夏の恒例イベントになりつつある。ZINEを食わなきゃ夏じゃねえ。

- ◆購入①:HEY2 × 青木大祐「ENTER THE MOID」
- ◆購入②:吉池巨成 寫眞帖(SALVAGE(2024)、WIP(2025-))
- ◇売り切れ:YAMADA AKARI「HIGH LIGHT OF EVERY DAYS」
- ◆会場のようす

会場のファッション店「I SEE ALL」は「丼池繊維会館」という大正11年からビルの、地味な裏側の階段を上ったところにある。殴り書きされたZINE TOURの張り紙がこれまた地味に、ぺらりと貼られている。判る人だけが判る。パンクだ。
ZINEが群れをなす恒例のイベント、「flotsam zines tour 2025」、150組のアーティストが参加する。
2024は6月~9月初旬にかけての、東京、茨城、仙台、名古屋、金沢、大阪、神戸、京都、広島、福岡の計12会場だったが、今年は1カ月延びて10月初旬まで、仙台、盛岡、横浜、静岡、愛媛が増えて計17会場にパワーアップしている。徐々に規模が拡大しているのは凄い。
主催者の写真集販売店「flotsam books」さん。
そして何気に今年で3回目の参戦、もといお買い物。
ZINEを出品してこそ「参戦」と言えるだろう(毎年行くたびに「出してくださいね~」とスタッフさんに言われる笑)し、やばい買い漁り方をしているわけでもないので戦と呼べるかどうか。ただセレクトは真摯にやっております。ええもう。最近出費が激しくてですね電気代もガソリン代も即死級だったのでお金がない。可処分所得が。今回は前例のない厳しさでチェックをしました。可処分所得を倍増せよ。与党おい聞いてるか。聞け。与党聞け。手取りなんとかせえ。なんとか。

政治を変えるよりもZINEを買います。今回はきびしいセレクトを潜り抜けて購入に至った品物から紹介しましょう。
なんとたった2冊しか買っていない。選び抜いた3冊のうち1冊はストック切れで買えなかった。もっと買ったらよかったな(やや後悔している
それがこちらの2冊。

◆購入①:HEY2 × 青木大祐「ENTER THE MOID」
写真界が誇る奈落の花瓶・青木大祐が、アーティスト「HEY2(へいへい)」と組んだ、コラボレーションのZINE。
HEY2はクィアアーティストとして活動しており、「お世話人形メルちゃん」をモチーフに顔面を赤いゴムの襞、凹みで覆ってしまった。幼女の顔面は赤いゴム肉によって穴そのものとなっていて、人間としての意思を剝奪された肉玩具のようでもあるし、それ以下の、性器そのものの擬人化すれすれの域でもある。あるいは極端に肥大化した口。仮に口だとしても、歯のない赤く柔らかそうな肉だけが開いている様は、幼児性を剥き出しにしているようにも見える。


これは奈落に自我が呑まれた顔か、それとも口か? 顔面に巨大な口、受け皿、器・・・とくれば、言うまでもなく青木大祐の作品世界そのものである。写真家自らの口を器に用いて、様々なモノを受け皿としてセルフポートレイト/ブツ撮りを行い、更にはその写真を寒天によってカビを生やし、死と生の坩堝へと叩き込んで複写する。反転した生、反転した写真。絶対零度の真空から生の温度・湿度を持つことを強いられたネガの写真。主体の核であるはずの作者がそれを受け容れる器として主体を放棄する、二重三重のネガから構成された世界だ。
本作では青木の指が登場し、HEY2の人形の体、顔=穴を侵食する。その写真をカビが侵食する。指は人形に絡まる。指は人形の胴体より少し細く、手足と同じぐらいの太さなので、人形の肉体の一部となり、人形の肉感を倍増させる。人形はヒドラのように複数の手足を持った、器官の肥大化・超分岐した何者かへと変貌していく。


