写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真イベント】H30.12/9(日) 金村修ワークショップ(個展「Marshmallow Brain Wash」「Killing Agent」関連)@HIJU GALLERY(大阪・本町)

【写真イベント】H30.12/9(日)金村修ワークショップ(個展「Marshmallow Brain Wash」「Killing Agent」関連)@HIJU GALLERY(大阪・本町)

写真講評ワークショップのお時間です。講師は現代日本の都市景写真ならこのお方、金村修 氏。

 写真作家として作品を作るにはどうすればいいか? まず何を「作品」とすればよいのか? その実践レクチャーである。

 

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【会期】H30.11/10~12/9

 金村氏の個展の展示内容についてはこちら

mareosiev.hatenablog.com
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 ワークショップ(以下WSと略)は7名参加、10時~14時まで行われ、一人30分程度の講評と、かなり余裕をもって見ていただけた。

(1)私の作品についての講評 

私は、前回・10月下旬に行った個展「hyperlife」の一部を再編・抽出したものを提示した。

このように、都市(大阪・梅田)のモンスター(合成&ストレート)と、自宅のふとん(ダーク)に絞っている。

評としては、もう方向性や世界観は出来ているので、これでやっていけばいいんじゃないかなということ。あとは展示方法の工夫で、思いきり2mぐらいの大きい作品数点と、A4ぐらいの小さいものを無数に貼り出して、インスタレーションとしてやってはどうかと。

内容については「内臓」が面白いとのご指摘である。これは、私の作品においては都市の疑似生命体が3部構成(①マシン・体、②流体、不定形、③イメージ体)になっており、中でも面白そうなものが②の都市の内部、不定形のイメージを描写したもの、すなわち「内臓」的な作品であるということだ。

補足すると、展示の時に多くの人が速やかに理解できたモンスター、顔に見えるもの、SF的なキャラクターは「①都市のハードウェア、ボディ」で、来場者も学校の仲間も「?」となった「ふとん」シリーズは「③イメージ体」に当たる。その間を結ぶ、都市の揺らぎに満ちたものが「②流体、不定形」である。 

このあたりの指摘は奇しくも、先日の学校での作戦会議と全く同じものであった。次の展開に向けた戦略として、都市の内部―内臓、肉や血液、遺伝子のようなものを撮っていくことを話し合ったところだったのだ。次のステップがかなりクリアな状態にあるということが分かった。

これまでは、都市空間、日常生活を舞台とした昆虫採集、モンスター遭遇というフィールドワークとしての取り組みだった。それを更に踏み込んで、都市や日常系そのものを巨大な生体と見なし、その有機的な組織や運動を撮っていく感じであろうか。この星は生きており、都市はこの星の歪で異形な子孫、あるいは進化種、いやあるいは癌細胞として生きているのであるから、各地の都市がそれぞれに特異的な運動器官や体液を備えているのは全く自然なことだ。それを見い出せばよい。と言いつつ、それを撮るのは結構難しい。なぜなら言葉を超えている。言葉未然のものだからだ。

「気持ち悪くて良いね」という評をいただいたのは、まさに被写体(体?)が、既存の言葉や認知の枠組みを抜け出していくことこそ重要だからだろう。捕捉されざる存在と動き。まさに脈を打ち蠕動する、臓物だ。

臓物や内臓という響きがとても良く、背徳的な味わいに興奮を覚えてしまった。WSに評価されに来たどころか、臓物や肉のインスピレーションが濃くなった。快感が伴います。肉。要は、肉である。それも調理前の、販売前の肉である。食用死体としての肉ではなく、生きている方の肉だ。そんな肉は店頭には置いていない。みんな死んでいるのだから。では本当の「肉」はどこにあるのか・・・長い旅になりそうだ。

 

(2)全般的な講評として

これで筆を置くと狂気的な場になってしまい、純朴な作家志望の方々がおびえてしまうので、ちゃんと補足すると、金村氏は非常に紳士的に、一人一人にアドバイスを行い、場は談笑交じりで和やかに進行した。この点に誇張は一切ない。臓物で喜んでいたのは私だけである。たぶん。

全体を通じて語られたのは、セレクト論である。受講生が写真を並べるとき、二つの傾向に気付いた。

一つは、学校など所属機関で教育を受けている方の場合は、クオリティの高い・サマになっている・狙いの明確なカットを選び、「だめ写真」「よく分からない写真」は手元に隠され、出されないというもの。

もう一つは、体系的な教育を受けているわけではない方の場合、選び方が分からないので、とりあえず手元の塊をごった煮状態で出すというもの。

 

金村氏のレクチャーの肝は、一般的には「よくない」「きたない」「意味わからない」と言われるであろうカットを、積極的にセレクトしてゆくことであった。

このことは、なにも純粋で素直な個性・感性を大事にしましょう、とかいう話ではない。写真というメディアが有する最大の性質を尊重し、活用するという話である。

 

それは、いったん教育や習練によって身に付いてしまった型、視座、意味の体系を解除する試みであった。

 

