写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【試論】UI化する都市 ― 東松照明「INTERFACE」が接続した先 ―

【試論】UI化する都市 ― 東松照明「INTERFACE」が接続した先 ―

 

私が自分自身でも解釈しきれないでいる、非常に断片的な写真の数々について、一つの「都市論」としての形に押し上げていく上で参照したのが、東松照明である。

「群写真」という手法だけでなく、「INTERFACE」シリーズで示された「境界(面)」という視座が、現代の都市へ接続する先を追いたい。

 

 

 東松照明は都市を語らなかった。

 

 

◆序論 

いや、1960年代までは、石油コンビナートや学生紛争、都内のアスファルトに眼を向け、ソリッドな都市の冷たく暴力的な姿を捉え、大いに都市について語っていた。職場兼自宅が西新宿にあり、毎日のようにシャッターを切っていたという。

 

しかしその後は、他の多くの写真家、また東松における他の代表的な作品に対する熱量と比較してみると、戦後日本を牽引した写真家としては意外なまでに、都市に対して寡黙であったと言わざるを得ない。東松の力量と熱中をもってすれば、バブル期に向かって勢いを増す日本の都市の真っ只中で、ゼネコンや商社や電通の内部、あるいはジュリアナ東京や歌舞伎町、都内の地下鉄や夢の島などにぐいぐい入り込んで膨大なドキュメンタリーを遺していてもおかしくはないのだが、そうはしなかった。

 

何故だろうか?

 

ある時期から氏の関心が、沖縄を始めとする南西諸島にのみ奇跡的に遺されていた、古き良き原日本のイメージ(アメリカナイズされる以前の日本)へと強く集中していたため、都市へ力を振り分ける余裕も興味もなかった、とは言えるだろう。もしくは大病を何度も患い身体的な限界があった等々の事情もあっただろう。

 

しかし東松が「インターフェイス」に代表される作品群で収めた、非常に平面的で断片的な、抽象絵画のようなイメージ体は、逆説的にその後の都市が辿る姿を予見していたようにも感じられる。

  

東松照明の来歴

東松照明の来歴を駆け足で押さえておく。

 

1930年に名古屋市に生まれた東松は、十代の多感な時期に太平洋戦争の空襲から終戦までを一気に体験したのち、1950年に愛知大学経済学科に入学、写真部に入部した。ここに東松のルーツが凝縮されている。

戦前の名古屋は前衛芸術の機運が高まっていたメッカで、詩人の山中散生、詩人・随筆家の春山行夫、詩人・写真家の山本悍右らがシュールレアリスムの研究と実践に力を注いでいた。東松のよく出入りしていた喫茶店の壁面にもダリの模写が描かれているなど、地元は氏の感性の基礎を形作る原点となっており、東松作品における画面構成にはシュールレアリスムの手法との関連が指摘されている。

 

また、大学ではロシア語と映画演劇論を教えていた熊沢復六教授から写真展の展示作品について「東松作品はダダだ、ダダイズムには未来がない」と批判を受けたことをきっかけに親交が生まれ、自身の内面から眼を外部の世界に向け、自覚的に撮るようになったという。

この頃には写真雑誌『カメラ』の月例に応募し、土門拳の提唱するリアリズム写真運動への共鳴を見せた。

 

卒業後1954年には岩波写真文庫にカメラスタッフとして入社するも、名取洋之助の提唱する「組写真」(ストーリーを主張するための素材、道具として写真を挿絵のように使う手法)や、写真を細かくトリミング、レイアウトする手法に反発。決定的だったのは、自身の名義で写真を発表することがまだ許されない出版社の中で、それを敢行したことであったと考えられる。3年弱でフリーランスに転身。名取の「組写真」に対する概念として「群写真」、複数枚の写真により映像自体を語らせ、作家の思想を語らせる手法が推し進められる。

 

1959年、初めての個展を開催。伊勢湾台風の襲来による実家の倒壊を経つつ、日本発の写真家によるセルフエージェンシー「VIVO」を6名(東松照明奈良原一高、丹野章、川田喜久治、細江英公、佐藤明)で結成。自身の作品は自身の著作物として権利を持ち、管理するという、新しい世代による新しい発想のムーブメントであった。

