H30.4/14~5/13、KYOTOGRAPHIEの季節です。見た先から記録します。
京都駅の南側にある2件のホテルで展開された「KG+」展示(『Group Exhibition 「HEISEI」』@HOTEL SHE,KYOTO、ホテルアンテルーム京都)について。
- ◆池谷薫、清水花菜、甲斐伊織『Group Exhibition「HEISEI」』
- ◆「ジャパンフォトアワード&ニュージャパンフォト展」@ホテルアンテルーム京都
- ◆Through A Quiet Window ースティーブ・ジャンセン写真展ー @伊勢丹京都駅店
- ◆蜷川実花写真展「UTAGE 京都花街の夢」@美術館「えき」KYOTO
◆池谷薫、清水花菜、甲斐伊織『Group Exhibition「HEISEI」』
こぢんまりとしたホテルのエントランス、ロビー、レストスペース、客室を展示スペースとして、床の下や柱、壁面など至る所に作家3名の写真作品が散りばめられている。
KG+に関わらず、HOTEL SHEでは「gallery fractal」としてスペースの貸出を行っており、これまでにも若手作家を中心とした展示が催されていたようだ。ホームページのトップ画面直下から使用申し込みができる。
展示「HEISEI」は、かれこれ30年目に到達した「平成」という時代について、3名の作家らがそれぞれの感性で解釈して提示するものである。そのビジュアルイメージと向き合うことで、鑑賞者もまた、自分たちの「平成」を思い思いに描くことになる。
元号をローマ字表記しているのは、世代間を超えた記号として、観客側へバトンを渡すためだろう。
何よりも会場で愕然としたのは、これまで「新しい世代」「新しい人類」とみなしてきた「平成生まれ」だったが、平成31年4月末日を以って「平成」という元号が終了し、更に新しい時代に移行することであった。その時には彼女らも旧世代の人種となってしまう。
「平成生まれ」の作家らが平成という時代を総括しようと試みるとき、その次の時代には一体何が来るのだろうか。もう昭和生まれの私からは、直接的にはコミュニケートできない世相になるかもしれない。
彼女らの捉える「平成」は、clubでの夜だったり仲間だったり、一言でいえば「クール」だった。
この世代については、「ゆとり」だの、物欲が無いだの、「じぶんら飲み会でもビールじゃなくて甘いカクテル頼むんでしょ?」だの、社会の心無いおじさんたちは散々な言い方で、去勢された量産型クローン羊でも見るような蔑みをしてきた(そういうのを実際に見てきた)が、彼女らのモノの見え方は彼らよりもはるかにクリアで、知的だと思う。
聞けば、特に写真系の教育を受けたわけでもないらしい。しかし、ビジュアルの選び方は、面白いと思った。何かしらファッション誌や写真集に触れていると思う。
永遠のようで、しかし一瞬で過ぎ去っていく夜の情景を、メタリックなインクジェット用紙で固定させた作品。強い反射はこちらの眼差しすらも打ち返し、容易にはそのコミュニティへは立ち入らせない。クールに主張するが、自分の見せ方を取捨選択するという感性、意志の強さを感じた。
昭和と平成の最大の違いは、個々人がメディアを操り、発信者の側に立つ時代になったことだ。これらの写真からは、その感性を感じた。
そして、貨幣のイメージが目に留まった。昭和末期に膨れ上がったバブルは弾け、「失われた10年」から平成の道のりは始まった。
以降は、経済、貨幣が一気に抽象化されたように思う。2000年代のライブドアや村上ファンドに代表されるマネーゲーム、サブプライムローン危機、そして仮想通貨。それに財布代わりのICカード定期券。どれも可視化されない。どんどん現ナマという「モノ」から遠ざかっている。
元気のあった昭和という時代は、福沢諭吉の万札というブツで象徴できる。しかしその時代は生まれる前の世界のため、どこまで行ってもフィクションである。一方で、彼女らの生きているこの生の時代には、貨幣がモノとしての存在感を失いつつある。その引き裂かれた感覚を少し垣間見た気がする。
ホテルを出ると、こんな感じで、昭和と平成がごった煮になってる感が心地よかったりしました。犬も歩けば共産党に当たる。
◆「ジャパンフォトアワード&ニュージャパンフォト展」@ホテルアンテルーム京都
HOTEL SHEの近所に立つアンテルーム。ギャラリーとホテルが融合しており、1Fロビーから通路にかけて、作品が展開されている。
「普通のギャラリーやん」と思うが、そう、普通のギャラリー空間ですね。これがホテルのエントランスの真横に併設されている。全国でも類がないだろう。
