nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展&トークイベント】ヒガシジユウイチロウ『A=A A≠A(Ring)』@KOBE 819 GALLERY

『A=A A≠A』(エーイコールエー、エーノットイコールエー)「1枚の写真プリントAを2000回繰り返しコピーする」手法により、作者の思考を鑑賞者に我が事として染み入らせる。それと同時に、ある具体的な像Aが名状しがたい化け物のような像へ変貌してしまう衝撃を見せてくれる。本展示『Ring』はその三部作の締め括りとなる。

 

ここでは12/12(土)晩に行った作家・ヒガシジユウイチロウ氏と、ギャラリスト・野元大意氏との3人トークショーを踏まえた作品のレポートを通じて、作品の問いかけるものについて、トークでは語り切れなかった部分を考えたい。 

 

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【会期】2020.12/12(土)~12/20(月)

 

 

 

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1.『A=A A≠A』シリーズ

本作はシリーズ化されており、今回の展示作『Ring』を以て3部作としての完結という形をとっている。第1作は2018年の『mountain』で富士山の全景を、第2作は2019年『building』で「広島県物産陳列館」(「原爆ドーム」と呼ばれる以前の姿)をモチーフにしている。

 

このシリーズは一貫して冒頭の通り「1枚の写真プリントAを2000回繰り返しコピーする」ことで作られる。元になるプリント(A)を1枚白黒コピーし複写(A1)を得る。得られた複写(A1)をまたコピーし複写(A2)を得る。その複写をコピーして複写(A3)を得る。これを2千回繰り返す。行為自体はシンプルで、誰にでも再現が可能であり、使っている機材もコンビニのコピー機と備え付けの紙と、特別なものは何もない。しかしこの行為と出力結果の膨大な「数」に向き合うことの態度において、作者の独自性、作家性がある。

それは「オリジナルとは何か」という基本的な問いである。コピーは本来、原版からできるだけ情報量を落とさないよう複写・出力される(用途に応じて手軽に扱えるよう、情報量を幾分か減じることは求められるだろうけども)が、本作では積極的に情報量=アイデンティティーの減衰、変異を受け入れ、積み重ねてゆく。コピー回数を2千回とするのは、全国で使われているコピー機の性能からすると、コピー行為の成果物が等価値でなくなったと統計学的に言えるのが約1700~1800回のサンプル数であることに由来する。

 

コピーを繰り返すと具体的には情報が抜け落ちてゆく。最初は黒から白へのグラデーションで像を再現しようとしていたのが、段々と黒か白かの二分法に寄ってゆき、黒と白のドット絵のように荒々しい描画になる。そこから一気に情報が抜け落ち、顕微鏡で見る細胞の集まりのように像がバラバラになる。更には、黒と白という色情報すら無くなって全体が網目模様になってゆく。そして網目も全体的に縮小し、細く萎んでゆく。千回を数える前にそれはもう元の「A」とは掛け離れた別の何かになっている。「情報の劣化」と呼ぶにはあまりに有機的で、法則性のない動きを見せ、異次元の生物を見るような不気味なものがある。

 

第1作の『A=A A≠A(mountain)』は、私は2018年4月の「KG+ AWARD」で鑑賞し、初めてヒガシジユウイチロウという作家を知った。写真の祭典でありながらその作品はもはや行為の記録であり、いわゆる一般的な「写真」の領域ではなかったが、何か写真と根本的に通じるものをラディカルに突き付けられていることは直感的に分かった。写真行為自体が外界を複製する行為だからだ。

 

「KG+ AWARD」の展示では、元・小学校の理科室という広い空間を活かし、コピー回数の順に区切りながら出力結果の推移を提示するという博物館的な見せ方がなされ、コピーによる像の変化を分かりやすく追うことが出来た。

情報が劣化し続け、皆が共有していた美しき日本のアイコン「富士山」が干からびて、インスタントラーメンのように萎んでゆく様は驚愕であった。これだけ情報がWebに溢れている世の中なのに、富士山が乾麺と化すのを見たのは初めてだった。

この時点では、作家とギャラリストは出会ったばかりで、まだ作家を理解しようとしていた段階だったという。そのため後の展示に比べると非常に解剖的で、「作品」のフォーマットというよりも作家の「行為」の咀嚼に焦点が当てられている。後に「KOBE 819 GALLERY」内でも展開されたがそちらは見ていない。