 

1960年代は東京など都市部、米軍基地、長崎の原爆の記憶、アフガニスタンなどを特集。写真集「NAGASAKI」「サラーム・アレイコム」といった名作を生み出す。

1969年、1971年と、返還前の沖縄を取材。この時、米軍基地のお膝元にありながら、アメリカナイズされざるかつての日本の姿を留めていたことに深い感銘を受ける。

1972年、日本返還直後の沖縄に再び飛び、住民票を移して1年間滞在。そこから宮古島へ移住、さらには東南アジアの島々への旅へとつながる。

70年代は写真集「I am a King」、「太陽の鉛筆」「泥の王国」を刊行したほか、「WORKSHOP写真学校」を荒木経や細江英公らと開校(1974-76)。

80年代、大病を患いながらも、日本の原景を求めて京都の取材、日本中を駆け巡って桜の撮影を行う。一方で1987年、心臓バイパス手術後の療養中に、千葉の九十九里浜で「プラスチックス」シリーズを撮影。

2012年12月、没。

 

功績として、1950年代から60年代の激動の戦後日本、特に在日米軍基地やアメリカナイズされゆく日本とがっつり向き合った仕事が、氏の代表作として印象深い。沖縄の取材も同様である。

しかし写真を撮るだけでなく、写真集を数多く出版したほか、テレビ番組や映画の制作に携わる、写真ワークショップを開校するといった、映像分野における幅の広い仕事をしていることが特徴的である。大学在学中に全日本学生写真連盟で中部地区代表委員を務めるなど、オーガナイザーとしての手腕は元々あったと思われる。

 

 

「INTERFACE」 ―都市と自然の境界面ー

東松照明は1950~60年代を通じて都市を撮り、石油コンビナート、住宅群の空撮、無表情なビルや、人物のスナップを撮った。まだ高層ビルがなく空の広い都心で素朴な人々の営みを撮り、チンドン屋を撮り、場外馬券売場を撮り、都電を撮った。高度成長期の都市の変貌、学園紛争や、新宿周辺のアングラ文化、そしてアスファルトの路面に落ちた物体や、路面そのものを撮った。まさに戦後日本の社会情勢を凝縮したような多忙な眼の動きである。VIVOのメンバーの中でも最も社会性・公共性の高いテーマで撮影を行っていたのではないか。

 

しかし一方では、都市の表層・表面の質感に強い関心を抱き、天然のオブジェとも抽象絵画ともつかぬ、平面的な作品を数多く制作した。ここではそうした傾向を持つ作品を一連のテーマとして、「INTERFACE」シリーズと呼ぶことにする。

なお、どの作品を同シリーズと見なすかについては、1996年「東松照明写真展 インターフェイス」(東京国立近代美術館)、及び2017年「INTERFACE -写真家・東松照明を見る-」(フジフィルムスクエア 写真歴史博物館)での展示構成を参照し、以下を挙げる。

 

・「アスファルト」(1960)

・「プラスチックス」 (1988~89)

・「インターフェイス」(1966~96?)

・「ニュー・ワールド・マップ」(1992~93)

・「キャラクター・P -終の住処-」(1996~98)

(まだ把握しきれていないシリーズがあるかも知れないが、代表事例としては不足はないと思う)

 

 

代表格がアスファルト」「プラスチックスである。

アスファルトは1960年の東京都内、職場である「VIVO」の銀座の事務所と巣鴨の住処を行き来する中で、自身を「犬の眼」と化して撮った、アスファルトの路面である。そこには漆黒の宇宙に輝く星のように、黒いアスファルトの中へ踏み固められて溶け込んだ、大小無数のの金属片が、光を帯びている。

プラスチックスは、80年代後半、砂浜に打ち寄せられた人工の漂着物を捉えたシリーズである。生き物の死骸の代わりに、黒い砂地に身を埋めて身を横たえるのは、プラスチック製の生活・工業用品の断片である。波と日光で風化し、フォルムを崩しながら、周囲の貝や海藻、木片などとともに、即興の絵画のような趣を見せる。

 