冒頭のページでは人形には顔がちゃんとあり、生活と自撮りが不可分に結びついたカットが多数掲載されている。インスタに自分を切り売りし投稿する現代人と何ら変わりのない存在だった、それが着飾って自己演出するという自意識を失う、いや失うどころか逆側へ超えて、反転したネガとなって、顔面は凹化し穴と化し、自我、キャラクターを失い、衣服は脱ぎ去られ、ツルツルの未成熟の未分化の体に、分岐した肉体=指が絡まり、肉体が暴走する。
自らの顔の穴の中へと回帰するように、自らの凹面を逆・子宮に変えて、穴へと自身を引き込んでゆく。自我や尊厳が反転し、プラスチックの人形という物質性もが反転して肉と化する、性的さと生命力の両方が過剰に溢れ、エロスを覚える。
何より青木大祐の新たな活躍の姿として、他作家とのコラボ、そして自身の口を使わずして自身の強みであるフォーマットを呼び起こしてみせた点が良かった。
◆購入②:吉池巨成 寫眞帖(SALVAGE(2024)、WIP(2025-))
東京を舞台にする写真あるいは写真家というのは、日本がどこまで経済的に失墜しても、無くなることはないのだろうと思う。単純に人口が過剰で情報過多で都市の面積はしれているのに搭載量が多すぎてスケールが歪になりモチーフに溢れているし、長らく日本の「写真(家)」の被写体であり場所であるという特権的な歴史を刻んで積み重ねてきた。反復され堆積された力がある。吉池巨成の写真もその力を継承している。



デジタルの発色と掠れと照りが、過剰な情報量に満ちた「東京」と「写真」のごく一端であると、想像もつかず場所や時間の特定もできない断片・瞬間にすぎないと、ポテンシャルを語っている。これまでの写真史的な膨大な積み重ねによってプールされた資産が、断片の美を保証するのだ。本作の何分の一かは森山大道でありPROVOKEであるかもしれない。もっと無機質な、非人間的な情緒への挑戦かもしれない。
だが好ましい写真であることに変わりはない。今気付いたが2023年のZINE TOURでも吉池巨成のZINE『MIDNIGHT DIARIES』を購入していた。単に、全貌の分からぬ断片に、激しい断片と反復に心を惹かれるのだ。儚さと永遠を感じる。ヒトが作り出した、人間不在のテクノロジー集積空間、そこに膨大な人間が群がって生活している。それが「東京」という意味不明な都市の力である、いかに神秘が薄れてどこまでも凡庸と化して鈍化しようとも、きっと私はいつまでもその魅力の虜でいたいのだ。
◇売り切れ:YAMADA AKARI「HIGH LIGHT OF EVERY DAYS」
売り切れでした(つд`) あーあー。手元に特に写真も残していない。買う気でいたからだ。

カラーで、明確な描写、色と形が一体となった、被写体の存在感と描画の質感とがイコールで、実在と非在の間にあるように感じられる。描画が鮮やかで、明瞭な具象の写真なのだが、それゆえに抽象性すらある。日常景から拾い上げられたものなのに、日ごろ何となく見ている日常のものとは異なる。デジタルの知覚・視界であること、現代写真としてお馴染みの文体によって作られ共有された視覚。
それだけではない。
車の写真は色といい質感といい、Wolfgang Tillmansを思わせ、それで一気に引き込まれた。
キーを掴んでいる作品だと感じた。コードと言っても良い。
どんな音があり、どんな系譜をもつのか、何処まで潜れるのか・・・それを知りたい。(※現在作家氏にIGからコンタクト、売っていただけることになった◎ わあい)
◆会場のようす
昨年と同様に、大きな机の上にZINEのサンプルが山積みになっていて、来場者は自由に手に取って閲覧して山に戻し、次の一冊を手に取って閲覧して・・・を繰り返す。
作品の展示でもあり、狩りの場でもある。自己表現のランダムな遭遇の連続、その中から選択を繰り返す、これもまた「受け」の表現行為なのかもしれない。



だがリアル書籍の狩猟というのは意外にも非常に繊細なもので、Webでの買い物と違い、意外と強い抑制が効いてしまう。判断基準が多いからかもしれない。サイズ、手触り、厚み、肉眼で見たときの印象、その時の体調やノリ、温度湿度、時間的余裕、etc。
Web購入は単に幻想で突っ走る、あるいは「とりあえず押さえておこう」という投資的な買い方になり、極めて雑だ。リアルの方が金は渋るが非常にシビアに評価しているということは言える。どっちが良いのかよくわからない。
「fancy free(きらくに)」、なんかよくわからんけどわかるような風船様のフィギュアかわいい。