 

第2作『A=A A≠A(building)』は、2019年11月に「KOBE 819 GALLERY」内で鑑賞した。前作とは打って変わって、コンセプトと戦略性によって構築された結界陣のような空間で、主題から配置まで全てに意味があるというものだった。そしてコピーの過程は伏せられ、2千回コピーによって何が起きたかの「現象」よりも、作家とギャラリストが何に注目し、問題視し、作品に反映させたかの「思考」を見せることへ大きく舵を切っていた。

 

原爆ドーム」と呼ばれる以前の建築物である「広島県物産陳列館」を題材にしてコピーしたのには、日本が歩んできた歴史と「現在」とを作品によって繋ぐ狙いがあった。時間の流れは1日1日の経過の積み重ねであり、それが積み重なるうちに歴史の変遷へと繋がり、後に振り返った時に戦前・戦中・戦後という大きな区分によって語られるものとなる。

その日々の暮らしには、自由が奪われ戦争に傾いてゆく状況を容認し、助長した空気、雰囲気があったはずだ。「プリントを2千回コピーする」という作家個人の営み(=他人事な行為)は、私達が今・日々を生きることが、何かしらのまずい雰囲気を一日一日醸成させてゆく状況でもあることを、時代を超えて重ね合わせることが出来るのではないか。そのような試みであった。

ここでは2020年の東京五輪、2025年の大阪万博といったビッグイベントを控え、浮足立ちながら増長しっぱなしの安倍政権(当時)に対する批判的なニュアンスも言外に含まれていた。

 

2.第3作『Ring』

今作『Ring』は元画像が一気にシンプルとなった。本当に「環」である。作者がどんな作品を作っているかを全く知らなかったので、FacebookTwitterでの告知画像ではそれを作品だとは認識できず「画像のアップロードが途中で止まってますね」と思っていた。違った。この円が作品だったのだ。

 

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通信環境が悪くて画像読み込み中の表示になってると思ってた件。これが作品です。うそやん。マジすか。

 

会期初日(トーク当日)、会場に行ってみると確かに「環」の画像があった。マジだった。展示の数日前にzoomで打ち合わせをしたものの、現場に着いて初めて作品の姿を知ったのだ。

 

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「環」の0枚目:原版は写真なのか印刷なのか分からなかった。Excelで作ったような、視力検査の円の欠落を中途半端に埋め合わせたような、写真にしては妙な質感の円だった。後にトークで明かされたが、これはダウンロードしたオリンピックの五輪マーク画像である。photoshopで輪の重なりを消したもので、その痕跡が薄い部分として残っている。

この起点となる円から以下、コピー2千枚がアクリルケースに縦に積まれて封入されている。その中身は、蛹の中で人知れず虫が変態するように、積み重なったコピーの中で何が起きているかを見ることは出来ない。恐らく前2作のように原型から崩壊して乾麺のように散り散りになってゆくのだろうと想像していた。

だが今作『Ring』では予想を大きく裏切る結果が生じた。ある時点まで減衰していった情報量が、千数百回を過ぎてしばらく経つと今度は増加に転じ、2千回目には原本からかけ離れた造形が浮かび上がっていたのだ。 

 

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2千回目の作品は特注サイズ(1292×914㎜)で、アクリルケースと対峙するように壁面に掲げられている。最初の「環」とは似ても似つかない姿に変貌した。線の一本一本は線虫のようでもあるし、地図帳の地形の描画に見えなくもないし、人差し指の指紋の浮き上がりにも見えるし、額と顎を砕かれた人間の頭部にも見える。観る人によって想起するものは異なるだろう。

 

作者からはnoteの投稿を通じて「環」=「○」のコンセプトを教えてもらってはいたが、そこでは「空白」という概念と「○」との関係、特に事前的に見ていた未来の空白について(言うまでもなく新型コロナ禍により延期となった東京五輪に象徴される2020年という未来像や状況の総体)指摘するものであった。私はそうしたコンセプトを踏まえて事前にぼんやりと仮説を抱いて、関連しそうなものを調べていたが、この2千回目のイメージを見て、それらを手放した。あまりに予期せぬものだったからだ。

 

