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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真表現大学】2017年度 修了制作展 作品レビュー(前編:総評&都市・風景)

【写真表現大学】2017年度 修了制作展 作品レビュー(前編:総評&都市・風景)

 

3/11(日)、写真表現大学・修了制作展の最終日に、生徒による作品プレゼンテーションと講師(畑先生、天野先生)による合評が行われました。

  

 

開会に際しての、畑先生の言葉を要約します。

昨年は「インスタ映え」という言葉が注目された1年だったが、それらは自己を飾り付けるファッション、アクセサリーのようなものである。一方、同じ写真でも「表現」はそれとは異なり、自己の内面や、社会との関わりをどう表すのかを問うものである。

この学校では「表現」のために必要な最低限の技術と、文字とのコラボレーションを通じてタイトルを考え、テーマ性を育んできた。

今年1年間取り組んできた中で、自身の作品について、タイトルとの関係など、この場でのプレゼンテーションを通じてもう一度考えていただきたい。

 

 

さて、生徒プレゼン&講師の合評を時系列で記録していくと、振り返りが逆に大変なので、ざっくりと以下のように分類してみました。

合評の正式な記録ではなく、私の私見が相当に入ることを了承いただくとして進めるとしましょう。

 

 

 

x軸:〔マイナス〕プロ、サービス(仕事、誰かのために納品する写真)

    ~〔プラス〕私性、自己目的(個人的動機、自分が生きるための「表現」)

y軸:〔マイナス〕人、家族、コミュニティ(自身・他者の内面を含む)

    ~〔プラス〕都市、風景

 

※プラス、マイナスの割り振りは座標軸上の配置のためであり、評価ではない

※数値の大きさは評価ではなく、展示作品やポートフォリオ、ブック等を総合的に見た際の「立ち位置」

←個々人の取組の到達度や深度は一定勘案しつつも、例えば「友人らの生き方についてドキュメンタリーを制作したが、それにより作家自身の内面の表現を行った(山本氏)」「地元のプロカメラマンとしての営業PRと、植田正治の世界観の継承とを同時に課題とされた(桜井氏)」場合には、数値的には+-で相殺された形でプロットしている。

 

これはジョン・シャーカフスキー「鏡と窓」(1978、MoMA)の分類軸である「鏡」(自己)と「窓」(外界)を参照しつつ、それだと両方にまたがる作品が多すぎるため、より実用的な指標に差し替えて設定したものです。

この4象限のグループごとに作品を比較しながら見ていきましょう。ちなみに風景・建築・都市系のプロカメラマンはいなかったので、3ゾーンとなります。

 

 

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(0)総評

都市・風景系のプロ仕事を除いては、生徒の守備範囲は概ねバランスよく分布していた。中でも「夜間コース」在籍の3名はプロ、作家の両方において高い実力があり、展示点数が少なかったことが残念であった。どこかの時点で1年目の生徒との交流があれば刺激になったはずで、その点も悔やまれる。私も結局接点がなく、全然話もできていない。よよよ。

1年目の生徒、特に基礎の方々は、月1回あるかないかの合評でテーマを追い、作家性を出さないといけないので大変だが、個々人のテーマがある程度、形になっていた。やはりそこは社会人の強みで、与えられた課題に対して取り組む集中力と、ネタを稼ぐための行動力においては、学生を凌駕するものがあると実感した。

それ以上に、写真においては、個々人の職業や所属組織において培われた専門的なスキルや視点、問題意識がどこかで強く生きてくるのだろう。写真の本質が複製技術とドキュメンタリー性である以上、感性とテクニックにそういった作者の出自が濃厚に反映されるらしい。

 

「人」や「つながり」を特集する生徒が多い中で、自分自身を直接扱った作家は小谷泰子氏だけであった。

これは前述のとおり、大多数が成人・社会人であることに加え、年齢層が恐らく30代でも若い部類という状況にあったことで、自己をストレートに写す必要性が薄かったものと見られる。

しかし山本美紀子氏が、自身と同年代(40歳前後)の仲間を取材し撮影することを通じて、自分自身の姿を写し出すという反射的セルフポートレートの形をとっていたことからも、皆が自分自身に関心がないわけではない。実は私自身が山本氏と似たような構造にあり、自身の日常生活における物体の見え方を時系列と拡大解釈によって示したことで、図らずも自分自身の認知・コミュニケーションの回路を露出させていた。