Grant Beran『Wish you were here』、女性モデルを被写体とした写真集だが、つれの知り合いのモデルさんだとのこと。「あっこれ△△さんや!」「え?そうなんすか、」「もうモデルやってないて聞いたけど」「あそうなんすか、」 自分と無関係の人間を写真越しに見るのと、自分の知ってる人が知ってる人を写真で見るのとでは距離感が微妙に、まったく、違う。その違いはどんな意味があるのか? もうちょっと深入りして考えてみたいな。

gooo0______0ooog『Girl Meats Girl』、これはすごく惹かれた。生きている。
生の写真プリント、写真をプリントされた様々な紙、字を書きつけた紙、断片が集まってひっついて離れて千切れて再結合して、束としての、紙の集合としての「写真」の生命力があった。それは90~ゼロ年代初頭、全国至る所でフィルム現像サービスをやっていてL版プリントが家にもそこかしこにも溢れていた時代の活況、真夏の蝉が鳴きまくる熱い残響をリアルに想起するような香りがある。何よりセルフポートレイト(と思われる)を連続させたりピンを通したり何か写真を徹底的に物質として愛着を持った突き放し方で付き合っているのがたまらない。写真を身体化しているのだ。そんな作者と写真との距離感が羨ましい。



写真だけじゃないんだよ。たかつか『エロ本の文字』は昔のエロ雑誌の煽り文句を収集していて、その独特の語感とフォントデザインを図録的に提示する。AdobeやMicrosoft以前の世界は凄い、非オンライン世界は手製の火炎瓶のような温かい獰猛さが満ちている。


さんざん迷った2冊組ZINE、Lisa nishikawa『misato b-side berry girl H36-37』『devoted admirer 2011-2025』。女性写真家が女性モデルを撮る、綺麗な人を綺麗に、雰囲気を深めて撮る、非常にオーソドックスで、ちゃんとしたクオリティのポートレイト写真集。しかし何か違う。決定的に違う。
1冊はモデルの女性の世界観を深める一方で、もう1冊では同じくシリアス風に撮られたモデルの写真に、美少女アニメ・ゲーム画面が並べられている。
え? 生の人間としてシリアスな陰影を持った女性と、女性(異性)の単純記号化と極端な組み合わせからなるオタクカルチャー的女子キャラクターが、見開きページで等価に扱われている。
私は新しい刺激を得た。なぜこんなにかけ離れた――正反対ですらない要素、世界線の2つが同居しているのか。モデルの内面の描写か。フィクションか。いや物語はなさそうだ。ドキュメンタリーでもない。女性という表象を巡る考察や批判でもない。つまり純粋に作者の好み、愛着によってこの写真は撮られ、並べられている。「献身的な崇拝者」とは作者のことに他ならず、作者にとっての「可愛い」「美しい」はこのZINEの中では破綻ないどころか矛盾なく合致した尊きものなのだろう。刺激的で面白かった。




梶瑠美花『わたしのなかの彼女 MY OTHER HALF』、しっかりと力のあるモノクロで、被写体となった様々な女性たちの内面へ、作者自身がシンクロしていく。外形の美を撮る、取材によって観察・記録するのではない。精神のダブルス、写真というコートで作者と被写体の女性らは光を交わす。そこには作者自身のセルフ・カウンセリング、魂のケアの要素がある。
作品制作の募集ページでその制作スタンスが伺える。




痛々しさではないが、素肌で冷たい海に浸かって皮膚の中にまで冷たさに曝されたように感じる。個々人の置かれた状況や心情というのは普段の生活では知る由もなく全く分からないものだ。たとえそれをそのままエピソード的に理解したとしても共感・共鳴できるかというと全くそうではない、知り合いでもなかったならむしろ遠ざけたくなるだろう。本作ではなぜかそれが気配として伝わってくるし、伝わることが嬉しくもある。生きてきた証のようなものが。具体的なエピソードや言葉は作者が咀嚼して作品/写真にする過程で粒子や濃淡に落とし込んでいるからだろう。他者と関わるといっても色んなやり方があって、その一つとして写真(撮影)を介した内省や共感で繋がるコミュニケーションの形があり、その二人のラリーが居場所を作り出す。写真によって現れてゆく居場所の可能性を私は観る。熱や興奮とは逆の、とても低い平熱の中で交錯する見えない球を追って、私は写真を見ていた。
(※結局この記事書いてて「あ、なんかやっぱり要るやつちゃうんか」と思ってきて、Web注文しました。結局要るんかい)
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楽しかったですね。( ◜◡゜)っ 完。