写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展‐トークショー】【KG+】"FOVEON Special Talk"第3部「Ways of Seeing ~視ること・撮ること~」伊丹豪 × 小林美香

【写真展‐トークショー】【KG+】"FOVEON Special Talk"第3部「Ways of Seeing ~視ること・撮ること~」伊丹豪 × 小林美香 @SferaExhibition

2018.4/22(日)

「KYOTOGRAPHIE」(KG)との連動プログラム「KG+」

SIGMA社の協賛企画にて、作家やブックデザイナーらのトークイベントが複数行われた。その中で「Ways of Seeing」では、写真家・伊丹豪と写真研究者・小林美香が登壇。「平面」を写し出す作者の思い、制作秘話が、写真研究者の視点から引き出された。 

作家の個性、熱い思いや来歴、そして作品の読み方について――作家という一種の「異邦人」に対し、写真研究家という「通訳」の仕事を介することで、スムーズに対話することができる。そういう場を体感しました。 

 

 

imaonline.jp

(当日のトーク内容、順序について、エッセンスを抽出しつつ、再構成&加筆します。)

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(1)伊丹豪の作品について
  ①平面、レイヤーとしての世界 ②生真面目さと危機感、アンコントロール
(2)伊丹豪の展示経歴
(3)写真研究者(批評家)の、作家との関り方
  ①作家と観客の橋渡し ②古典、写真史への接続

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 (1) 伊丹豪の作品について

 ①平面、レイヤーとしての世界

非常に平面的、というか平面を撮っている。

平らな「面」に注目し、その重なりに注目し、「面」の存在感に注目し、何気ない外界の風景から、手元で重ね合わせたオブジェ的なイメージから、都市の中の無機質な重なり合う視界から、「面」の重なりを写し出す。

 

 

 

これら、会場の様子を見るだけでも、一見、全くとりとめがない様子が分かるだろう。被写体もさることながら、撮り方も、作品のサイズ感も、多くの要素がバラバラである。

ここでは、これらの被写体そのものというより、世界の捉え方に着目したい。

自身の作品について伊丹氏は、「レイヤー」という言葉で(半ば「そんな簡単な言葉では語りたくないのだが、」とでも言いたげであったが)語っていた。「全てはレイヤー構造に似ていることを見せたい」という思いがキーコンセプトとなっている。 

PCあるいはスマホの中で起動する各種アプリケーションのウィンドウの重なりを想像すると分かりやすい。手元のデバイスと同様に、この都市や日常、果ては我々の身体感覚そのものがそのようなウィンドウの重なり=「レイヤー」として捉えられるのではないかという問いかけである。 

残念ながら私の写真でも、Web上で見かける画像でも、レイヤー観は伝わらないので、おとなしく写真集を買ったり、会期中に展示を観に行くなどしましょう。

特に写真集で見ると、より明確に「視界に映るすべてのものはレイヤー構成だ」という作者の想いが伝わってくる。私たちは3~4次元ぐらいの、「時空間」として幅のある世界を生きているように思っているが、実際にはWeb世界のように、大小の2次元平面の層が、前後左右に「配置」されている世界なのかもしれない。

 

このレイヤー感覚、作品の平面性は、90年代半ばから生活の場がWebに移った私のような世代には、非常に真っ当なことなので、個人的には大いに同意できる。都市のデザインもまた、商業施設がリニューアルされる度にどんどんWebのそれに近づいている実感がある。都市生活は平面化しているのです。

むしろエロスだのタナトスだの愛だの情だのよりもレイヤー世界観は日常的な身体感覚なのだが、写真界ではなかなか評価されないところであるとお察しする。

トークでも「デザインっぽいですね」「グラフィカル」「ファッションぽい」とよく言われると、そしてだいたいそう言われるときは一段下に見られた物の言い方をされるのだと語っていた。写真界では平面、デザイン、グラフィカルは「写真ではない」と、評価が辛いです。

 

