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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART―写真展】写真都市展―ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち @21_21 DESIGN SIGHT

【ART―写真展】写真都市展―ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち @21_21 DESIGN SIGHT

 

ウィリアム・クラインの撮った都市はかっこいいモノクロ写真だった。けれど、当時、1950~60年代には、モノクロフィルムしかなかった、だけだったのかもしれない。彼の中ではもしかしたら、もっと躍動とスピードと色彩が多重にびゅんびゅん行き交っていて、燃え盛る恒星のように炸裂していたのかも知れない。

 

本展示では、ウィリアム・クラインと、彼から「都市」のバトンを受け継いだ写真家を、空間インスタレーションとして展開。クラインの偉業も「都市のスナップ」とは言わない展示構成となっており、むしろ現代の作家達へ繋ぐために、都市を惑星規模で捉えた映像表現としています。結論、かっこいい。

 

 

( ´ - ` ) かっこいい。

 

 

( ´ - ` ) いい。

 

ウィリアム・クライン森山大道も、若い頃もかっこいいし、今現在もかっこよく、現代のデザインや映像技術によって再解釈すると更に加速度が高まるという、鬼のような力があります。うぇいー。鬼。うらやましい。

 

あっうらやましい。ポスターの時点でかっこいい。来てしまった。来ざるを得ません。21_21 DESIGN SIGHTは、他の多くのギャラリーや美術館がお休みの月曜日に開店していて有難い。こんちは。かっこよくなりたいんす。うッス。

 

 

 

さて都市写真ですが、ウジェーヌ・アジェが1800年代終盤から1920年代にかけてパリの街を撮ったあたりがその起源として、時代とともに機材の大幅な向上があり、1930年代・ブレッソンの活躍する時代にはライカで手持ちスナップ撮影で決定的瞬間です。そのスピード感と、眼前で起きる全ての状況を取り込む即応力は、高速で複雑化、進化していく都市の世界に相性がよく、1950~60年代、戦後の大量消費社会へ突入、ロバート・フランクウィリアム・クラインが時代を捉え、臨界突破でブレてアレてボケて現代突入です。

 

当時のアメリカは、これまでにない都市機能の洗練と高度化が進み、行き交う人々の服装や髪形は従来の写真に収められていた民衆より更に多様化しエッジの効いたものとなっています。街自体の装いも、電気をふんだんに用い、印刷や電飾の技術の向上により、広告が都市の表面を覆い、いつしか過剰な表面のそのものが本質へとなり替わり、都市はイメージの世界となります。

 

一方で都市の人々の表情や横顔には、喜怒哀楽のどれにも属さない、寂しさや虚無感、あるいは虚栄、暴力性も伴うようになり、写真にはしっかりとその翳が写り込みます。都市がいかに理想的な消費社会を形成しつつも、新聞、テレビ、雑誌などメディアの力が増すごとに、戦争や人種差別や疾病といった「問題」は暮らしとより密接となり、殺伐が増します。ロバート・フランクアメリカにおける哀しさや寂しさを、ウィリアム・クラインはかっこよさと暴力性、制御不能の速度感を、それぞれ表しました。

 

本展示ではW・クラインのかっこよさと速度感、ビジュアルの鮮烈さを空間に表し、写真鑑賞という域を超えて、普段街を歩くときのテンションや視覚体験を思わせるようなセットが組まれています。それは、現代の都市の在り方を意識したものであるとともに、現代の「写真」の多様な在り方へのつながりを示すためです。

 

写真集でクラインのモノクロ写真集を見た時には、ここまでのイメージのスピード感と重層性を得るには至りませんでした。写真一枚一枚の中を読んでいました。しかし立体的にモノとして、半・建築的な重なりとして目の前に現れると、都市の広告や表面に触れたときのように目で追うことになり、かっこいいたまらん。

 

一部作品を除いて撮影フリーです。

 

 

展覧会ディレクターが伊藤俊治氏ということでした。万事了解です。メディアアートとしての写真展示という読み方でいきましょう。やはり惑星とか地球といったキーワードがあります。