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『Ring』の基本構想は事前にあった。今年7月24日に『A=A A≠A(○△□)』という1日限りの展示を催した際に、「△」は『mountain』、「□」は『building』を、そして「○」を3部作の締め括りとして、空白をテーマにする方向性が打ち出されていたという。ただしその時点では具体的に何をモチーフとするのかは未定で、展示も中身を伏せた形で行われた。

円形「○」と空白や無といったテーマという話であれば、連想されるのは禅の書画:仙厓義梵に代表される円相か、円というモチーフの造形性を求めた具体美術協会吉原治良を参照したいと考えていた。しかしこの2千回目の最終形態が「円」を大いに逸脱したものとなっていたため、当初の単純な「円」や「○」の解釈では済まなくなった。

それはカオスな造形性、生命性を宿していて、空白どころか混乱そのものであり、先行作品の引用をうまく受け付けない。なぜなら作者はある分野での先行作品や写真史・映像史からの引用によって本作を作っているのではなく、像の生成工程の大部分はコピー機に内蔵されたアルゴリズムに委ねられている、機械のオートマティズムだからだ。本作に命を与えるためには、鑑賞者によるイメージ自体への積極的な介入、接触が必要となるように思われた。

 

  

3.12/12(土)トークイベント

当日は19時半から20時半までの1時間で、作家のヒガシジ氏、ギャラリストの野元氏、そして筆者によるトークが催された。この様子は現地での参加とライブ配信に加え、アーカイブ動画として事後も有料で閲覧可能となっている。

 

peatix.com

 

有料ですいません。が、画質と音質が良くてですね、やってて「しもたッッ 声が小さすぎたッッ これは拾えぬッッ」と思ってた箇所がちゃんと拾えてて、びっくりしました。有料の価値はあります。

 

念頭にあったのは、まずリスナーにとっては、ヒガシジユウイチロウという作家のこと、『A=A A≠A』シリーズのことの全てが未知で、予備知識がないということ。しかし本展示は三部作の締め括りという節目のイベントであり、重要なものである。そのため、シリーズ全体の振り返りに時間を割く必要があった。『A=A A≠A』シリーズとはそもそも何なのか、どうやって・何を考えた末に今回の展示に至ったのかを、第1作『mountain』から改めて振り返り、その上で『Ring』2千回目のカオスなイメージの意味や意義について語ってもらうのが良いのではと考えた。

そのため確認事項が多かった。前2作から今作にかけて、どのように作家とギャラリストの二人が関係を作りながら、展示の実績を積み、現在に至っているのかの話に後半部分の尺を割いた。ウェイトは思いのほか大きくなった。それはそれでライブとして正解だったと思う。短く切り詰めた一問一答をするのはクローズなインタビューの場でよく、3人で話す以上はある程度フリープランで、人間関係の部分:作家とギャラリストの関係性、どのような役割分担や考え方の違いがあるのか、どうコミュニケーションを取りながら展示を実現してきたのか、生の部分を聞き出す方が重要なように思われた。

 

また作品を通じて、作家とギャラリストが、像を生成と変形を手元でマニアックに楽しんでいるわけではなく、現在性や社会性への接続を図りながら格闘していることは明らかにしておきたかった。

それゆえに話しそびれたこともある。こちらが特に答えを持っていないため、お題を振っても振り逃げになりそうだったので、事後的に考えることにした。

 

  

4.残された問い_(1)オリジナルとは何か

先述のようにトークの場では、先行作品との関連は語らなかった。「円」をモチーフとした現代美術との比較や、撮影行為を経ずに得た画像を「作品」として扱うところで、トーマス・ルフとの比較、コピー機を写真機のように扱うアーティストとしてTHE COPY TRAVELERS(通称コピトラ)との比較を事前的には考えていた。が、コピー2千回目の像を見て断念した。原版の「円」よりも禍々しく複雑でノイジーで、何らかの造形を伴うイメージに対して、それでは適切なアプローチにならないと――生命力を無視してしまうように思われたためだ。

 

