下げられている人間を見ることにもそう驚く必要はないはずだ。皮を剥がれ、血を流す人間の姿に、神を想起さえさせるが、何の必要があってのことなのか。」

 

いや ( ゚ p゚ ) 驚きますが。

 

 

結局人類とは何だったのか。

大きな謎が残った。

 

 

 

【KG+_No.8 野口家住宅 花洛庵】○Claire de Virieu (クレール・ド・ヴィリユ)「Nara:A Double Passion」

 今度は痛くない。

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 うって変わって落ち着いた古民家へ来ました。

もう人体改造やめてよ。

 

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会場が撮影禁止な上に、言葉で説明できないので、KG+のHP画像より紹介。

奈良とフランスを撮った(?)作品。

 

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これ奈良の情景を撮影? した写真?だということです。穴があくほど凝視してみましたが、どうやって作ったものなのか、そもそも何を撮った?ものなのか、分かりませんでした。恐らく山や海、打ち寄せる波や、こんもりした木々などだと思われます。奈良に海は無いはずですけれども、どう見ても打ち寄せる波です。たぶん。像がまるではっきりしません。このメタレベルの「形」以前のかたち、「自然」以前の何かむき出しのものを、私達はなんと呼べばいいでしょうか。

写真の画像内に刻まれた無数のヒビからして、漆喰のような、建材みたいなものに一次プリントを施し、それをもう一度ブツ撮りしているのではないかと思いました。

もう少し解釈のヒント欲しい。。

 

 

 ものすごく迷子になりながら歩きます。夫婦仲や友達の親密度などが試されると思います。条里制の街は分かりやすくて歩きやすいだなんて嘘だ。

 

【KG_No.6、No.7 / KG+_No.10、No.44、No.45、No.46、52 元・新風館

新風館という、少し古風な建物が烏丸の中心にあり、商業施設が展開されていましたが、今は解体が進んでいました。いつのまに。。残念だ。内部取り壊し中でざっくりとソリッドな表情を見せる元・新風館が、大々的に会場として活躍します。

 

<KG_No.7> Susan Barnett(スーザン・バーネット)「Not In Your Face」

 

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Webページのデザインと現実世界がマッチしたような、不思議な光景があります。晴れた京都っていいですね。 

 

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 「Tシャツのポエティクス(詩学) / ポリティクス(政治学)」

メッセージのプリントされたTシャツを着ることは、詩的であるとともに、政治的な運動であるという指摘。シャツのデザインと主張が集の力を帯びると政治化していくのは、選挙運動のボランティアスタッフ、ライブ会場における一体感などを見るとよくわかります。SNSによる春が世界各地で起きる時代ですから、こうして草の根的に穏やかなメッセージを着ることの効果は推して知るべしです。

 

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私は度胸がないので、「LOVE」「愛」はちょっと恥ずかしくて、背負ったことがございません。もういい歳ですので、そのうちやりたいと思います。いつだろうか(遠い目) 愛ってなんだ。

 

愛ってなんだ。うわごとを繰り返しながら新風館だった廃墟めいた空間へ立ち入ります。

 

 

<KG+_No.44> 屋久島国際写真祭(YPF)セレクション展

 

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屋久島国際写真祭」 は、2015年10~11月に屋久島で催された、日仏共同でのアートイベントです。3年間継続される予定で、仏のデザイナー、写真家と、日本在住の写真家らが屋久島を舞台に作品制作、展示を行い、また、ワークショップ等を通じて、島民や来場者が相互に交流するというものです。

 

 

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なんか面白そう。現地に一定期間滞在して作品作りできたらなあ。 

 

 

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 ただ、そこはやはり写真。色んな撮影者の作品を1枚ずつバラバラと置かれると意味がまるで分かりません。ある程度まとまった塊で、文脈を見せてくれないとひどく難しいです。

 

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この組み写真はコンセプトがしっかりしていてすぐ分かりました。野晒しの「自然」が、道路や橋を食い破り、人工物を飲み込んでゆく姿があります。コンクリートは自然破壊や自然制圧の象徴でありますが、今後インフラのメンテナンスが行き届かなくなった地域では、寿命を迎えた人工物が自然に逆浸食されていくのでしょう。

 

 

<KG+_No.10> Elena Tyutina(エレナ・チュティナ)「Disappearing」

 

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まとまった数で見せてくれます。詩を感じます。雪国の中の静謐なリズム。

 

 

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 私もこういうのやりたいなあと乙女のように思うことがあります。ミニマルなオブジェは写欲をかきたてますね。なぜでしょうか。

 

 

<KG+_No.52> 藤原 聡志 (Satoshi Fujiwara) 「ルポルタージュルポルタージュ<2015年11月14日>」

 