高速の複製映像技術である写真は、制作者の意図を正確に反映して成果物を制作することが出来る。が、逆にそれらを反映させずに映像をアウトプットすることも可能という、驚異的な特徴を持つ。現実を光学的に複製するがゆえの宿命だ。

絵画や彫刻など他の表現分野は、意図・意識と技術とを併せて用いて制作しなければ、恐らくずさんな駄作しか生まれない。だが写真では、意図・意識を超えたり外れたりしたところで、何かが生まれる。画面に予期せぬものが写り込むことが喜ばれる。意図を超えたフレーミングが偶然生まれることが喜ばれる。そして何を言っているのか分からない写真を群で集めることによって、何かを浮かび上がらせ、語ることもまた可能である。そこが写真の妙味であり、重要な論点となる。(東松照明中平卓馬らの偉業に学ぶことは多い・・・)

しかし、なまじ学校でビシッと教育を受け、プレゼンしては講評でやっつけられていると、「下手なものは出せない」「こんなものを出しては怒られる」「自分で説明できないものは見せられない」という心理が強く働く。そして、説明や評価のできない謎めいたカットは伏せられてしまう。

金村氏はその点は恐らく百も承知で、これまで無数の生徒を見てきた経験から、学校組織の教育方針や戦略と「写真としての面白さ」(=本質)とはまた異なることを踏まえて、受講生に「ヘタな写真」を「これはおもしろいね!」「もっとあるでしょ!」と、懐に隠された”ボツ写真”を掘り出し、選び方の再考を促していった。「学校側は否定するだろうけど、」と断りを入れた上で、「世間で言うところの”ヘタな写真”が面白いんだよ」と、「写真としての面白さ」を伝えながら、セレクトを組み直していった。どの生徒も、そこにはまさに写真にしか現わせない、奇妙で美しい世界があった。

 

事例として、荒木経惟が取り上げられた。「あんな下手な人いないんですよ」「あの人がすごいのは、いつまでも下手であり続けていることだな」「意識的に下手に撮ってるんだと思う、自分のフレームを壊すために」。聞けば聞くほど恐ろしく思えてくる。先日ちょうど古本屋の店主から「前に荒木さんがグランフロントで撮ってるのを見かけました、ファインダー覗かずにずっと撮りながら歩いてましたよ」と目撃談を聞いたところだった。天才どころかつくづく化け物だが、化け物であるための研鑽を詰んでいることが分かった。「世間で言うところのヘタな写真」を、世界で最も有名な日本人写真家が率先して実践しているという事実には、参考にすべきところがあるかもしれない。ただし荒木作品に触れるとご本人及び周囲の評論の言葉に幻惑され、率直な感想を抱くことも難しかったりする。

 

そういったわけで、作品の講評では「ヘタなもの」「何か意味の分からないもの」を再セレクトしつつ、訴求力のあるものも一定は残して、作品世界のバランスを取ることが行われた。表向きの主張、型のないスナップほど、じわじわと毒でも回るように、写ってしまった様々なものが語りだす何かが面白くなってくる。

受講生各位の作品テーマはそれぞれに個性的で、地層・断層の惑星景あり、酩酊ブラックアウトのモノクロ夜景あり、京都の交通機関に群がる群衆スナップあり、ハプニング的な演出SF的世界あり、お遍路3周目あり、日常無造作無目的スナップ集ありと、一周回って逆に知的で心地よい空間が漂っていた。一円にもならないことのために腐心している大人たちを見ると、なぜか救われた気分になる。作家はつくづく報われない。報われないがゆえに妙味がある。

評の合間にも金村氏によって様々な作家・作品名が引用された。ルイス・ブニュエルデヴィッド・リンチキューブリック、ゼロ次元、G・ウィノグランド、須田一政吉増剛造ブコウスキーヴィム・ヴェンダースロバート・フランク鈴木理策佐内正史・・・。いずれの作品もまだ時間をかけて味わっていないが、どれも超一級品だ、特に須田一政の多岐に亘る活動は改めて押さえておきたい。須田世界の日常景はなぜか癖になる。

 

このようにしてWSは過ぎていった。 紙面の都合もあり、ここに書かれていない極意が多く語られたので、興味のある方は一度、生のトークに触れてみるのがよいと思う。

 

終盤、「最近は、政治的に正しいことばっかり、分かるものばかりがテーマになってる」との言があり、強くシンパシーを覚えた。

我々個人が、ひいては「写真家」なる人種が、社会において発言機会を得、社会に存在意義を示すためには、政治的正しさ、分かりやすさは不可欠なのだろう。それは翻って、311後の世界における「表現」の正当性を巡る自己防衛のようにも感じるし、また、何事に対しても即効性、即・収益を求める世情を反映しているようでもある。モバイル社会の要諦は、脊髄反射だ。正しさと分かりやすさ、これほどに経済原理に適ったものはない。(そんな写真はインスタグラマーだけで十分だ。)

こんな国が、万博をやるのか。どんな都市景、都市の臓物が撮れるものだろうか、楽しみである。 楽しくない。だが面白い、かもしれない。

( ´ - ` ) 完。