【ART―写真展】ロバート・フランク展「Robert Frank:Books and Films 」おかわり@KIITO(神戸)_H29.9.23
いい飯といい展示は1回で終わることはなく、おかわりが発生します。
( ´ -`)ノ オカワリー。
世界的にもこれだけ大規模なロバート・フランク展は今後も行われるかどうか分からない、という話もあったので、おかわりに行きました。オカワリー。
それでも世間の写真集ジャンキー、映像ジャンキーに比べれば私などは誤差の範囲内です。去年から少々写真集を見始めたぐらいでキャリアが浅い。映像にしてもゴダールのDVDボックスとかを7~8年前に買ったもののまるで観ずに放置しており、ジャンキー度がいまいち足りません。イェーー。
前回のブログでは展示の半分ちょっとしか触れていなかったので、物足りないから残り半分をやります。イェー。
写真集「The American」作成時について、膨大なスナップ写真からフランクがどのように写真集に使うカットを選んだかを、コンタクトシートで見ることができます。
コンタ
クト。
無駄がない。露出めちゃくちゃのもあるけどだいたい写真集の世界観そのもの。かなりの頻度で「当たり」のカットを押さえている。どういう集中力だ。常人は真似できないというか寝込むと思う。採用カット前後のコマも味わい深い。ワンシーンで切るシャッターが意外と少ない。2~3ショット。もっとあれこれ試しているかなと思ったら、呆気ないぐらいあっさり。
何かが「見えて」るんですね。羨ましい。
2000年代、最近のフランクの活動(写真集)がまとめられていたので、記録しておきましょうか。
写真集「Leon of Juda」(2017)
「ヴィジュアル・ダイアリー」シリーズ7冊目。
「ニューヨーク、ブリーカー・ストリートのフランクの自宅で撮られた静物と、ノバスコシア州マブーの自宅周辺の風景が、友人、仲間、妻でアーティストのジューン・リーフをさりげなくとらえたポートレイトや、古い絵葉書の写真に割って入る。」
何か書こうとしたけれど言葉が上滑りして何処かへ消えてしまった。
ああいい。どうかしてる。
見事すぎる。
あーー。
「何気ないもの」は本当は無くて、ただそれらを「何気ないもの」と称して、あまりじっくり見ないようにしておかないと、日々の煩雑でストレスフルな状況を処理できない、実務上いろいろ困るということがあります。実務は実務モードにギアを入れていないと対応が難しい。そういうことの積み重ねでなかなか顧みられることのないものが、このシリーズからは思い起こさせられる。身近な人のことをどれだけ見つめたことがあるだろうか。カメラはそういうものを写しだすことができるから、実務モードからふと踵を返して「なにげ」へ帰ってくるときの手掛かりになる。しかし、その使い手である我々はその瞬間にもまた別の実務モード(フォトジェニック、インスタ映え等)に占拠されていて、「なにげ」は永遠に遠いのです。
写真集「Was haben wir gesehen / What we have seen」 (2016)
「フランクの現在および過去における人々や場所を探究するものとなっている。」「マブーにあるフランクの家は、自分の家族や、ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズらの友人のための人気の隠れ家として再び描き出されている。」
もうビートジェネレーションの皆さんは亡くなったけど、今でも健在であるかのような錯覚を覚える。
静謐な印象。時をとどめる彫刻。
写真集「Partida」 (2014)
「自身が過去に撮りためたものを掘り下げ、友人たち、仕事仲間、室内の風景、言葉少ない静物、ありふれた、あるいは思いがけないものや場面をとらえたスナップショットを集めて、新たな写真群を創造している。」
自分自身を含めて、色んな人のinstagramとかを見ると思い知るんですが、日常をどう撮ってもこんな風に愛おしいものには、なかなか、ならない。なぜでしょうね。ならへんのです。デザインセンスのある人などは、うまく出来ている印象。カメラの性能とレタッチの強度をたのみにしている人は、だめ感。ああ私だ。だめ。一枚一枚の写真の声が大きすぎるとダメなのだろう。全体で一つの物語、一つの世界になるように、一枚一枚は抑制をかけ、トーンを整える。かつ、前後左右で繋がりが膨らむよう、有機的な組み合わせとなること、つまり編集力が重要であることがわかる。ウエー。吐きそう。素敵だ。
しかしそれだけではない。そんな些末なことではない。ないんだ。方法論を超えたものがある。写真そのものに依存していない、丸投げで世界の扱いを委託するようなことをしていない。あくまで、語るのは彼自身の肉体、精神が語っている。自分の外にある世界について、詩を紡ぐように、映画を撮るように、彼が自らの言葉で物語っている。ウエー。吐きそう。写真に依拠し、写真に語らせることに邁進した人たちは、格闘家崩れみたいに筋肉と技ばかり鍛えて、ルールの上で戦うことに特化しすぎる。それでは世界はどんどん取りこぼされ、輝きを顧みられなくなる。フランクの写真はそこを大切に掬いとっている。吐きそう。素敵だ。
光を見ているよね。時間というものが光の速度によって定義され、24時間の朝昼晩によって生活が統治されていることを思うと、時間に携わるためには光を見ないと始まらない。闇の中にいては何も見えません。なので自意識や感情の振れ幅からも一定の自立をしないといけない。前が見えません。前って何だ。吐きそう。素敵だ。