 

 

 

 

クラインの写真を映像化した空間が、これはとても、とても素晴らしいです。自分がクラインの意識の操縦席にでも座ったかのような錯覚を覚えます。彼はこういう風に都市を見ていたのか、と。暗闇に映し出される無数の写真は見覚えのある名作ばかり、そのスナップフォトの集まりが、当時の「都市」の緊張感を顕わにします。

これらは瑞々しさもパワーも健在で、過去とは思えません、今現在の都市とかなり共通したフォーマットがあるようです。そうか半世紀前の都市とベースは一緒か。我々の営みもまだまだ電子化されてないし、アスファルトの路面を人が行き交い、車が走るという構造です。オンラインゲームを応用したらWeb側を社会(会社)化できそうなもんですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あかん。しびれる。これは書籍やWeb情報では体験の補完ができないので、ぜひ現地でお楽しみください。ひたすらかっこいい。ええ。

 

ロバート・フランクも同じく、写真の上から絵の具を塗ったり、映画作品に力を入れたりと、写真の文法に留まらない表現を模索し続けていました。彼らには「写真とは何なのか、どうあるべきなのか」という問いがあった、その新しさへの精神があったから、今なお彼らの世界は色褪せないのかもしれません。 

 

 

第2幕は現代の作家。

 

 

大型のプリントで、インスタレーション的な構成となっているのが特徴です。

 

以下、全員は触れられないので気になった方々を抜粋。

 

◇多和田 有希 氏

都市に亀裂が走り、何かが目覚めそうです。封印が解けます、都市の底に封じられていた何かが目覚め、

目覚めませんのです。サブカルだと胸激熱展開ですが、都市の底には繊細なインフラがあるだけで、メガトロン様も平将門の怨霊も入っておりません。行政的には復興事業のコスト見積で嗚咽です。

 

都市に電気や霊力のエネルギーが力強く漲っているように見えます。プリントを直接擦るなどして表面を傷つけると、それが白く光っているように見えるのでした。通常の写真と違い、作家の手による仕事が刻まれているため、この1点は再現不能な唯一のものとなっています。近づいて見たらズタズタや。これをするのは大変。

 

 

都市の中、地上を犬のように練り歩き、予期せぬ出会いを撮るレベルから、半世紀が経ち、写真家はGoogle Earthの眼を搭載するに至りました。都市は、衛星の規模で捕捉されるものになっています。将来的に、建築や電波以外のインフラ概念として、新しい粒子が活用されるようになれば、空から見た時にこのような光の柱、円陣を描くようになると思う。

  

◇西野 荘平 氏

「都市写真」のあり方を一変させた「Diorama Map」シリーズ、驚異的作業量のフォトコラージュが有名です。街の中で通常撮影された写真を大量に用いて、その街を俯瞰する地図をデフォルメで作成しています。一枚一枚の撮られた場所と、地図上の位置が合致されており、一つの作品の中で鳥の眼と人の眼の二つを同時に体験します。

 

 

これ。全部写真の貼り合わせで出来ています。縮小されているだけで本当はめちゃくちゃ大きい。

リオデジャネイロ。ちゃんとキリスト像が立っている。治安大丈夫だったんでしょうか。観光地以外でカメラを出したら殺されて強奪されそうですが。

 

 

ヨハネスブルグ。こちらも修羅の国と名高く、どうやってこれだけの枚数を現地で撮ってくることができたのか、そのこと自体が謎です。見ると食事光景や現地の方々、ナイトシーンなど、地形上のインフラだけでなく現地での体験が豊富に練り込まれています。

 

 ニューデリーかな。

 

 

◇安田 佐智草(さちぐさ) 氏

都市を俯瞰する作品がトレンドだったんでしょうか。みんな前世は鳥ですか。まあGoogle Mapを当たり前に使ってたら「いや上から見るっしょ」ってなるか。

思うにガチの「写真」からキャリア形成した人はこういう俯瞰のコラージュを執拗にやりこむ発想に至らないと思う。写真・カメラ道から入ると、やっぱり森山大道の眼を意識し、そっちの方向で表現しようとするだろう。美大など他のアートの文脈から来た人、現代アートの戦略で写真を再定義することができた人は、このように自由な展開ができるようになる。