カオスな生命力。それは本作の根本にある「オリジナルとは何か」という作者の問いに直結するのではないか。

「オリジナル」とは、複製行為に限定するならば複製の元、原版となったデータを指すだろう。では原版とは? 大体は紙や、紙出力前のPC上のデータとなる。ではデータにおけるオリジナルとは? 一つには著作権や商標、引用・出典展元といった権利関係を指すだろうし、紙やPDFになる以前の編集可能な生データの最終版を指す場合もある。メールやWeb等で表に流通(流出)する以前のもの、個人の端末内に保存されているものをオリジナルと指す場合もあるだろう。逆にオフィシャルに認められたもの:公印が押されたり自筆のサインがあるものや、発行日や承認日が印字された書面を以て、替えの効かない原本とするものもある。

卑近な事例を積み重ねると混乱するが、結局その混乱、定まらなさの根にあるものとして、オリジナルとは「制度」と密な概念(というより制度によって反射的に生じる概念)であることが分かってくる。文書やデータをその時々で何の目的で用い、何の役割を果たし、何の責任を負うか、どのような法的効力を発揮するかといった争点によって参照され発動する制度は移ろい、その元で「オリジナル」とされるものは移相する。唯一不変のオリジナルがモノとしてあるわけではなく、物理的なモノと構造的な制度とがその都度織り成す、生きた影のような存在が「オリジナル」ではないのだろうか。その瞬間瞬間では唯一不変であることを求められながら、焦点となる制度によって指し示すモノやあるべき姿はズレ続ける。

 

写真なり文章なりの表現行為について「オリジナル」なるものを手繰り寄せてみるならば、作者の産み出した作品の元データ、エディションの価値を担保する仕組みに他ならない。だが縦横無尽に動き回る影を相手に追いかけていても部が悪い。ここで「制度」を一旦横におき、範囲を絞って、事物を複製する行為と「オリジナル」との関係性に着目しよう。

あるデータ・原本を複製することを繰り返す先に、「A1 ≠ An」となるn回目が来ることは経験則上からも分かるだろう。コピー機による複写のみならず、写真による複写も、伝言ゲームも、遺伝子の伝達も、元の「A」を完璧にそのまま「A」として受け渡して継承するわけではない。情報の劣化・変質が避けられないのだ。複写のプロセスで情報の量と質に生じる現象を荒っぽく分類すると、①情報の欠落・省略、②書き間違い・変形、③書き足し・増殖、が挙げられる。

 

前2作『mountain』『building』では①が顕著で、画像情報が段階的に減り続けてゆくことで変性を遂げた。複写の「A=A」のどこからが「A≠A」となっているか--「オリジナル」性を担保していた情報量を満たすか下回るかは、鑑賞者個々人の認識論に回帰する。そこで統計的手法により質問「これは富士山に見えるか」「原版と同じ画像だと思うか」などへのアンケート回答を集めて解析することで一定の解は得られよう。

だが本作『Ring』では①~③のいずれもが絡み合って生じており、一度減った情報量が途中から増加に転じていくこと、情報がただ減衰するのではなく円が上下に引き伸ばされて歪んでゆくこと、そして元の円の情報以外からも点や線が生成されてゆくことなどが確認された。まさに独自の生き物のような動態を見せている。なお、展示ではこれらの動態を見ることが出来ないが、トーク終了後には特別にアクリルケースの封が解かれ、作者がページを捲りながらイメージの変遷について解説を行った。

 

複製による画像の変質には、コピー機の画像処理におけるアルゴリズムが深く関わっている。作者によれば、コピー機は像をスキャンして描画する際、例えばスキャンで点と点の像を得たときに、それを「情報が不足している」と判定した場合には、自分で情報を補って線を引くなどして像を再構築しているらしい。情報の消失と自己補正の螺旋によって、0枚目の原版とは別の次元で新たな像が作られ続ける。

コピー機にとっての「オリジナル」とは、今読み込ませた直近の1枚だけが常に原版=「オリジナル」であるが、我々人間側の認識では数百枚、千枚、2千枚のコピーをしても、常に「0枚目」が基本であり続けるので、お互いの世界の裂け目は広がる一方である。直近の1枚に対して『A=A』であろうとするミニマルな自己同一化が、人間の主観から離れた、手に負えない差異を抱えたまま遠くへゆき、いつしか『A≠A』として自律性を発揮する。それは我々とは別個の生命の営みに似たものではないだろうか。 「日本」のアイデンティティーに関わる表象は崩れて記号であることをやめ、認識の谷の向こうへゆく。そこには誰も手を付けてこなかった領域が広がる。

