「KYOTOGRAPHIE 2025」から続く「ヒロシマ」、原爆と敗戦、戦後の核心部へ迫る作品展が大阪・中之島の2カ所で展開された。

- ■「リトル・ボーイ」(KYOTOGRAPHIE 2025)@八竹庵
- ■「ヒロシマ・コレクション―1945年、夏。」@中之島香雪美術館
- ■「Hiroshima Monument ―48景/46年」@LADS GALLERY
これまでは義務教育的な堅苦しさがあって、「歴史」に正しく向き合う作品というのはどこかしんどく感じていた。しかしもういよいよやばい。昨年秋の兵庫県知事選挙、そして今月の参議院選挙で、事実や科学が無視され、歴史は破られ、感覚と共感が全てに優位であることが決定づけられた。経済的に理に適っていると判定されたのだ。
この渦中において、土田ヒロミの取り組みは、輝かしく、極めて正しいもののように感じられた。


■「リトル・ボーイ」(KYOTOGRAPHIE 2025)@八竹庵
ここで「KYOTOGRAPHIE 2025」を振り返る。インフォメーションセンターのある八竹庵の奥にある蔵は、真っ暗に間仕切られていて、1階はB29の不気味な爆撃音が地鳴りのように響く中でキノコ雲の写真が1点だけ据えられ、2階には土田ヒロミ作品の、被爆でボロボロになったワンピースの写真1点のみが立っていた。
暗闇の中でそれらは何かを発していた。どうしようもないことが起きたんだぞ、そこからは逃れられないんだぞ、という囁きにも思えた。
たった2枚の展示。それは原爆によって焼かれた人々が昇華された姿のように見えた。「原爆」を巡る上空(攻撃)と地上(被爆)の力関係を逆転させた階構成である。
主を失った衣服が、その後もずっと持ち主がいたこと・奪われたことを証言し続ける。個々人が負った事実の積み上げとしての歴史とはそうやって紡がれてゆくべきものであるし、そうしなければ支配者によって与えられた「歴史」しか残らないことにある。だが歴史は、特に前者の歴史は、個々人の記憶と証言の産物であるから、時の流れとともに世代交代は免れず、当事者が減ってゆき、薄れて消えていく宿命にある。あるいはエモーショナルに、現役世代にとって消費しやすいように加工される。
歴史は儚い。現在、危機的なのではないか。土田ヒロミの作品はそうした忘却や加工への傾斜に待ったをかけるものとして私の目に映った。これは逃れられない「歴史」なんだぞ、と。もっと触れてみたいと思っていたが、早くも7月末、2つの展示を観ることができた。
■「ヒロシマ・コレクション―1945年、夏。」@中之島香雪美術館
KYOTOGRAPHIEが暗黒の場だったのに対し、本展示は白くクリアな、非常に客観性のある作品・展示構成となっていた。二つの展示の流れはまさに、原爆投下と爆発によって物理的・歴史的ともに深い影が生じた瞬間の事柄から、膨大な「その後」を歴史的資料として保全し後世に伝える段階へと、位相が移ったことを象徴しているかに思えた。
まず作品パネルが白い。作品は等身大かと思うぐらい大きい。その上半分に遺品の写真、下半分にテキストが組み合わされて1枚の作品となっているが、どちらも白地で、明るい。写真は広島原爆資料館に収められた「資料」約400点を一品ずつブツ撮りしたもので、これもまた白く明るい照明の下、客観的であることを旨に撮られている。そこに作者をはじめとする誰か個人の主観は極力交えないよう、水平的な明るさと解像度があり、観る側にもそうであるよう陰影のトーンは抑制されている。モノクロ写真すらも中間色が美しく繊細なトーンを保っていて、被写体は、とても静かだ。
こうした明るいフラットネスで統一された160点の作品は、しかし、資料ではない。なぜこれらが「作品」としての重みと強さを持つかといえば、テキストと写真が共に声を上げることで個々人に降り注いだ「歴史」を語るためである。私達の発する言葉と同じで、肉声と言語(単語や文法、内容)とが相伴うことによって力を得るのと同じく、本作は写真という肉にテキストという個人の生が絡まり合うことで、それぞれに1945年8月6日午前8時15分の「前後」を語り継ぐものとなっている。こんなことを無かったとは言わせないぞ、という執念、プライドすら感じる。
逃れ難い。想像を次々に呼び起こす。被爆して死んでいった、あるいは生き続けた人々の遺品と、その人生に関するエピソードなのだから、素通りできるはずもない。ただ確実に言えるのは、テキストだけ並んでいたらとてもではないが関心を持って読めなかったし、写真だけが並んでいても客観的さゆえにそこに個別の「痛み」を見出すことは難しかったはずだ。