見ての通り、「ジャパンフォトアワード」と「ニュージャパンフォト」から選出された、様々な作家の作品がシームレスに提示されている。正直、うまく読解はできなかった。
大坪晶「Shadow in the House」については以前トークショーに参加したので理解できます。画面中央の何かうごめいている気配はダンサー氏による演出。これが不在者の存在、存在の名残をあらわす。
鈴川洋平「Apocalyptic Sounds」は、日常景と、半ば仮想現実化したイメージ景との兼ね合いを表していた。柔らかくふわっとした光で日常生活を捉えつつ、恐らくphotoshopで加工された映像を盛り込む。
物理的な現実空間を生きる自分と、例えばSNSやAmazon、LINEなど、同時多発的に複数のアカウントを立たせて生きている状況、つまり「自分」が複数名積み重なっている状態を指しているかのようだ。
タイトルの「アポカリプス」とは「黙示」、神が人智を超えた真理を示すことや、黙示録さながらの大破局、世界の滅亡を意味する。
バベルの塔を暗示させるイメージの風景が選ばれているが、非常に優しい空気感で、不穏さは感じない。むしろ癒されます。なので、破滅というよりは、我々の日常生活が人智を超えたテクノロジーだらけになっていて、すでに誰の理解をも超えた領域に達していることを、暗に示しているのではないかと思った。
石川幸史「This is not the end」。イメージの構成力がずば抜けている。光に着目する眼の力と、そこから連想する世界の物語力があった。志賀理江子から呪力を抜いて、奥山由之のシズル感を追加したようなトーン。それでなおかつ、世界(地形)が伸ばす無数の触手に注目している。地形自体が生き物となって躍動しているようだ。
廊下にはまた別の作家の作品がずらりと並び、数万円で買うことができる。
まさにギャラリーだ。一度泊まってみたい。
若手写真作家ってなんぼでもいてますね。なんぼでも写真がある。
JR京都駅に向かいます。地下鉄九条駅周りに飲めそうな店がなく、何もありません。夕陽だけが輝いていました。
夕陽はいいですね。
いい夕陽の中をかき分けながら、仲間らと「写真家とモデルとの関係はどうあるべきか」という最近ホットな話題で激論しました。と言っても世代が近い同士なので一緒に怒ってる状態です。「撮影者と被写体はコラボレーションであるべき」「一方的搾取、無理強いはありえない」「百万ぐらいポンと出してやれよ」「時代がどうとかいう話じゃない」「対価をけちるな」「ワーワー」もう激おこです。おかげでお腹がへりました。
JR京都駅併設の伊勢丹にて展開されたKG+もupしておきましょう。
◆Through A Quiet Window ースティーブ・ジャンセン写真展ー @伊勢丹京都駅店
1974年結成の「Japan」という英国バンドで、ドラムを務めた人物による写真。ニューウェイブというウネウネとピコピコの間ぐらいのうねりのある音楽でした。そんな音楽性を微塵も感じさせない骨のあるモノクロがカッコ良い。
「センス」というどうしようもないものがこの世界にはあってですね、それを持っている人間は何をやっても美しくカッコいいという絶望的なお話でした。わあい。
我々凡夫が見ている世界と、また別のものが見えているんでしょうね。違う感覚器が発達しているというか。絶対音感のような何かがあって、時代の音や色や空気感がはっきりと見えているのではないか。
◆蜷川実花写真展「UTAGE 京都花街の夢」@美術館「えき」KYOTO
KYOTOGRAPHIEの展示ではないが、関連プログラムなのでパスポートで割引がききます。会場内は全て撮影可。
舞妓さんを舞妓さんとして、京都の伝統・文化として、どこまで尊重 / 格闘して撮るべきかという難問があります。
尊重だけだと「京都」に取り込まれてしまう。抵抗・逃走すると、むざんなことになる。
東松照明が明らかにしていましたが、京都という土地とその住民は、「京都」というイメージの集合体で、どこまで皮を剥いても生の実体が無いようなところがあります。我々のような郊外ベッドタウンの民とは全く異なる人種です。
そこを絶妙に思いきって飛び越えて、舞妓はんをニナガワ舞台に投げ込んでいる写真は、面白かった。京都が相手だと何をやっても全部倍返しで跳ね返ってくるだろう、つまりめちゃくちゃ怖い存在なので、そこに挑むチャレンジ精神は素晴らしいと感じました。関西人にとってKYOTOはこわいところ…。
伊勢丹。大阪の伊勢丹は一瞬で潰れましたが、京都のほうはまだ生きていますね。よかったですね。
完( ´ - ` )