力の解放。祭りである。




いつも行き慣れた美術館でのお上品な展示とはまた違う。美術館ではいかなるインスタレーションでも個々の作品としてクレジットされ管理されているが、棍棒展は展示というよりもフリマ的な即売会の平べったさで構成され、地べたに棍棒が並び、好きなように手に取ることができ、それを楽し気に手に取る来場者の溜まり場となっている。更には棍棒実演・実体験の場になっていて、時折、というかしばしば「よいしょー!」と掛け声があがり、パーンという破裂音(棍棒で木をぶっ叩く音)も鳴り響き、「展」というよりも自由でそして雑で騒然としている。
要は「祭り」である。
祭りといっても、定型化された様式や進行を有するイベントとしての祭典ではないし、エンタメに振り切った体験型アミューズメントでもない。それらがまだ様式化される前の、原初的な場のことを指す。すなわち、「力」の溢れ。剥き出された力の肯定の場。
力をパッケージ化し、外側へ及ばないよう檻に入れて管理するのが美術館的な展示であり、館の外へと飛び出す各種芸術祭においても結局は「力」の管理と責任問題はつきまとうので「丹念なリサーチ」「長期滞在」「地元住民との対話や交流や協働」などが丁寧な手続きとして常套手段となっており、省略するが、結果として観客と作品との関係は場所に関わらず固定されたままで、観客が「力」を行使する場面はない。
「大棍棒展」は逆に、「力」を肯定し解放する。なんせ、あるのは生の棍棒、大量に床に転がっていて、1本ずつ手に取ることが「鑑賞」となる。棍棒は、重い。様々な形状、長さ、質感、重さがあり、たいがいは普段持ったことない形状と重さなので、持ち上げたり支えたりするだけでも「力」が要る。鑑賞するために観客は自分の力を発揮しなければならない。しかも、単純に腕力という物理的な筋力を使わなければならない。マジで重いんですよ。私が非力なのもあるが重い。
筋力を使わないと鑑賞にならない。生活上も筋力を使う場面はまあまあ少ない。筋トレはミニマムな動作の繰り返しであって根本的に違う。自分の身体に内在する(であろう)力を動員する、その力がわけのわからん形の重量物に転化されてゆく。「棍棒」は、この体の一部であり、そして力の具現化された象徴物となる。
それは暴力とも呼ばれる。
社会が洗練されるごとに忌避され隠されるのが「力」である。それは暴力とも 性暴力やパワハラカスハラ、マイクロアグレッションなどは現代的に細分化されたもので、もっと単純に、人前でモノを壊すとか人をぶん殴るとか物理的な力を実際に及ぼすことが徹底的に抑制され隠蔽されているのが現社会である。保育所は子供がうるさいとか病院は救急車のサイレンがうるさいとか精神疾患もちや知的障害者が近所をうろつくと怖いとかで市民が建設反対するのも「力」への忌避と管理を巡るある種の洗練された形だ。「BreakingDown」ですら洗練を感じる。ぬるい。棍棒は、もっと遡ったところにある根源的な「力」に迫る。
効率よく打撃を加えるために棍棒はある。人体から呼び起こし、湧き上がらせた「力」を体の外へと具現化させ、そして実際に力を振るうための形をしている。重量と遠心力が加わり、「私」が「力」へと取り込まれる。いや、「私」を「力」へと投げ入れるのだ。滝壺へ飛び込むように、私が力へと転化される。それは「暴力」の最も根源的な姿だ。
私は棍棒を持ち上げ、手に取りながら、普段使っている「暴力」「暴力性」という言葉が、極めて上澄みで、政治的あるいはイズムによって振り分けられた分類ラベルや評価であることを実感した。違う。本物はそんなところにはない。純粋に、重力的で、破壊へとダイレクトに結ばれている。この棒を振り下ろすと打撃になり、何かが具体的に壊されるのだ。まるで自分の足で崖の上に立ち、はるか下の地面を見下ろすような気持ちがした。トリガーが外れるか外れたかの境界、今ここに力があるのだ。

「安全第一」のオレンジの金網で隔離されたコーナーでは、参加自由で、横倒しにした木材を棍棒でぶっ叩くことができる。時折、破裂音が聞こえたのは、棍棒を木材に振り下ろして打ち付ける音だったのだ。
大の大人が全力で棍棒を振り下ろす。パアン、パアンと響き渡る。棍棒の曖昧さがまた純粋な「暴力」を浮かび上がらせる。斧や鋸とも全く異なり、棍棒には機能性がない。だが木の枝や石と違って、「倍増させた力を振り下ろして叩きつける」ことに特化している。ここで露出される暴力とはforce、物理的な破壊エネルギーのことであって、この展示を非難する言葉ではない。誰にも内在し眠っているforceが引き出されては実際に発揮されるということが繰り返されてゆく。
forceは何処にも行かない。新しい世界もよりよい社会も生み出さない。ただそこで使われるだけだ。その度にforceは波となって空間を満たし、また人間へと還ってくる。より純粋で透明な暴力となって体へ還ってくる。
何分経ったのか分からないが、何人も交代して、ようやく木材は叩き割られた。棍棒を打ち付けた個所はエネルギーで発熱していたという。力を引き出して振るう場、ただただ純粋に物理的な力が満ちた場、ここに「祭り」の根源があるように実感した。
( ◜◡゜)っ 完。