自己の鑑としての身近な他者として、高橋咲氏は2つ年下の妹を撮った。十代後半である作者は、多感な時期に自身の進路や生き方に悩み、家族や生徒仲間など周囲との関係にも穏やかでない心境を抱いていた様子だったが、唯一気を許せる相棒として、重要な存在感を以って妹の顔が写し出される。

 

プロットについて、小川真奈美氏はプロカメラマンコースだが、東健次の陶彫を写した作品は、一人の作家の思想と人生を追うもので、内面のドキュメンタリーであった。桜井氏は前述のとおり、営業用のPR写真と作家研究の両方を同時に行うこととなり、二つの取り組みを機材と技術力によって接着させていたことからプラスマイナスゼロとした。そして齊藤いりす氏は、地域おこし協力隊としての滞在先における四季おりおりの風景を撮っているが、それらは切り離された「風景」ではなく、現地の自治体や住民とのつながりを撮ったと解釈し、コミュニティ側へプロットした。

 

現代の機材の進歩により、軽くて安価で使いやすいカメラが次々に世に出され、結果として写真は業界のものから民主化し、誰もがプロと遜色のない写真を撮り得る時代となった。「インスタ映え」社会の一つの大きな特徴(恩恵)である。

岩見氏は全介護状態の息子との暮らしを撮るが、彼女は主婦であり、写真の専門家ではない。また、彼女一人が全てを撮るのではなく、カメラマンの立場は臨機応変に入れ替わり、写真が家族間での共同作業となっていた。少なくとも長島有里枝が家族を撮った時代には、被写体としての共同作業はあったが、撮影者としての視座がくるくる入れ替わることはなかった。息子のヘッドギアに小型カメラを装着し、リモートで切られるシャッターからは、ある種の特権を有していた「作家」の視座に、新たな可能性を示した。

 

 

「人、コミュニティ」の「プロ、サービス」側では、丹念な取材の積み重ねがあり、いずれも評価されるべき仕事であった。

吉川氏の個人邸宅のガーデニング写真は、見かたによっては都市景であるが、膨大な時間と手間を尽くして手入れを重ねる庭主の想いと向き合うものであるから、こちらに配置した。それと逆の構造を撮るのが小川雅美氏で、半分うち捨てられたような「小屋」を半ば擬人化したような眼差しで撮るのだが、所有者の思いや暮らしは度外視し、自然と人の営みとの境界を示す風景論としての作品であった。なお、彼女らも入学まで写真経験のほとんどなかった一般の女性であり、「写真」の民主化を感じる取り組みであった。

 

「都市・風景」の作家は、ほとんどがいわば「都市論」であった。しかし関西は東京とは完全に次元が異なっており、残念ながらいかに万博誘致のワンチャンありと言えども、やはり一地方都市でしかなく、都市としての特異性、特殊性を欠いていることが改めて分かった。

佐藤直樹氏は大阪の湾岸部を撮影したが、自身の心象をたっぷりと盛り込み、湾岸部の歴史的な背景などとは切り離された世界となり、詩篇としての語りになった。私に至っては、日本有数の大都市・梅田で撮影しながら、梅田を全く語らず、好き勝手にモンスターを呼び出し、都市の匿名性を濫用した形となった。

その、濫用できてしまうこと自体が、都市のある種の弱さ――パーツの組み合わせのパターナリズムで成立していることの証左と言えるかもしれない。私は「サブカル」を方便として自身の内にある情報の氾濫、暴走への欲望を託しているが、都市空間がシャーレの培養地のように無属性・無個性であればこそ可能な遊戯であった。

安藤氏の「都市の中で見られる群れ・配列を切り出して、スケールを問わず併置して見せる」試みもまた、割とすんなり成立していたことからも、大阪が人の手に負えるぐらいの規模の都市であることを感じさせた。岩本氏の「さえぎる風景」も、東京に比べれば随分と大人しい「遮り」であろう。

 