両作品とも、写されているのは、都市生活の残滓であり、残像である。それらが一体どこからどうやって、路面や海岸に辿り着いたのかは定かでないが、都市のど真ん中で、あるいは都市部から離れた彼岸で、それらは息づいていた。しかしそれらは、あたかも生きている星や生物のようなアトランダムな振る舞いを見せながらも、死ぬことも分解されることもない。これらには初めから生命がないのである。不死、というより無死の存在である。誰かの手により回収されない限り、人間の基準においては永遠に近い時間、そのままの姿を留めるであろう。

 

これらの作品は、自然・対・人工物という観点から、自然と人工の「境界(面)」を指し示すものである。

原点となった作品「インターフェース」は、紀伊半島や房総半島などの海岸で、干潮時に姿を現した潮間帯の生態を撮ったものである。海から姿を現した岩礁のくぼみ、ゆがみに富んだ細かな起伏に、フジツボヒザラガイ、ベッコウザラガイ、カキや海藻がびっしりと繁茂し、コントロール不能な自己増殖の造形世界を見せている。

本作では「人工」物はなく、自然の環境だけが撮られているが、海と陸の「あいだ」、生物と非生物の「あいだ」といった世界の見かた、「境界(面)」という東松作品にとって非常に重要な視点を明確に打ち出した作品である。さきの回顧展のタイトルにも採用されているように、「境界(面)」という視点は写真史上も重要視されていると言ってよいだろう。

それは、東松の問題系としても、一般的な問題系の捉え方としても、単純な二項対立を超克し、より複雑な状況を引き受けるための大切なスタンスを示しているからである。このことは特に都市論においては重要なスタートとなる。

 

東松が「INTERFACE」シリーズに取り組んだ時代、60年代から80年代にかけては、日本はまさに高度成長期を駆け抜け、近代化を完了し、バブル期へと突入した時代である。急速な都市化、生活環境の向上に伴い、高速道路やダムの建設、広がり続ける宅地造成など、環境破壊という問題が認識されるようになった時代でもある。小学校教育でも、ゴールデンタイムのテレビ番組でも、環境破壊と自然保護という言葉が繰り返された。

東松が「自然対人工物」という対立項の「境界面」に、都市からこぼれ落ちた物体をあたかも生物のように配置してその問題意識を問うたことは、挑戦であったか、あるいは諦めであったか。

 

造形作家・岡崎乾二郎は「写真が存在する場所」(現代思想 2013年5月増刊号「総特集 東松照明 戦後日本マンダラ」)にて、70年代以降は東松の想定する「戦後日本」という前提が既に解消されており、氏の持ちだす構造的な軸:二項対立はもはや成り立たっていないことを指摘する。都市というもの自体が、急速なネットワーク化の進展やインフラの不可視化によって、その形態自体を確認、経験することすら出来ないということを述べた上で、次のように言及する。

 

こうして今見ると、東松さんの「ワールド・マップ」(一九九二-三)などの作品は、グーグル・アースのアレゴリーのようにも見えます。「アスファルト」のときと同じように、地面上のマイクロチップに苔がついている様子を広大な風景のように撮っている。(中略)これはもう写真が何ものの全貌を撮ることはできない、換喩というか消極的なアイロニーとしてしか都市像は示すことができない、波打ち際に打ち寄せられる残骸を写すことができるだけだというあきらめの境地を示しているようですらある。もはや盆栽や盆景を作ったり、お花を生けるのと写真を撮ることは変わることがないのだと。

岡崎乾二郎.2013.P225) 

 

 現代、2010年以降の世界から東松照明のスタンスを検証すれば、どうしても上記のような指摘になることは止むを得ない。多感な年頃に終戦日を迎えた東松である、存命していれば87歳ぐらいである、この速すぎる現代についてこいと言う方が無茶がある。たとえ「都市の視点を沖縄に持ち込んだだけ」と批判されようとも、沖縄以南の南の島で、氏の懐かしむ原日本の幻を撮らせてあげるほうが幸せであったかも知れない。無論現代においてはそれも叶わないが。

  