しかし、平面とは不思議な世界です。

1枚の平面には厚みがない。写された映像の情報だけがあり、モノとしては存在せず、絶対零度である。だが、その平面を拡大してつぶさに見ていくと、その物性が明らかになり、厚みが分かり、モノとしての存在感がめきめきと立ち上がり、体温を持つようになる。そのモノとしての揺らぎ、混乱を伴う。

また、平面を複数枚重ね合わせると、それらは途端に立体になってしまう。いかなる平面も、物理的に重ねた際には、モノとしての性質をあらわにする。これは、多重露光photoshopによる画像合成では得られないものだ。

逆の現象もある。都市の中で普通にシャッターを切ると、空、地面、建物、それらの前後左右にある様々なモノが、陰影を伴いながら立体・空間としてキャッチされるはずだ。しかし伊丹氏は、何気ない視界の中で、平板なものを幾つか見出し、それらの面が作用しあって、立体的な質感をぎりぎりに湛えた平面の重なり合いとなる場面を捉えている。

①平面を立体的に立ち上げること、②風景から平面を導くこと、これを徹底的にやるのが、伊丹豪である。

 

 ②生真面目さと危機感、アンコントロール

伊丹氏自らが自身を称して「クソ真面目だと思う」「むしろ古典的に(写真を)やってる」と言っていたが、上記のように「平面」に何かしら立体的なディテール、ノイズを盛り込むことについては、画面から非常に緊張感を感じる。どの写真もパワーが高い。真面目に、平面と立体の狭間を捉えようと、眼を研ぎ澄ましている様子がうかがえる。

 作品世界における写真としての映像力、根拠を持たせるための「生真面目さ」は、撮影時の天候や光調にも表れている。

写真集「TYM:GI」(This Years Model)に比べると、今回の最新作ではより手仕事の幅が増え、屋外の都市景からレイヤーを切り出すだけに留まらず、映像体験における平面の定義そのものを問うものへ進行していた。

 

更に、写真の力であり根拠となるものに「偶然性」「予期せぬもの」がある。伊丹氏は「自分で全てコントロールすることに危機感がある」といい、写真家の掌中で作品が完結してしまうことへの恐れを語った。

その「危機感」は、撮影時の創意工夫から、展示構成、写真集の企画・製作、全ての工程に活かされている。最新の写真集「photocopy」(2017)では、発行部数の千冊すべて、一冊ごとに写真の掲載順序が異なる作りとなっている。印刷屋のおばちゃんを時給1500円で個人的に雇って個別対応してもらったという。コントロールの徹底的排除。

 

 

 

先ず以て、高解像度を誇るシグマのデジタルカメラを通して視る世界は、肉眼を超越した視界を与え、眼に見えない質感を総立ちさせる。このノイズ感がまず作家の手から被写体を暴れ馬と化させ、手の付けられないものとする。それらはあくまで外界の超・複製であり、デザインとは根本的に異なる由来のものだ。

そしてコラージュ的な作品においては、トークでも実に楽しそうにご本人が語っていたところだが、手仕事が 家には店で買いこんできた無数のパーツ、素材があるらしく、それを平面の上に散りばめては撮って喜んでいるという。そのほか、小麦粉や砂鉄など「粉」を写真にたっぷりと振り撒いたものを撮影し、作品にする。1枚1枚の作品にはそれぞれに手の込んだ制作秘話があるようだ。

 

平面と立体の狭間に関することなら、いかなる手法をも用いて、何でもメディアにしてしまう。その発想の源泉にはジグマー・ポルケというドイツ人平面アーティストへの敬愛があるようだ。

ポルケは一応「画家」というジャンルになると思うが、描くというより塗ったり刷ったり重ねたりし、その素材・支持体も絵具とカンヴァスから離れ、実に多彩な表現手法を模索している。また、画像のタッチとその重ね合わせ方もまちまちで、特徴を一言では説明できない。伊丹氏の一見とりとめなくジャンルレスに拡張される被写体のセレクトは、ポルケに範をとっていたのか、と思うと、結構納得がいく。

 