風景と都市景の狭間を突くのが、「小屋」の小川氏、「雨溝」の楠氏である。楠氏は展示点数や展開の規模が小ぶりであったことを勘案してプロットしたが、実際の作家性は私などよりずっと深い。風景=Landscapeとは、自然の風物の眺めと心情的な働きをもたらすものと個人的に解釈しているが、「自然」とは何かという問いがある。小川氏、楠氏においては自然と人工の狭間にある点(小屋)、あるいは線(雨溝)の内側を観察するものであった。

 

なお、薬師川氏のモータースポーツ写真は分類上「都市」側に配置したが、瞬間のドラマと興奮を永遠の輝きへと繰り延べたいという願望の運動であり、都市論とは性質を異にする。また、松岡氏の水族館の作品では、フォーマットは水族館という都市装置についての物語であるが、主役は作者の主観をぐっと投入された魚たちの生命の在り方にあり、実は鷹岡氏の花の作品と近い文法にある。

 

最後に、今年度の生徒における最大の特徴が「フォトヘルスケア」コースである。このコースでは様々な事情によって社会で生きることに自信を持てなくなったり、重荷を感じる人たちが、「自分に自信を持てるようになる」ことを目指すものである。写真と俳句を重ね合わせて用い、何気ない日常に光るものを見つけて集めてゆく作業を続けるわけで、穏やかな眼差しが心地よかったりする。

世の中でうまく発揮できなかった「自分らしさ」を、いかに取り戻し、どうやって伝え返すかという課題は、実は私達の誰もが共通して抱える難問である。その答えのヒントとなるかもしれない。

 

ただし、あくまでこれは教育機関の展示であるため、方針というものがある。生徒らの表現が単なるピクトリアリズムにならぬよう、この世界のありあまるほどの凡庸さや素朴さを尊重する教育がなされている。それゆえに教育の枠組みのリミッターを振り切った先の世界については、今後の個々人の活動で確認することになるだろう。

 

 

では、以下に個別の生徒のレビューを掲載していきましょう。

あとは簡潔に。

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 (1)(x、y)=(私性、都市・風景)

 

都市論、風景論の皆さんです。

①私(タシロ ユウキ) / 『温帯の繁殖者』~神様はいない、溶ける都市~

 

※イメージです

 

【作者】

昨年から、都市がサブカルの世界観と密接であることを指摘、ディテールに潜むゲームやアニメのキャラクター、モンスターに似たものを見出す活動をしている。今回はさらに、自分自身の実生活においてそれらモンスターの萌芽を探った。都市における疑似生命体はどこから現れるのか、単に都会の中だけではなく、暮らしそのものの中に彼らは棲息していると考えた。

なぜ彼らが繁殖しているか、それはこの国の都市には、統御者である神(文化や宗教、哲学)が不在で、サブカルチャーばかりが繁栄しているためと仮説。

私自身が都市の棲息者であり、その生活の24時間(朝、起床してから、通勤、職場での就業、帰路、そして帰宅・就寝)を示すことによって、私達の暮らしをも観察対象としてドキュメントした。 

 

コンセプトは以下にまとめた。

 

参照元は、東松照明です。  

 

 2年目以降の生徒は1年目の方々に場所を譲るのが慣例だが、なぜか一等地をもらっているの図。展示点数もえらいことに。

 

【講評】

・現代の都市は建築家(思想)が前に出てこない。企業体による街づくりがなされ、スピードと収益性が追求される。つまり没個性的な街が量産される。

・建築は本来、最もアカデミックな分野であり、哲学であり、物語であった。

・しかしその実現に当たっては、企業による既製品のパーツの組み合わせによる効率的な建設が行われる。これに、作者の「ゲーム脳」の感性、思考が感応した。

(ゲーム自体が、規格品のパーツ、記号を秩序立てて組み合わせて作られるもので、実は現代の都市と親和性がある。)

・作者の作品は、アカデミックな建築や都市論とは異なる「逸脱した都市論」であり、イメージの洪水によって現代の都市の均質性を訴える。作中に登場する「ふとん」は、そんな都市生活者が唯一安らげる重要な場として登場する。

・写真作品だけでなく、blogでの私論も色々と展開されているので、ぜひ見ていただきたい。

 

 

