nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/KG】KYOTOGRAPHIE 2017(虎屋、ギャラリー素形、嶋䑓ギャラリー等)

はい。KGですよ。虎屋、ギャラリー素形、嶋䑓ギャラリー等を回ります。

家から京都遠いんだが。

この世にはアートジャンキーという人種が一定数いまして、過食的鑑賞と言いますか、鑑賞依存と言いますか。観ることで人生の必須栄養素を摂取して暮らしています。展示する側に早く回りなさいというのが関係者の声ですが、はい。少々お待ちください(汗

 

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 一言に写真といっても色々な撮影アプローチ、展示手法、テーマ設定というものがありますね、KGを巡回すると個性が咲き乱れていて、皆全く異なります。一方で「良い展示なんだけど、これ滅茶苦茶コストかかってるだろ」と打ちひしがれることも多々あります。金か!そんなものはない!! 皆さん色んな発見をしましょう。

 

 

 

 

同時に回ったKG+は別で切り分けてupします。

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 <今回の巡回先>

【赤】No.1 虎屋 京都ギャラリー / No. 4 ギャラリー素形(すがた)/ No.5 嶋䑓(しまだい)ギャラリー

 

 

【KG_No.1 虎屋 京都ギャラリー】○フランス国立ギメ東洋美術館:写真コレクション 

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今出川の虎屋・京都一条店では虎屋茶寮があり、絶対美味しいと思うのですが、結局KG会期中に立ち寄ったことがない。一生食べないおそれがあるので誰かおごってください。  

 

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2年前からKGに行っていますが、虎屋のギャラリーはギメ東洋美術館の写真コレクションを続けて展示しています。これまでは、鎧姿や帯刀した武士の、いわゆるJapanese Samuraiのモデル撮り。徳川幕府の末期~明治以降、武士社会が消滅していくあたりで撮られたモノクロ写真に着色を施したものです。

今回は、遊郭、芸者の写真に特化しています。

 

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1910年前後の遊郭、吉原。電気の照明が来ていて、電柱が立っていますよ。道も石畳で舗装されている。柳の樹が風流を演出する一方で、当時のハイテクを尽くしたインフラが整備されており、文化・欲望・金銭・技術の集積場となっていたことが分かります。着色がやや高テンションゆえ珍奇なテーマパークにも見えますかわいい。

 

 会場内はこんな感じで、虎屋茶寮の順番待ち(この日は1時間とか)の人が多かったのかわりと賑わい。

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 太夫(たゆう)と花魁(おいらん)の定義からきちんと説明してくれます。まず一般の「女郎」(prostitutes)とは異なり「高級遊女」(courtesans―クルチザンヌ)であるということ。また、ファッションが独特であり、付き人の存在、幅広い芸と教養を身に付けていたことなど。

 

「花魁」の存在感の威容について、頭の先から足の先まで、歩き方まで特異かつ優美で豪奢なスタイルを有していたことは、歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)の冒頭を見るとよくわかります。あんな高い履物で歩いたら転んで深刻な骨折に至るのではと心配になる。

 

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 鏡えらいこっちゃ/(^o^)\

魔界の生き物のようです。遊女の内面が具現化したのか。

 

 

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 べんべん。これ楽しいんかな。まあ鴨川見ながら美女に囲まれて飲んだらそりゃ楽しいか。膝枕されてる黒いきたないのがいますが、客でしょうか。こういう当時の文化、人々の生態がはっきりと遺される点は、写真すごいなと思います。

 

 

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花魁と芸者の運命の分岐について分かりやすく触れられています。花魁は明治時代の価値観には合わず、縮小していく。芸者は「雅な慎ましさ」が評価されおり、「社会的役割」を増していく。社会ですよ社会。政財界との関わりでしょうか。伊藤博文だな。あの人遊びまくってたらしい。その精力が実にうらやましい。実際当時の芸者は国のエリートを接待して楽しませるだけの教養を有していた。今の国会議員はんなんぞとはわけがちゃいます。

 

 

「ぽん太」ってw 芸人みたいなブスキャラを想像していたのだが

 

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 芸者ぽん太。まじかよ。現代でも十分通用する美女。顔面のデッサンが整っている。すこぶる羨ましい。

夫となった鹿島清兵衛が写真好きで、このような芸者ポートレイトを遺している。酒問屋の跡継ぎだったが、趣味の写真が好きで本業にし、金に糸目をつけず機材を買っていたなどの逸話。西洋からの機材の輸入を積極的に行い、国内の写真家にも支援を行うほか、写真の品評会を開催するなどして日本に写真文化を輸入し、アマチュア写真家らの活動を後押しするなど、日本写真史上の貢献が評価されている。(後で知った)

 

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 ギメ東洋美術館が作成したポートフォリオ。別会場:便利堂コロタイプギャラリーでは4万弱ぐらいで販売されていた。収集家の方はぜひ。

 

 

 【KG_No.4 ギャラリー素形(すがた)】○ジャダ・リパ「The Yokohama Project 1867-2016」 

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 こちらもカフェがあるが行ったことがない。

 

 

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 「家の屋根裏を整理していたら、初期の報道写真家が撮った1860年代の日本の写真が53点発見された」というくだりがどうしても理解できず、何度か読み直しましたが、しばらくして「ああ、家がめちゃくちゃ金持ちなんだ」というシンプルな結論に辿り着いて落ち着きました。そんな歴史的に重要なものを保管してる個人宅があるという前提が全然わからなかった。うち平民やさかいに。

 