(2) 伊丹豪の展示経歴

トークで語られた経歴では、2013年の「study」展(会場:POST(恵比寿))が初個展に近い状況で、何をすれば良いか分からなかったという。小さなホワイトキューブで、どう見せるか悪戦苦闘しつつ、会場中央にアクリル面を積み上げた台を置いて、全てのイメージはレイヤー構造であることを表した。

 

原宿のVACANT(2013)、台湾(2014)でどんどん展示規模は拡大しつつも、この時点ではまだ作品一枚一枚の大きさは、お買い上げできるサイズに留めている。「これで収まるものではない」という思いを膨らませ、新宿・epSITE(2014)の展示で大きく構成が飛躍する。

この企画から小林美香との関わりが始まる。小林氏がepSITEの企画を受けて作家を探していた際、Facebook経由で遭遇したのが伊丹氏の作品:ジョージアエメラルドマウンテンで、青いコーヒーの缶が溶け出したような浮遊しているような映像のインパクトが、不思議な印象をもたらしたことから、二人を結び付けることとなった。

そのような経緯と映像力の強さから、エメラルドマウンテン作品は「ご本尊」と呼ばれ、伊丹活動の芯として据えられている。epSITEではこれらの作品が壁と宙吊りで展開され、空間そのものを平面イメージの重なり合う場に変えることが試みられた。「ご本尊」が会場正面・中央に鎮座し、その両脇と背後にも巨大な写真を吊るして並べ、空間を平面で支配させる。観客は立ち位置を変える度に、作品の見え方が変容することを体験する。

なお、この展示における平面の重なりは、更に撮影されて作品へと取り込まれ、また別の会場で平面イメージの一部として展開されてゆく。「作品」が作品を食って、自分を糧にメタモルフォーゼしていくようだ。

 

ちなみに、伊丹氏曰く「エメラルドマウンテンが好きすぎて、何とかして自分の写真にしたかった」と言い、当初は友人の画家に缶を好きなように描いてくれと依頼したらしい。しかしどうも違ったようで、缶をそのまま水の張った洗面器に浮かし、そこに同色の絵具を流し込んで、まるで溶け出したようなイメージを創ることに成功したという。

 

(3)写真研究者(批評家)の、作家との関り方

 ①作家と観客の橋渡し 

さてこれらの事項を作家一人で体系的に、俯瞰して語れるかと言うと、難しいところがある。伊丹氏に限ったことではない。第三者がいたほうが面白くなるということだ。

伊丹氏は優れた創作意欲で作品を世に送り出すが、それは「好きだから」「やりたいから」というシンプルな情動によるところが大きい。それを多角的に、観客の腑に落ちるところに落とし込むには、その道のプロによるガイドが不可欠である。

小林氏は、作家の来歴、作品の意図、制作過程、そして写真史上のルーツと歴史に対する作家の敬意について、筋道をセッティングし、作家から話を引き出しつつ、語りの場を成立せしめる。なるほど著述だけではなく、作家のポテンシャルを民に生で伝える技が、研究家や批評家の仕事なのだなと注目した次第である。なぜなら、民は写真の読み方を知らないからである。民は、きれいな富士山や桜の写真とかモデルめいたポトレぐらいしか見慣れていないので、通訳がいないと分からないのである。うわあ(自虐。

 

 ②古典、写真史への接続

何より小林氏の話の運びで特徴的だったのが、伊丹氏の取組を古典、写真史へと接続するくだりであった。

現代の都市景、現代人の視座を扱っているなら、それは最先端の表現として完結させてよいのではと思っていたが、甘かった。写真である以上、写真の歴史における位置づけ、関連への言及があるのだった。うへー。まじすか。

伊丹氏自身が、古典に対して敬意を抱き、影響を受けているということを語っており、そのこと自体が意外だったのだが、その点を受けて、小林氏がしっかりと評論サイドから補強しているのが印象的だった。言わば「この作家は、好きなことを好きにやっているだけの人ではない」ということ、すなわち「写真史に立脚した写真家である」ことをきちんと示す作業であった。