むしろ、当人にとっては「あきらめの境地」で「盆栽や盆景、お花を生ける」ことに他ならなかったとしても、それゆえに「INTERFACE」シリーズ群は、逆説的に現在の都市へと接続できうる論点を含んでいると私は考える。それは以下の点である。

・不死(無死)の疑似生物の繁殖

・都市を語ること ≒ 断片、表層の選択と堆積

・争点化(イズム)の放棄

そういう意味では「INTERFACE」=境界とは絶妙なテーマである。二項対立により社会の問題を意識しつつも、それを直接的には語らず、自然と都市生活者のどちらにも加担しない。その中間で漂う、無死の疑似生物に、眼差しをしっかりと注ぐに留めている。

東松は都市を語らなかった。それにより、収集された断片は都市のその先の姿を予見させ、現代に生きる我々は今を生きている都市の像を、彼の遺したイメージを手掛かりとして再解釈することができるのではないか。

逆に、東松が70~80年代において、都市の孕む数々の問題を社会問題として熱心に争点化し取材していたらば、もしかすると新聞記事の焼き直しぐらいにしかならず、今、東松作品を顧みる必要性は大きく減ぜられていたかもしれない。

 

東松の「INTERFACE」の現代社会における意義を写真評論家・飯沢耕太郎は「愛知曼陀羅 ー東松照明の原風景ー」への寄稿文「インターフェイスへ -東松照明の名古屋時代」の結びとして次のように評価する。

インターフェイス」とはコンピュータ用語では周辺機器との接続部分、コンピュータと人間との接点をさす。現実世界を「境界線」の集合体とみなし、写真を通じてそれらを「面」として組織し直そうとする東松の果敢な営みは、これから先もさまざまな方向に伸び広がりながら、豊かな成果を生み出していくのではないだろうか。

 飯沢耕太郎.2006.P16)

 

では、これら「INTERFACE」シリーズが、現代の何に「接続」しているのか、私がそこから何を得たのかを次章で述べる。

 

 

◆ INTERFACEの接続先――UI化する都市 

東松の時代には、都市は自然と対立し、自然を侵食する存在であった。とめどなく発展し、人間を置き去りにしかねない勢いと暴力性があり、どこまで巨大化するのか、限界は見えなかっただろう。人間関係は希薄化し切断され、無機質なビルと広告が支配する世界である。

 しかし2010年代の現在、日本は本格的に人口減少社会となった。今後も人口は減少し続ける見込みであることに加え、2025年には団塊の世代が75歳を超えて後期高齢者に突入する。都市どころか、国そのものの経済力が縮小に向かうことが確定している。街で買い物はAmazonやメルカリへ移行し、人との交流もSNSが主流である。バイトが雇えずに居酒屋は撤退し、24時間営業という都市のライフスタイルにも終止符が打たれようとしている。残業は禁止である。街の明かりが消え始めるのだ。原発が動こうとも止まろうとも、都市の明かりは縮退するだろう。

このように都市は限界を迎えており、縮小の危機にありながらも、クオリティにおいては従来より更にデザイン、通信技術面で洗練されたところを目指そうとしている。

 

私が思うに、都市はUI(ユーザーインターフェース)化している。

 

UIとは、機械、特にコンピューターやソフトウェアと、それらを利用する人間との間の接触面――方法や操作、表示などのことを指す。パソコンやスマートフォンの画面のデザイン、フォントや、各種製品の外観など、利用者が使用する際に触れる部分全てを指す。

都市はこれらを高度に備えたものへ、我々のニーズに応える方向で日々改良されている。案内表示や広告は大型の液晶表示版が担当し、小銭を出さなくてもIC乗車券で買い物ができる。東松照明の目撃し批判した戦後日本「アメリカニゼーション」の結末は、アメリカを飛び越え、国民が総・お客様化し、高度消費社会の中で「お客様は神様」の原則に位置づけられることだった。神様のニーズは耐えず分析され、商業空間に反映され続けなければならない。それは稼ぎ、企業の発展のためというよりも、ある種の使命感にも似ている。アメリカ? あっちはあっちで大変であり、もはや憧れの対象ではない。私たちはもう何人に憧れればよいのか分からないのだ。あるとすれば、コスプレに象徴されるサブカル世界の住人か、自身をメディア化するyoutuberであろう。そこに国籍はない。

