nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】2025.3/18-23_東松至朗「VIEW OSAKA あれから10年 有為転変」@ギャラリー・ソラリス

「大阪」の各所を撮った写真で、初回撮影時から約10年後、再び同じ場所を撮影し、それらを二枚一組で提示して、風景・土地の変化を示した作品である。

言葉に書くとかくもシンプルで分かりやすい、しかし実際それが出来るかというとなかなか出来ないので価値がある。

 

なぜ出来ないのか?

まず「大阪」という絵にならない地方都市を主題に選ぶかという問題。その取り組み10年以上もの長期スパンで継続できるか――記録性と継続性という問題。そしてどう撮るか・撮り続けるかという問題がある。これらを地道にクリアしているから作者の写真には説得力があり、活動が評価されてしかるべきとなる。

 

まず一点目、大阪という地理について。

ここが東京なら何をどう撮ってもブランド品として流通する。だがここは「大阪」だ。全く知らない場所ではなく、観光地であり地元でもあるだろうし、写真文化的にもそれなりに歴史はある。が、多くの日本人にとっては、大きな「一地方都市」に過ぎず、エモくもレトロでもなく、3.11的な被災地でもない。特権的な場所ではなく、写真に撮られてきた場所としての歴史性・反復性は東京には遥かに及ばない。

とはいえ、日本の主要都市として東京23区および隣接する埼玉、横浜を数えると、次に来るのは大阪であり、傍には京都、神戸も控えている。写真(史)的には地味でも、日本を語る上で「大阪」を欠くことは出来ないのだ。

そして大阪はこの20年間ずっとキタもミナミも再開発ラッシュ状態にあり、風景が凄まじい勢いで変貌し続けている上に、大阪維新 × 万博という地方自治とっておきの悪質な現場でもある。風景は、変わってゆく。誰が風景を残すのか? 実は誰も意識的・体系的には残していない。InstagramやXなどのサービスに、集合知的には投稿されているかもしれない。だがそれらは賽銭のようにしてサーバーに投げ込まれただけで、投じられた貨幣(=写真)の種類は基本的にはパターンが限られている。

地理的・時系列的に網羅された写真は、誰かが逆算で意図して取り組まないと集まらないが、元々流通しづらいものを誰が撮るのか?アテンションエコノミー社会において流通は善であり全てであるから、「大阪」 × 地道な調査的撮影は難易度が高い。

 

二点目、記録写真の継続性について。

作者は丹念に執拗なまでに「大阪」各地を日々撮り続けている。それが何故なのかを知ることは難しい。

2024.3月の展示「VIEW OSAKA 記録の街」(TIPAアートプロデュース2024「徳永写真美術研究所に関わる作家7人の古典と研究活動の報告展」)でメイン作品として提示されたのは、作者の代表作《大阪一丁目1番地》だ。これは地理的に「大阪」を記録し網羅したものだ。

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《大阪一丁目一番地》では、大阪市内に存在する一丁目一番地」という地点を撮り集めて等価物として提示する、地点的タイポロジー(私の造語)的な取り組みだったが、対して今作「有為転変」は「10年」という時間差比較を2枚の風景写真で行っており、より素朴なものとなった。

しかし10年越しに大阪市内各所を巡って、かつての撮影地点と同じ場所で比較撮影を行うというのは、地理的網羅とはまた質の異なるハードルがある。地理と時間の双方において記録に取り組む姿勢は、他者の追随を許さないものがある。一体何が作者をそうも駆り立てているのか。

 

作品を見ていると、風景とは人々の生活や経済活動などの営みの集積物であって、何かの拍子でそれらがある日を境にいとも簡単に失われてしまう=風景が変貌する、ことが分かるし、作者がそのことに対して強く関心を寄せていることが伺える。だが古き良き町並みや、施設、建築物を「保存せよ」とは、作者は言わない。作者は訴えない。手前で止めている。内心はどうであれ、作者が社会的正義を訴えていないことははっきりしている。

 

あるのは、作者が記録性に並ならぬ情熱を傾けているという事実だけだ。

前回の展示から明確に示されたのが、自身の写真集「VIEW OSAKA Series」を公的施設に収蔵してもらうための活動とその実績である。自身の記録的作品をより長期スパンで保存し、将来へ継承してほしいという熱意が伺える。

記録性と継続性を完全に連結させて、撮影活動と記録保全活動に勤しむ姿は、まるで写真の記録性そのものが乗り移ったようにも思える。写真の像のアウラにではなく、像が定着され時間が保存される神秘的で機械的な力にこそ、作者は魅入られ、それそのものへと同一化していったのかもしれない。

 

最後に三点目、写真の撮り方について。

地味に真似できないのが、一貫して客観性を保った、記録的な視座である。写真を齧った人間なら分かるだろう。誰よりも美しく、誰よりも速く、誰よりもエモく、誰よりもオリジナルな、優れた写真を撮りたくなるのが常だ。写真によって我欲は増幅される。それを動力にして写真は繁殖する・・・まるでウイルスのように宿主を熱くさせて、そしてそれは繁殖を図るのだ。

しかし作者はそうした我欲を画面に出さない。記録的視座を保っている。画角だけでなくシャープネスや明暗においてもだ。なぜそうした態度が可能なのか? 仮説は色々とある。写真の絵面の美、ネオ・デジタル・ピクトリアリズム(インスタ映え!)的な美の競争原理に巻き込まれる前に、大学(旧・京都造形芸術大学・通信教育部)での専門的な教育を通じて、写真作家として「作品」を作ることの意義を培ったからかもしれない。そこで記録性という写真の根源的な力に魅入られたとも推察できる。

 

クライマックス、絶頂のない画面は、まさに記録―歴史においてもそれらが存在しない、常に相対的に平坦に追加され並べられてゆくだけであることとも合致する。

 

記録はどこへ行くのか? 現実に対峙してそれを残し続け、手を加えずにそのまま継承し続けていくことは、現時点のAI技術が最も苦手とする領域ではないだろうか。最も機械的な営みを、淡々と継続できるのは、機械から最も遠い人間しかいないのかもしれない。そんなことを気付かされた。

( ◜◡゜)っ 完。