 

 

会場の壁面をずーっと横断している、謎の回路盤のような作品「みち(未知の地)」は、よく見てみると家屋の敷地があった跡らしい。基礎の部分や隣地との境界のブロックが続いている。

 

剥き出しになった床や風呂場も見え、これと同じものを目の当たりにしたことを思い出しました。東北の被災地です。津波によって家の本体部分を全てさらわれ、破壊され、地面に食い込んでいるところだけが残っているというものでした。

もしかしたらこれら作品内の区画は、被災地で倒壊した住居跡を撮りためた写真から成るもので、作家の独創により貼り合わせた、まだ見ぬ新しい区画かもしれません。私は自分の住んでいる地域を「郊外」、「都市」の一部と見なしていたのに、311の津波の被災地についてはそれを「都市」とは見なしていなかったことに気付きました。

 

◇勝又 公仁彦(くにひこ)氏

都市における時間の流れを、複数枚の写真を並べて配置したり、多重露光(合成?)によって表す技法を用います。

複数枚の写真を並べて被写体の動きを表現、というと、ドゥエイン・マイケルズのシークエンスがありますが、勝又氏のとらえる時間の単位、動きの規模感にはもっと幅と複雑性があります。四季の移ろいを表現するときもあれば、秒単位での動き、人々や車の移動し続ける姿を重ねたものを並べます。都市の動きの中では、主体を同定できず、場面も明確に分割・分類できません。分類できない瞬間が連綿と続いています。救急車やパトカーがわんわん鳴ったときぐらいかな明確に分類できるの。

 

代表作。なんと縦の高さは私の身長(181㎝)を軽く越えていて、それがずらっと並んでいる。すると「写真作品を鑑賞する」というより「都市(疑似)の空間に立っている」感覚となり、実際に夜の中心街で感じる疾走感、通過している体感(疑似)が生じました。プリントのサイズと質感によって引き起こされた、空間の変容があります。

 

 

福井の原発です。核エネルギー施設と、焚火という原始的なエネルギーとの対比がとても皮肉で、けど写真が綺麗ですね、エネルギー同士を並べるという写真は見たことがありません。

都市は自力でエネルギーをまかなうことが出来ない。

 

 

 ◇石川直樹 氏 + 森永泰弘 氏

柱状の壁面に極地の営みの写真が掲げられ、うっすらと現地の音、動物の鳴き声、音楽?のようなものが流れています。これらの音は森永氏の作品。

 

 ( ´ - ` ) 今まで食わず嫌いだったが、石川氏の写真が好きになった気がした。

一見、素朴だが、とてもパワーがある写真。被写体に対する肯定の念が深い。見ているものを、自身のレッテルで色をつけない、出来るだけありのままに引き受けている写真。

北極圏に位置するスヴァールバル諸島での島民の暮らし、自然、街のようす、家屋の並びなどを捉えています。日本から遠く離れた極地の街を見るにつれ、「これは"都市"だ」と実感しました。

どうも日本で「都市」というと高層ビルや地下鉄、信号機などが定番のように思うところですが、そうやないよと。北極にも都市はあるんやと。 

 

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都市の姿をどう語るか、どう捉えるか。

変数がやたら多く、どんどん通信機能も発達しているし、私自身、語り方が難しくて難儀しています。何枚か普通のアイレベルで撮って「はいこれが現代の都市です」と言えるか、というと、むりで、多層的にやらないとだめです。写真の撮り方、展示の仕方自体を多層化させないと、いや、スナップはそれで楽しいし幸せですよ。幸せでは作品にならないんだ。「都市」の複層的な在り方をどう受け入れて、どの軸を足し合わせてフォーカスするか。3軸ぐらいほしいですね。ください。

 

 完。