不思議なことに「ヒロシマ・コレクション」で撮られた品々の写真は、痛くない。こちらのエモーションを増幅しないし、勝手に感情移入できるものでもない。石内都の撮った遺品が、何らかの個人を強烈に憑依させてくる、そしてこちらも何らかの「私」性や主観を駆り立てて対峙(あるいは更なる憑依によって呑まれるに身を委ねる)のと真逆で、土田ヒロミの撮る遺品には個々人のゴーストや私性がほとんど断たれている。それがゆえにテキストの証言が強烈に合わさってくる。
仮想の誰か、(私)の思う誰かではなく、実在の「誰か」が辿った被爆の事実=テキストが写真に充填されて、語りが肉を得て増幅するのだ。語りは、痛い。ここでは割愛するが、痛みのない歴史などない。石内都の遺品の作品が、私達個人の感性に対して、存命していた頃の被爆者のゴーストを憑依させ同期させてゆくとすれば、土田ヒロミ作品は「広島原爆投下」「被爆」「被爆者」という歴史(言葉)の内側を充填させ、操作や逃避不能な重み、絶対性をもたらせるものとして、力を発している。
写真からは私性が「ほとんど」断たれている(全てではない)、というのは、完全に冷徹に資料化に徹した撮り方をいるわけではなく、写真をテキストの従属物としていないことを意味する。作家トークの場にたまたま居合わせた際に本人が言っていたのは、服を撮る際も、意図的に微妙に傾けているとのことだった。言われてみれば管理目的のブツ撮りの定型を少し逸するように、それらを身に付けていた人物の姿、身体をどこか想起するように置かれている。誰かがそれを着ていた(そして命を奪われた、あるいは生き永らえた)という事実を含めての「資料」であり「歴史」なのだ。
ボロボロに傷み、破れ、本来の色や形を損った衣服や時計、弁当箱などは、被爆から約80年もの月日が経過する中で、被爆の傷と時間経過の風化の傷が分かち難く結びついている。ワンピースやモンペの変色、掠れがどちらによるものなのかは厳密に区別できない。それは「戦争」という歴史と今の私達の距離感とも似通っている。
私達には直接の戦争や被爆の経験がなく記憶がない。学校教育や社会通念、なにより先行世代の語り継ぎによってそれらは「事実」として保たれてきたが、いよいよ世代交代とポストトゥルース的情報インフラ・情報経済のありようによって、そろそろ戦争がフェイクとしてフィクションとして本格的に使われて書き換えられていく感がある。小林よしのり「戦争論」のあたりから兆候はあって、第二次安倍政権の頃は悪趣味で最悪なノリが吹き荒れていたが、現在の情緒と情報の状況はそれらの比ではない危うさが満ちている。全てがフェイク化し真実化される。情緒はもはや縋るものもなく流される。
本作に記された数々の個人の声、被爆の歴史は、そうした情緒の流れへの誘惑から私達を引き戻すだろう。ヘラヘラ笑いをやめて、真顔を取り戻すのだ。
■「Hiroshima Monument ―48景/46年」@LADS GALLERY
美術館から徒歩5分ほどの「ラッズギャラリー」では、 広島市内の定点観測シリーズ「ヒロシマ・モニュメント」シリーズ8点が展開されていた。
展示と同名の写真集『Hiroshima Monument』(ふげん社)がちょうど今年6月30日に発刊されたところで、本展示は出版記念的な意味合いもあるのだろう。本展示の後は、東京の「FCCJ ギャラリー」(日本外国特派員協会内)で「第二次世界大戦終結80周年
ヒロシマ3部作『人、風景、物』」展(8/2~8/30)、ふげん社で「Hiroshima Monument」展(8/1~8/31)がそれぞれ開催される。
中之島香雪美術館で展示されていたのと同じ(恐らく)、広島市内の360度パノラマ写真が窓際に展開されていた。
1945年10月にグラフ雑誌のカメラマン、林重男が撮影した焦土のパノラマと、2025年に土田ヒロミが同アングルから撮影した地方都市景とが対比される。80年という時間は驚異的な復興をもたらしたことが分かる。あるいは80年という時間がもう想像以上に長く古いものとなったのか。もはや、原爆ドーム(旧・広島県産業奨励館)ぐらいしか、原爆投下の歴史を伝えるものがないようにも見える。強いて言えば、二本の川に挟まれた吉島の地形ぐらいだろうか。
他の作品は、原爆投下・敗戦から30年数年後となる1979年から、同一アングルで撮られた市内各所の風景で、どのカットも1979年、90年代、ゼロ年代、2010年代という、ほぼ10年間隔で撮られた4枚から構成されている。撮影年、場所とともに、爆心地からの距離も書かれていて、破壊からの距離感を想起する。
風景はどれほど変わったのだろうか?