概ね好評でしたが、課題も多い。また、私自身の口から説明をすれば納得して評価してもらえた、という感じで、説明無しだとアレです。恐らく写真よりも現代アートインスタレーションの類に触れてきた年数の方が圧倒的に長かったことの現れです。(現代アートは感動ではなく気付きや衝撃を催すプレゼン力に力点が置かれる)

私の取り組みの課題と今後の展開案については、また別途紙面を割くこととしましょう。

 

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②くすのきりょうへい / 『雨溝生態学』~堆積と流れの自画像~

 雨溝の第一人者です。

この時点で合評が2時間半近くに及んでおり、もどしそうになっており、話を聴く気力はなく、しかしよりによって楠さんが「Y染色体がどうの」「花粉がどうの」「生活水がどうの」と難しいことを言っておられ、だめだ迷宮だ、うえっ。余計めまいがしたのでメモがありません◎ うえっ。すんまへん。

 

 誰よりも大量に撮り、大量に作品を有するお方ですが、本展示では3点のみの展示。被写体は溝の中の世界で、実に多様です。古代文明の頃から恐らく引き継がれてきた都市機能が「溝」で、都市の原形であるとともに、地上の世界とはまた少し異なる生態系の場であります。

このテーマはまとまった数を見ることで何か伝わってくるものがあり、本展示だけではその威力を体験できないので、みなさん個展に行きましょう。

 

【講評】

・作家活動の原点を押さえている。誰かに似せて作るのではなく、自身の眼差しを大事にした活動を行っている。

・既にこのテーマで個展を2回経験しており、作家としてのキャリアを培っている。

・家の前の溝なので、その家の人格が現れる場所でもある。つまり本作は、街や家の肖像画と言える。

・雨溝という特殊な環境ゆえ、撮影は難しいが、元・エンジニアの特性を活かし、自前で機材を開発して効率的な撮影技法を編み出している。

 

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 ③楠田正明 / 『次の停留所はコンパクトシティ

 コンパクトシティ化が全国で推進されています。

測量技師として昨年に赴任した先:三重県松阪市多気多気町で撮影された風景です。いずれも稼働中のバス停や電柱・ガードレールなどですが、人口わずか14,000人台、徐々に町が縮小していく様子が伺えます。

コンパクトシティとは、持続可能なまちづくりを目指し、都市機能を中心部に集約するとともに、郊外へ居住を拡散させないようにする都市政策、及びそのような都市のことです。郊外へ際限なく進出される居住区は、住民が車を運転できる間しか機能せず、超高齢化した際には買い物や通院が自力でできなくなるため、コンパクト化しようという発想です。

 

実は楠田氏は誰よりもアートなSF世界に心を強く惹かれ、そっちへめっちゃ引き付けられつつも、素朴な都市の姿を撮るように度々指導が入って引き戻されるのがお約束で、そのやりとりを見てきたせいか妙にこの作品が好きです。

 

【講評】

・こうした縮小する地方の町に仕事を通じて直面するのが、測量技師など土建業の従事者である。取り残されていく人はどうするのか、多くの課題に直面している。

・都市の真ん中にいては見えない実態がある。都市で生活している人は、縮小する町のことは聞いたことはあっても、見たことがないのが実情である。

 

 

④岩本啓志 / 『さえぎる風景』~ゆたかなせかいにたどりついたか~

 衝撃的なタイトルですが。

 

日本最高峰の建造物・あべのハルカスを撮っていますが、それらは電線や電柱、街灯、他の建物によって疎外されています。豊かさを求めた社会の姿がこれです。

ハルカスにせよスカイツリーにせよ、景色としての観光物においては、美しくてスマートな姿が売りにされています。しかし、実際に都市を歩く時の視界は、建造物がまるまる綺麗に見える場所は限られ、大体はきたない風景、お互いにノイズ的に干渉しあっています。

この場合はハルカスという存在自体が、阿倍野の素朴な町並みに対してノイズともなっており、いびつな都市開発の香りがあります。 

 

岩本氏の作品は授業ではもっとノイズ感が強く、かなりヤバさを感じたものですが、展示を見ると拍子抜けするぐらい、あっさりしていました。仲間と話した結果、「授業ではご本人が作品をセレクトしきれず、毎回大量に候補作品を見せられたが、その物量がノイズ感の源泉だったのでは」という結論が出ました。量いきましょう量。