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2015年11月14日は、パリで同時多発テロが起きた日です。あまりに日々の出来事が多く、時の流れが速いため、すっかり綺麗に忘れていましたが、あのとき先進国は震撼しました。サッカースタジアム、バタクラン劇場、カンボジア料理店などが同時に襲撃され、西欧先進国であるというだけの理由で一般民間人が無差別に狙われることを、改めて知ったものです。 

 

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この作品は、当時、パリに居合わせながら、錯綜する情報と混乱の中で、自身の身体感覚とメディアやSNS上で起きる動きとの間にギャップを感じつつ、事件翌日に撮影されたもの。

生身の体で感じる「事件」は、よほどダイレクトに影響を被らない限りは、あっさりしたものというか、当事者にすらならなかったりします。阪神大震災がそうでした。私の家は揺れたのですが、せいぜい震度3程度で、同じ「関西」であるにも関わらず、完全に部外者でした。学校から帰ってくると、TVでは世界の終りのような都市景が次々に流され、脳内で何かが加速するのを感じました。どこにも行き場の無い速度感です。純粋な興奮のようなものでしょうか。当時SNSがあったならば、その加速したものをぶちまけていたかと思います。そういったことを思い起こしました。

 

 

<KG+_No.45> PR-y「DISTORTION

ぐるぐる踊っているようなので、また神秘的なスーフィズムかと身構えました。ちがいました。

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 会場ではこの美しい光景が何なのか分からず、なんかきれいですねと呟くにとどまりました。後で調べると、「やまなみ工房」という福祉施設で行われる入所者の創作活動の光景だそうです。特にそういう背景を思わせない、神秘的な術のような世界が映されています。

 

 

 

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<KG+_No.46> 写真集展示

 \(^o^)/ これは楽しい。

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しかしコンセプトや物語性が重視される昨今の写真界では、純粋に「かっこいい」「しびれる」「やばい」という写真集がありません。私は写真のパワーが欲しいのであって、どうなのかな、細分化し過ぎてませんかね。私はVIVOの世代や、ニューバウハウス、ニュードキュメントの世代がやはり好きです。パワーがどこか突き抜けています。写真というメディアの底知れぬ魅力がありました。 私あほなので、コンセプトだけでは悦楽を得ることが難しいのです。狂気を求めているのではないでしょうか。正の狂気、負の狂気、どちらでも良いのですが、針の振り切れるものに被曝したいと願っています。水谷吉法の世界は狂気があり、たいへん好きです。

 結局買ったのは「TOILETPAPER」シリーズと、ヤン・カレン「光と闇のはざまに」です。どちらも共通しているのは他を完全に圧倒する画の力、映像力、世界観のぎらぎらしたパワーです。パワーがほしいです。パワーを愛しています。

 

 

<KG_No.6> 吉田 亮人 (Akihito Yoshida) 「Falling Leaves」

写真仲間のさとーさんが「この展示は悲しくなっちゃうよ・・・」としょんぼり気味でした。さてどうでしょうか。 

 

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テキストからしてもう。

( ゚ p゚ ) えらいこっちゃですよ。

しかし、この展示を見る頃には、あまり読んでいないのです。夕方まで立ち見がずっと続いていて、疲労から「本人はテキストを読んだつもりになっているが、大半ナナメ読みになっていて要点わかってない」という面白い状況に陥っています。月72時間を超えて夜勤が続いた看護師のようにあやふやです。

  

 

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 死は森の中で、

人の命は、枯葉が散るようにはらはらと、

 

誰かの死のことは、どれだけ傍に居た人でも、謎のままです。言葉ほど信じられないものもありませんが、悲しいことに言葉ぐらいしか安心できるものがないという、宇宙の暗闇を綱渡りしているのが現世の営みでもあります。死は理解を拒む謎であり、その死に連なることとなった生の時間についても、死に方によってはなお一層、謎へと転じます。それが謎となってしまうと、関わった全ての人たちの人生そのものが、恐ろしい不安の巨人へと成り変わってしまう恐れがあります。遺された者たちは葬儀や思い出語りや宴の力を借りて、多くの手続きと解呪のスイッチを押し、死を穏便に処理します。そういうことを思い出しました。最近葬儀も行っていないので久しく忘れていた苦々しい味わいです。

 

 

後味めちゃくちゃでしたが、烏丸御池をちょっと三条通へ、三井ガーデンホテル京都三条のほうへ入ってしばし歩くと「やすい直(なお)」という地酒のおいしそうな店がありまして、

 


リーズナブルだし、料理美味しいし、なんかたいへん堪能しました。親子丼が秀逸でしたよ。穴場です。

 

ぜんぜんKYOTOGRAPHIE回れてないw /(^o^)\