ここに「オリジナル」とは、複写の元となる原版「A」のイメージの有り様を問うことと、我々の認識から分離独立して別個の生体のように振る舞う「≠A」の存在を認めることとの両義性を伴う。「オリジナル」とは、「私」たちの主観・自意識が関与したり手なづけることの能わないもの、関係性の構築以前の領域を指すと言えないだろうか。

 

 

4.残された問い_(2)写真との距離

本作はもう一点、「写真」との距離感という基本的かつ興味深い問いを惹起する。

「オリジナル」についての問いでは「複写」という行為に焦点を絞り込んだが、コピー機による複写行為は写真撮影と原理が似通っている。像の読み取り・取り込み方がスキャンかシャッターかの違いはあれど、対象物に光を当てて感光させ、像を転写する仕組み自体は共通している。大きな違いは、対象物として動かない平面を想定するか、立体や奥行きのある空間を想定するかだろう。先に例に挙げたアーティストグループ「コピトラ」はまさにコピー機を屋外に連れ出し、天板を開いて空に晒した状態で読み取りガラスにモノを積み、写真機のようにして撮影する。

 

本作『A=A A≠A』が「写真」かどうか、ヒガシジ氏が「写真家」かどうかは、本人が何を標榜するかによるところだが、今のところ明確に回答できるものではなさそうだ。第三者から見ても簡単にラベリングは出来ず、より大きな器である「アーティスト」とでも呼ぶ他はない。

前項で考察したように『A=A A≠A』は、元画像「A」に対するオリジナル性について、人間側の認識と機械側の認識とのズレを回数(単位時間)において極限まで増幅させ、認識の谷を生じさせるものであった。

写真においては、平面の内で時間の尺や回数を操作し、人間の認識出来ない領域・視野を可視化するという手法は珍しいものではない。1枚の写真の中で多重露光により撮影回数を取り込む(例:北野謙)、長時間露光で時間を延長する(例:山崎博)、被写界深度合成によって全てにピントを合わせる(昆虫写真など)、枚挙にいとまはない。 

こうした写真作品と『A=A A≠A』を分かつのは、『A=A A≠A』の像の生成における主導権のほとんどがコピー機側にあり、作者の主観や操作はほぼ立ち入る余地がない点だ。山崎博『ヘリオグラフィー』の太陽の長時間露光撮影は近いものがあるかもしれないが…。しかし作者には構図やピントの調整の余地すらなく、1枚の原版を預けて全権を委任し、ひたすらコピー機の黒子となってお金を入れたり紙のセットを繰り返す。主観が混入するとすれば、試行の外れ値を取り除くために吸排紙に失敗した紙を取り除く作業などだろう。もっとも、起点となる原版のイメージ選択に係る意思決定を握っている点で、作者はコンビニのコピー機という都市のインフラをフル活用したオートマティズムに身を委ねる。

 

像もまたコピー機の自己判断から作られる。が、読み込まれているのは原版のデータだけではない。天板やガラス面の物理的な傷や汚れもスキャンの対象となる。確かに本作に近付いてよく見ると、元の円の画像にはなかったノイズが多数写り込んでいる。それが機体由来の汚れをどこまでストレートに反映したものか、演算処理で再構築されたものかは判別できないが、コピーの像には確かに「A」だけではない、その他の背景的なる予期せぬものが取り込まれている。

このことは写真において生じている現象の最たるものに他ならないし、写真に最も期待されている要素・現象と言って過言ではない。テーマや技法や環境設定に厳密に取り組みつつ、いかに撮影者の想定の外側のものを招き入れるか。いかに支配を逃れるか。それは写真にしか出来ない写真を目指す上での至上命題である。

そして前項で述べたとおり、こちらの主観から離れたところで独自に振る舞う存在感を現す点でも、本作のコピー映像は実に写真的な特性を示している。撮影者の主観ではない、しかし鑑賞者の主観の支配にも置けない、谷の向こうの暗雲と遠雷のような存在としてのイメージ。

 

『A=A A≠A』が何ものであるかを語る言葉を、『Ring』の2千枚目によって私はまたひとつ失ってしまった。

  

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 ( ´ - ` ) 完(未完?)