 

【講評】

・日本一のビルとして建てられたが、調和ではなく周囲から浮かび上がる結果となっている。都市開発の違和感をとらえた作品。

・作者のアートへの屈折した思いが出ている。 (岩本氏は若い頃、現代美術が好きで、特にシュールレアリスムを好んでいたが、結局は美術と全く関係のない分野で長年仕事をしてきた)屈折は大事である、表現のエネルギーになる。

・要らないものが入ってくる面白さがある。どこか物語を感じる。

 

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⑤安藤明子 / 『つなげる関係』~群れの写真~

異なるもの同士を繋いでいく試みです。

「個性がないようで繋がりがある」、「関係がないようで、実はあるのでは」という思いつきから、都市に溢れる「群れ」を撮っては並べた作品。

都市空間の特徴として、均質なものが大量に陳列されることや、整然と配列されることが挙げられます。ここでは店先の商品、ディスプレイ、本屋の本棚、飲み屋街の提灯などが、本来のスケール感を混乱させるように入り乱れて提示されます。

私の場合は、都市の配列を切断して単体を切り出し、主観を注入して過剰に膨らましていますが、安藤氏は一度並べられたものを切り出して、その中身は触らず、パッケージのまま再び並べ直しています。ディテールが潰れていないのが画の強さになってる。同じ都市論でも安藤氏の方が都市の本質を突いている感はあります。

 

【講評】

・この社会では群れ、集積があり、無名性、匿名性に満ちている。リーダーやヒーローだけが活躍するフィクションと異なり、現実には群れに埋もれている。

・写真の面白さが生きている、スケール感の異なる2枚を隣り合わせて1つの作品としている。あまり見たことがない。

 

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佐藤直樹 / 『見えない光をすくって』~漂う時間が描くやすらぎ~

大阪湾岸です。

赤外線フィルターを取り除き、本来はカットされる「見えない光」を逆に取り込むことで、肉眼で見ることのできない視界を得ています。被写体は大阪の南港など湾岸部で、空と海とアスファルトがノイズ感の豊富な風景を育んでいます。

これは佐藤氏の幼少期の記憶と印象を、今この身体に手繰り寄せるもので、現実の風景というより、彼の独自の詩となっています。近い将来、万博が誘致されそうな感じが全然しないのがいいですね。

 

ただし彼自身も詳細については「よく分からない」ということで、夢の中の出来事のような不思議さがあります。佐藤氏は分からないことは「いや僕もようわかりません」とはっきり言わはるので個人的にツボで好きです。 

 

【講評】

・マット、フレームの比率がちょうどよかった。余白がこれ以上小さくても、大きすぎてもダメだし、フレームがもっと太くても成り立たなかった。

・ギャラリーの外から窓越しにこの作品が見える。それがなんだかいい感じ。

・作家の心理、世界観は、これまでの合評では見えないところがあった。ペーパーだけで見ていたためだ。きちんと展示のための額装を施すことによって見えてくるものがある。それが作品作りに重要な点で、ディスプレイ越しにしか見ない「インスタ映え」と大いに異なる点。

・説明のできない作品。感じることが必要な写真。(畑先生曰く「僕が一番分かりにくかった写真。説明ができない」とのこと)

 

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⑦小川雅美 / 『ええげに活きている』~自然と人、共生の肖像~

 小屋です。

「ええげな」とは鳥取方面の方言で、「良い感じな」の意、ちょっと鄙びた、ピカピカでないものを少々の皮肉を込めて「良い」、という言葉です。この小屋たちは実は使われていて、廃墟ではない、けれど相当な年季の経ったもので、かつ、見せるためではなく実用のためのもの。農業や漁業で用いられていて、人間の営みと自然との共生の姿でもある。

この先、本格的にそれぞれの家庭が1次産業から撤退していくとき、小屋の命もまた自然に還ってしまう。現役の姿を見られるのは案外もう長くはないのかもしれない。日本の風景が大きく変質する時期に来ているのだろうか。などと色々な見方ができます。

 