やっていることは、我々と同じなのか。

というのも、私のような写真系スクールに通う民は、写真史における重要人物と自分の作家活動とをリンクしてプレゼンできるように、常々指導されている。無名の我々には、何かを独自で語るには信ぴょう性がなく、先行研究という確かな裏打ち(文脈)が必要なのである。その点は大学での研究、論文の執筆とよく似ている。

スクールの合評においては、講師が古典の大家の名を挙げては、生徒の生煮え作品との関連を熱心に語り、当の生徒は半分困惑したひきつり笑いを浮かべている、といった光景がよく見られるが、その基本原則を、伊丹豪のごとき、今をときめく作家も地でやっているとは、思いもよらなかったのだ。意外な発見だった。

 

以下に、トークで言及された「古典」をピックアップする。

「粉かけザンダー」アウグスト・ザンダー写真集(「Objective Romantic」(2013)か?)の表紙(ボーイッシュな女性が椅子に腰かけ、たばこを吸いながら、こちらを見やっている)に、思いっきり小麦粉を振り掛け、ノイズ満載にして複写したもの。ザンダーを好きすぎてそうしたらしい。オマージュである。 この時は小麦粉にハマっていたとのこと。どういうことだ。

「砂鉄のマン・レイマン・レイ「涙」(1932)を砂鉄まみれにして複写。複写でありながら伊丹氏独自の写真と化しており、「粉かけザンダー」と同系統と言える。百円ローソンで見つけた付睫毛を上に置いてみたが、違和感がなさ過ぎて却下したという。(代わりに、ジェームス・チャンスのポートレイトに配置された)

・アルベルト・レンガー=パッチュ :ヘビのとぐろをまいた拡大写真について、その鱗のうねうねとしたモザイク模様と、伊丹氏写真のビル?の壁面がモザイク状にみっちり敷き詰められている様子と類似していると指摘。

・エル・リシツキー:ロシア構成主義の写真家、建築家。平面の幾何学的な断片を組み合わせて立体造形を生み出している点について類似を指摘。

・ラースロー・モホリ=ナジ構成主義の美術家、写真家、バウハウス教育者。映像作品「ライト・スペース・モデュレーター」(金属板の組み合わせをモーターで回転させ、光を当てたものを映し続ける)との発想の類似を指摘。

 

当の伊丹氏はこれらの指摘について「意識はなかったですね」と言い、モノを作っている主体としての自分はあるが、作品が出来ていくこと自体は「観察」に近いと語った。あくまで制作は客観的なものであるという。

しかし作家が認識していないところでの類似性の指摘は面白い。構成主義時代の百年前にまで遡ることができるとは思わなかった。平面的視覚のビジュアル化は、現代的なテーマでありながら、試行錯誤としては古典だったのだ。ますます、日頃の学校での指導光景と重なるものがあります。

  

さて。この写真に少し写り込んでいるが、仲間から「会場の、女性のポートレイト写真だけが非常に具体的で、この意味が分からなかった」との感想が寄せられた。

確かに、これだけは被写体として非常に具体的であり、何より場違いなまでにストレートで、平面性も特にない。カラフルな映像群のカオスの中に埋もれていると違和感がなかったが、言われて注目してみると気になる作品だ。

しかし調べてみると、伊丹氏の初期の作品は平面よりもこうした素朴なポートレイトが主だったようだ。度々、人を撮っていることから、作家として「人」が重要なモチーフであることが察せられた。

我々現代人の感性、視覚がWebメディア化し、世界がレイヤーとして処理されるものになり果てたとしても、対・人間だけは、レイヤーとして処理できない――体温を以って浮かび上がる「一人の人」として、素朴に認識してしまうことを示しているのではないか。絶対零度の「平面」に回帰させることを拒む力が、我々の眼にはあるのかもしれない。

あたかも総合型キュビスムの発展版のように、平面イメージを切っては繋げなおす伊丹ワールドだが、絵画と異なり、「写真」の眼においては、「人」を冷徹に処理することができない。そこがまさに「アンコントロール」で、写真の本質が垣間見え、面白く感じた。

 

( ´ - ` ) 完