私の受けた印象では、ビル群に関してはあまり変化がないことが逆に印象的だった。1979年の時点では、広島市という都市の基本的な骨格が揃っている。敗戦、戦後・復興を乗り越えた後の「現代」が揃ってきている。
しかし「観音橋 新観音橋/舟入本町/1500m」は、1979年、1990年は痛々しくガタガタに折れ曲がっていて、もしかすると原爆の時にもあったのかもしれないと想像させられる。この川に皆が焼け苦しみながら落ちては火傷を冷やそうとし、そして死んでいったのかもしれないと。90年の写真では背後に新しい橋があり、後の2010年、2019年は古い橋は取り壊されている。風景の新陳代謝がある。
「樹木 ユーカリの木 広島城跡/基町/700m」も、2010年、2019年は立派に葉を茂らせた1本の樹木が立っていて、葉の量が多いため写真内にはその木しか写っていない。それが1979年に遡ると、まるで違うカットに見える。太い幹の途中から接ぎ木をしたように細い木が伸びていて、まだ葉も少ない。そのため周囲の環境として他の植木が立っているのが見渡せる。どれも植樹されて年月が浅く、これから大きくなっていく発育段階のようだ。少々寂しい光景に思えるが、いちど放射線汚染と熱線、爆風で焦土と化した地に、緑が蘇えらんとする歩みの過程だと思うと、この歩みの意味は大きい。


「ヒロシマ・コレクション」のテキストのように、本作も何らかの言葉、解説があった方がいいのだろうか? 分かりやすさの点ではそうかもしれない。だが「ヒロシマ・コレクション」が、個々人が歩んだ1945年8月6日8時15分前後の、絶対的固有の生と死を客観視によって匿名化することで大文字の「歴史」の中身を充填したのと対照的に、本作は広島市街地の風景、建築物が既に匿名的で公共のものであるのだから、それらを語る言葉はもうすでに見る側=私達に委ねられていて、その気付きを得るために定点観測が時間経過で示されているのだ。客観性に晒された風景が語るものを見なければならない。この定型による視座の繰り返しは藤岡亜弥『川はゆく』と非常に対極的なスタンスにあるが、多彩な作家の眼差しによって揺るぎなく現れてくるのはやはりゲンバクドームに象徴される「ヒロシマ」だ。
戦後の焼け野原からの復興、近代化を再度果たし、更に再開発が進むにつれ、風景からも戦争・原爆の痕跡は消えてゆく。歴史は誰の記憶でもなくなり、空洞化はおろか、その意味すら失うかもしれない。もし戦争、戦後の重みや傷を手放し、軽みを極めんとすることが70~90年代の感性だったとすれば、歴史の中身を恣意的に加工、転用、消費していくことが現在の感性であり課題と考えられる。要は美化やキャンセル、フェイクが日常茶飯事の中で、そうした経済原理にいかに抗うかが課題なのだ。
KGもあわせて3つの展示によって、土田ヒロミという作家の取り組みと歴史の認識ついて考えることができたのは、タイムリーで、よい機会となった。写真と言葉は今なお非常に有効であり、それ抜きには始まらないという基本的なことが確認できた。
なんだか優等生みたいなことしか言えなかったが、それぐらい今の状況はひどい。
完( ´ - ` )