スペインで撮られた一枚(上段・左端)をきっかけに始まったシリーズで、夏~秋にかけて生徒に小屋情報をつのり、取材に奔走しておられました。

 

 【講評】

 ・建築家のいない建築。生活に即した素材、作り方で生み出される。スペインの小屋は石ベース、日本は木材でできている。

・建てられている環境や小屋の姿について、様々な読み方ができる。手も入れられないほどの過疎と見るか、小屋のしぶとさと見るか。

・それぞれの小屋が擬人化されていて、個性を感じる。

 

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⑧松岡香奈 / 『ひかるいのち』~ガラスの向こうの小さな海~

水族館です。 

都市機能のかなり尖ったものとして水族館があり、なんで海や川や池を建物の中に再現しようとするのか、変な話ですがそこまでの必要性があったのが我々、都市生活者というものです。しかし作者の眼は、そういった都市論は別として、魚たちが「生きている」ことに注がれています。

水槽の中で生きる魚がどこからきて、そして死んでいくのか、想像すれば少し悲しい、しかし彼らの側には悲哀も何もなく、ただただ生きており、その力強さや儚さをしっかりと見つめたことが、フォトブックの巻末で語られています。  

 

鑑賞、娯楽用の「一方的に見られる」魚の側へ、アクリルの向こうに踏み込んでいることが重要です。この作者の視点の鮮やかさと深さはフォトブックを読まないと気付きません、皆さんちゃんと読みましたか? 私はインドネシア居酒屋で飲みながら読んだので涙腺があれしました。やばいですね。いい作家になるとおもいました。

展示では白フレームが水中感を逆に抑えてしまったので大人しい印象。ブックは良かったですよ。皆さん読みましたか?

 

【講評】 

・水族館は世界中の都市の中でも限られた先進国でしか建てられない。人間が自然と完全に切り離された生活を営むようになった結果、自然を取り戻すため、都市機能として設置されるようになった。

・生き物の生命力、生きる姿に触れられるように、都市の中で水族館がどういう役割を持っているかを語る作品。

・絵画のように見えた。魚が魚に見えない。写真としての面白さがある。

 

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⑨薬師川聡 / 『1/1000』

 モータースポーツと言えば薬さんです。

男子とは、弾丸のように何かに特化した存在であると言われますが、その象徴例が薬さんだと感じます。今は時代が変わってきており、男子女子の性質のカテゴライズがナンセンスとも言えますが、あれです1980年代に生まれ育った世代の男子は、弾丸とか兵器みたいなもんで、パワーや速度に惹かれます。本能です。

メカ好きなお方で、カメラ機材もモータースポーツも、まあ喋り出すと止まりません。5分も喋ればわかります。本当に好きなお方なので、鈴鹿サーキットに通い詰めです。鈴鹿8耐の話を聞いていてもレーサーと薬さんのどっちが耐久してるのかよく分かりません。倒れないでくださいね。

 

今年度はプロカメラマンのゼミ生として在籍していたはずですが、職を辞してプロに転身したり忙しかったようで学校で見かけることは稀でした。モータースポーツの最も興奮、感動するところを切り取るという、写真の王道のような作品です。

なので座標上のどこにもプロットできないんですが、本人の追求したい世界をとことん狙い澄ましているという意味でx軸を「私性」側に振りました。

 

作者不在のため先生が代理。

【講評】

・写真家として昨年に独立。自身の強いジャンルとしてモータースポーツを撮っている。力のある画を撮り、今までにもコンテストで受賞歴がある。

・今後の課題として、どうやってお金にしていくか。今は雑誌がどこも売れておらず、出版メディアからWebメディアに切り替わっている。F1の写真というものを、どういった形で扱ってもらえるのか。

・昨年度はF1だけでなく家族、子供の写真や動画も撮って提供できるように技術を磨いてきた。皆さんの周りで子供を撮る仕事があれば、ぜひ彼を紹介してあげてください。

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簡潔に書いたつもりが全然簡潔にならない。このペースでやっていたら生活が破綻すると思うが事実上破綻しているのでこれ以上失うものがなく、また皆さんへの愛着というかなんかこうあれな思い入れもあるので書いてしまう。ぎゃはは。はい。

次章、後編では「人・コミュニティ」軸のみなさんをまとめます。