フェリーチェ・ベアトが150年前に撮った「日本」と、マティルド・ルイナールの日本への旅について書かれた手記を元に、マティルドのひ孫であるジャダ・リパがその足跡を辿って現在撮った「日本」とを重ね合せるという企画となっています。

 

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非常に面白くてですね。西欧人から見たときの「日本」のイメージ、期待されるべき像というものが私の中でけっこうはっきりしました。

 

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人物については、どこか誇張された、そんな日本人、日本のどこにいるのというような尖った日本人で、ある種サブカルチャーです。よく作り込まれたゲームの登場人物のプロファイル画面を見ているような写真群でした。異種・異国入り乱れる格闘ゲームの様相を呈しており、全員が異様に力強いのが特徴です。強さしかない。油断のないガシッと構えたポージングがゲーム感を催させ、非現実的な日本人像は実体としての文化から切り離されて解釈された別の文脈;サブカルを思わせます。個々人の内面には立ち入らない、というジャダ・リパのスタンスが明確だからとも思います。

 

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掌サイズで新旧混在した形で貼り付けられている一角があります。この展示を見たときに、明確に比較できました。

150年前の人物についても同様に、日本を代表するアイコン的な被写体が選ばれたのだと思います。「当時の日本人ってこんな感じだったんだ」と思ってしまうのですが、この様子だと侍や坊主についても、一般的な日本人ではなく、西洋人の眼を通じて、西洋に紹介されるために取捨選択、誇張された「日本」のイメージなのではと気付きました。

 

 

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 風景についても、機材の関係もあると思いますが、どこかツヤっとした光景です。情景の内面には入りません。横浜港はおもちゃのような色つやを帯びて輝き、長崎港はブロックか回路のようです。山の中で木々から差し込む光も不思議と重さがありません。その点は150年前とは異なり、昔の写真は美というより記録的です。長崎の眼鏡橋は、周囲のあばら家のような家屋の密集が大判カメラでビシッと精密に描写されていて、西洋人の眼からはまさに異国。

「風景論」の追跡であればジャダ・リパも大判で精密描写を行い、ニュー・トポグラフィックと同様の取組みを行っていたはずです。が、どうもそうではない。もっと個人的なドキュメンタリーが入っている。あえてデジタル的なツヤッと軽めの作風にすることで、現代に生きる西洋人として、日本がどう見えているか / 見たいのか、を示しているようです。

 

 

例えば日本人が日本をサブカルを元にして都市を撮るなどと言うと、「おれの好きな最強のゲーム10選」「胸熱アニメ10選」という括りから「この配管群はあの時、塔の7Fで待ち構えていた巨人の頭部に似ている」といった、具体的な記憶からのイメージの照射となるような気がしますね。自分のことですけどね。しかし外国人の眼からだと、サブカルという概念自体を客観視しているというか、日本という大きなコンテンツをサブカル視しているようなふしが、ありますね。あえて重くもウェットにもしてない。

 

 

/(^o^)\ ウェー

 

 

 

【KG_No.5 嶋䑓ギャラリー(しまだいギャラリー)】○ハンネ・ファン・デル・ワウデ「Emmy's World」

 

私、写真が下手というか、実は斜めと水平が区別できないので、写真がいがみます。

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実はディスプレイを見ていていも、水平がわからない。グリッド線を見て、水平だと確認できれば、水平だと思うようにしていますが、例えばこの写真の四隅の辺や、ブログ記入欄のラインなどは、私の眼では右にやや傾いて見えています。そう、私の中では水平は傾いているのです。なんのカミングアウトや。脳に蟹でも棲んでるのか。

 

 

 

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 「エミーの世界」/(^o^)\

 

先日鑑賞した吉田亮人氏「Falling Leaves」の例もあるので、まずちゃんとキャプションを読み込みます。(※意地を張って写真だけで見ると、作家や被写体に何が起きたか全く気付かずに会場をあとにする羽目になることがあります)

 

 

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 まずその、町でたまたま知り合った老人を撮影したいと直感的に思ったところがなんかこう、すごいことですね。行った先の奥さんもなんかあれで、夫婦どっちも撮ろうとか、旦那の兄妹もあれで、そっちも撮ろうとか。作家には「出会い力」が不可欠なのではないかと常々感じていますが、極端な実例がこの作品ですね。老アーティスト達の持つ「力」に、本能が深く共鳴したのでしょうか。

 

 

最初はみんな元気で少年少女みたいなんですよ。

 

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この一室は夫婦のプライベートへ足を踏み入れるような、家に招かれているような体裁になっています。

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しかし次の部屋、床一面に楠?の枯葉が散りばめられた小屋のような空間では、老いと死別の気配がぐっと濃厚になります。

  

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 なんかもったいなかったので写真を削除しました。じっちゃんばっちゃんの思春期以前を思わせるファンキーな陽気さと、一転して終盤の「老い」が画面に浸み込んでいく様、そして万人が逃れることのできない死別について、会場で体感いただくと良いかと思います。それは吉田亮人氏の作品も同様です。

 

 

 会場での作品の展開方法によっては、全身で歩きながら映像作品の中を行くように、作家のたどった体験や想いを見ることができる、ということが分かります。ただ企画力、編集力、予算の高度な管理が・・・。

 

 

という感じで。

 

いつも観るのはいいけど後に記録に苦しみます。観ると同時にその場で写真Wi-Fi転送してラップトップで即blogにダダダダッと打ち込めたらすごく幸せですかね。アシスタントがほしい。