写真集「Park / sleep」(2013)
「フランクの友人や家族、自宅兼スタジオ、風光明媚な場所や都会の光景、室内などをとらえた現在と過去の写真を組み合わせている。イメージにはメモや会話の断片、詩や頭に浮かんだ考えなど、短いテキストが添えられている。」
えらいこっちゃ。力がある。これはたいへんだ。何を食べたら映像能力が向上するのかと思いますね。煮干しとかもっと食べとけばよかったかな。計算能力とか空間の立体把握能力とか同様に、幼少期のどこかの時点でのトレーニングあるいは先天的な冴えが無かったならば辛いのかな。と言って自分にあきらめをつけようとしたりして。そういう意味では多感な時期をゲームと漫画とアニメで生きてきたわけでそっちの感性は凄いことになっているという自負はあるよね。ははは。だめだ。
目の前のものを撮っているというより、そこにあった時間、そこに自分が居合わせたことによって生じた時空間のノイズを撮っているのではないか、関わり、在ること。これはゲームで生きてきた人間には無い眼差し。ゲームの中では全てが映像素子でくっきり来ますから。予兆みたいな揺らぎはなくてですね。代わりにバグや不具合があります。
インタビュー嫌いで気難しい人という話だったが、仲間が多いし、親愛なる身内に恵まれていてたいへん羨ましい。そう、うらやましい。私も仲間を大事にします。しましょう。
いい写真は、視線が自己の人生とかあり方へと深く跳ね返ってくることがあり、内省でずたぼろになったりしますが、概ね自己責任なのでそれは泣いたり死んだりもんどりうったりするしかありません。ずたぶくろになりましょう。
写真集「You Would」(2012)
「新旧の作品を入念に編集することで、過去の経験がフランクの現在を強固なものにし、彼の人生は本作りによって記録されるだけでなく、形づくられていることが示唆されている。」
写真の面白いところは、それ自体は客観的な記録のメディアであるけれども、撮られたものは記録上の時系列に留まらずに勝手に生きていくということがあります。昔の写真を混ぜても、過去も今もなく混同されるというか、共存が出来てしまうというか。
私の友人がinstagramで、今まで撮ってきた旅先やイベントでの写真を、時系列バラバラでupするということをしていますが、特に違和感がないどころか、ものによっては「あれっ今ってこんなアートフェスやってるの?」と誤認することがあります。2,3年前に一緒に行ったやんていう。その記録性と記憶性をうまく出来ると、作品の力が高まるような気がします。してきました。
時間とは何なんだという話になり、時間のルールから映像が漏れ出してパラレルワールドを作っていく趣があります。作家の語ろうとする物語、人生において、過ぎ去った日々、鬼籍に入った仲間たち、今なお続く身近な人たちとの関係、空、彫刻、空間に刺さるフレーズ。失われたものとそこに在り続けるもの、形を変えて日々現れるもの。
写真集「Tal Uf Tal Ab」 (2010)
「2010年当時のロバート・フランクの生活を伝えてくれる。それは、思い出によって形づくられた探究心に満ちた一冊であり、路上の売店、街角の風景、友人たち、妻のジューン・リーフ、室内の様子、セルフ・ポートレイトなどの写真を収録している。」
( ´ -`) いい。
何がいいのかを
語ることは難しい。
写されているものは素っ気の無い、日用品であり日常の場であるが、網膜の中、記憶の湖の中層あたりの、やや深いところに沈みながら、ゆらめいている像を見せられているようである。
記憶は印象と結びついている。感傷といってもいい。記録は山に打ち込まれた三角点のように強固だが、点でしかない。記憶とは別物だ。記憶はあまりに曖昧で頼りなく、どんどん拠り所を失っていくので、その周辺にある様々な他の情報―その時々の感情のブレ、すなわち印象、感傷をアメーバーのように貪欲に取り込んでは、ぶよぶよと膨らみながら不定形のボディを何とか保とうとする。彼の写真は記録と記憶の間を揺さぶり、私達の中に潜むアメーバーを活性化させる。
愛情の作家だなあ。
/(^o^)\
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愛のことがわからないので、KIITO内の他会場でやっている展示を冷やかしました。世界と日本の玩具の歴史です。
ものすごく9割5分ぐらい割愛して、昭和・平成の玩具を見ました。
80年代の玩具。
小学時代にあった。マジックテープ式の野菜調理おもちゃ。音を鳴らすとセンサー感知してぐねぐね腰を曲げる植物や缶。記号がピコピコ動くだけのゲームウォッチ。記憶から消え失せていたものが蘇りました。覚えていたはずが覚えていない。
コニーちゃん ( ´ -`)
この娘さん何だったか覚えてない。なんだ。
ミニ四駆は「シャーシを削れば削るほど重量と空気抵抗が軽減されて速く走れるようになる」という削り神話があり、科学的な裏打ちもないままに削りに入ってシャーシを破損させる事故が身の回りで散見されました。私は鉄道にしか興味がなかったのでミニ四駆には手を出しませんでした。113系とか165系が好きな子でした。
ロバート・フランクは、良いという結論でした。
明日から世界を見る目がすこし変わりますように。