 

都市の建築物、構造は、デザイン性を高めてゆく。眼に優しく、歩きやすく、安全で、事故が起きにくく、周辺の景観に配慮しつつ、ブランドイメージを高めるもので、冴えたものでなくてはならない。標識、案内板はよりシンプルで、より分かりやすく、それでいて周囲に溶け込んだものでなければならない。各種通信機器をいつでもどこでも高速で使用でき、不特定多数の個々人が大容量のデータ送受信を手元で実行できなくてはいけない。同時に都市は、旧来以前の楽しみ、買い物や食事、散策などの意欲を刺激し、消費活動を喚起させる空間でなければならない。インバウンドを盛り上げ、高齢者のタンス預金を使わせ、若者の間で話題になり憧れの対象でなければいけない。若い女性の要望に応え、飽きられることがあってはいけない。安全と安心と快適なサービスを提供しなければいけない。「神様」の要望に応えなくてはいけない。だがその「神様」はどこにいるのだろうか。

 UIと似た概念として「UX」(ユーザーエクスペリエンス)の概念がある。UIに触れる際の実際の感触としての使用感、手続き的な便利さ、手軽さなどを指すもので、都市はVRやARの技術を搭載しつつ、更にそのような方向で洗練しようとするのではないだろうか。

 

都市は近い将来、縮小の一途を辿るが、一方で応えなければならない多方面かつ無数の顧客ニーズがある。それらに対応するために、都市はUI化を推し進めて進化した。だが今後、人口も資金も減り続ける企業や自治体は、この都市をどうやって管理・保全してゆけばよいのだろう。

 

そんな中で、漏れ出す存在がある。

まさに、東松照明が「INTERFACE」で現出してみせた、無死の、疑似生命の軍団である。彼ら・無死の虫たちは、今も確かに生きている。それどころか、人工対自然の境界面が消えかかり、都市の輪郭が無くなっている現代では、彼ら・無死の虫たちはそれ自体で自己増殖を繰り広げる。

都市のデザインから漏れ出すパーツは、日本が独自に育んだサブカルチャーの感性を帯びて、ゲームやアニメのキャラクターのような姿を垣間見せる。東松が描いたキャラクターよりも一層、分かりやすく記号的なフォルムを帯びている。

これらは今後、都市が高度にUI化する陰で、メンテナンスが追い付かなくなり、徐々に崩れ落ちてゆく中、大繁殖することが予想される。

 

私は、東松が「INTERFACE」においてこの状況を無意識に予見してしまったようにも思え、その「日本を見る眼」の鋭さを、おそろしく思うばかりである。実際、おそろしい時代が到来する。そのことは、誰もが分かっている。ただ、見るに堪えないだけなのだ。だから、UI化した快適で洗練された砦の中に、逃げ込むのである。

 

日本が衰退し、私自身が老後の心配で押しつぶされてしまう前に、今しばし、このUI化した世界で、無死の虫たちの振る舞いを観測しようと思う。 

 

 

 

 

  

(写真は私自身の作品である)

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 <参考文献>

名古屋市美術館(竹葉 丈、笠木日南子)編.写真家・東松照明 全仕事.「写真家・東松照明 全仕事」展実行委員会.2011.306P

東松照明.昭和写真・全仕事  SERIES 15 東松照明朝日新聞社1984.158P

・東京都国立近代美術館(市川正憲、増田玲、松本透)編.東松照明写真展 インターフェイス東京国立近代美術館.1996.125P

・牧野研一郎、古田浩俊、鯨井秀伸 編.愛知曼陀羅 -東松照明の原風景-.愛知県美術館中日新聞社.2006.269P

東京都写真美術館 編.東松照明[Tokyo曼陀羅].東京都写真美術館.2007.191P

・栗原一樹 編.現代思想 2013年5月臨時増刊号 東松照明 戦後日本マンダラ.青土社.2013.246P

・上野昴志.写真家 東松照明青土社.1999.241P

・本尾久子 編.VISIONS of JAPAN TOMATSU Shomei.光琳社出版.1998