nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】2025.1/18-4/6「大原美術館所蔵 20世紀美術の巨匠たち」@中之島香雪美術館

YouTube「抽象表現主義」「アメリカ現代美術」などと調べたら出てくる一般的解説を、実物で分からせてくれる良展示。

図録やパンフもなく会場内撮影もNGだったので記録がない。忘れてしまわないか不安なのでこうして書いているのだが(書いても忘れるのだが)、展示が小規模で点数が比較的少ない(全4章・計39点)ことと、出品リストだけは美術館HPに公開されていたのは救いだった。

 

入館料1600円で39点がお高いかどうかだが、タイトルの通り教科書的に著名な作家が来ているので価値はあった。現代美術の本でお馴染みの名前が並ぶ。生で見るのと印刷とでは別物だから見ておくにこしたことはない。YouTubeだけでは美術は分からんのぞ。自分が滞在している間、常に来館者があったので、地味に注目度はあったものと思われる。

 

第1章は「ヨーロッパからアメリカへ」1920~30年代のキュビスムから展示は始まる。現代美術の起点を印象派に置くか、キュビスムに置くか、デュシャンに置くかが定番ですが、本展示はまずアメリカ以前の動向から紹介。ヨーロッパで花咲いた革新的な芸術運動も、1933年にナチスドイツ政権が発足すると周辺諸国への侵攻やユダヤ人迫害が激化し、画家らはヨーロッパを離れ、新天地・アメリカへと移る。事実上、世界の芸術の中心地がアメリカへと移ったことを意味する。

ここで紹介されるホアン・グリスやベン・ニコルソンキュビスムは、ピカソとブラックが模索していた最初期のものを想起すると、出来上がった様式を触っている安定感がある。なおピカソの出展作はフランコの夢と嘘》2点で、漫画形式という珍しいものだった。独裁者フランコの暴虐をコミカルに描いたものだ。

 

第2章で「抽象表現主義、戦後アメリカへと飛んで、アクション・ペインティングとカラーフィールド・ペインティングの大きな2つの潮流について解説がなされる。ジャクソン・ポロック《ブルー―白鯨》、ウィレム・デ・クーニング《セクション10》と、ケネス・ノーランド《星の物語》が並ぶ。「抽象表現」というのは実は恐ろしく広い概念ではないかと思い、手に負えなさを想像すると寒気がする。だがどの作品も構成力や勢い、あるいは制動がきっちり効いていて魅了される。力がある。

面白いのは日本的感性、仏教の世界観へ接点のある作家・作品に注目した展示構成をとることだ。アントニ・タピエスの絵は平面・絵の具に止まることをよしとしない即物的な要素に満ち、土や木材、藁などが盛り込まれていたが、作者は日本の禅の精神などに傾倒していたという。ジョアン・ミロ《マキモノ》はまさに日本の絵巻物と書画を西洋風にひねったもので、色鮮やかで躍動感ある線画がいい。

 

気合いの入っていた目玉展示が、マーク・ロスコ《無題(緑の上の緑)》重要文化財薬師如来立像」とが並置された空間である。両者の間に仏教的な調和・共鳴があることをキャプションで語っていた。鑑賞時にそこまで深く入り込むことは叶わなかったが、薬師如来の静かに悟り切った表情と佇まいとが、ロスコの黒い地平と繋がるというのは、自然と自発的に連想されるべきだったかもしれない。モノを直接置いて直接目にしてしまうと、意識して相違点の比較に走ってしまう。当然、目に見えないはずのものを目で見ようとするから認識、観想が追い付かない。ロスコの絵は二つの眼で見ていても見えない。第三の眼とやらがうまく開いてくれないといけない。

 

あとは3章「ネオダダとポップアートで、ジャスパー・ジョーンズ《黒い数字》《ハッテラス》《ビール缶》《静物 近作》の4点から1960年代アメリカへと駆け込んでゆく。さすがに星条旗はないが、そういえば数字作品もあったなと。ヨーロッパの抽象表現主義よりも心なしかテンションが高くて元気があるのが分かる。ネオダダからリキテンシュタイン《眠りやがれ、ベイビー!》、ウォーホル《マリリン・モンローへの接続は完璧。まるで教科書だ。ジェームズ・ローゼンクイスト《マリリン》も素敵だ。皆さんコラージュをしましょう。このあたりまではまだ作る喜びがある。素朴な手作業の創作の喜びの余地が残されているというか。

ジム・ダインは名前だけよく聞くけど作品を思い出せなかったが、《少女と犬Ⅱ》を見て、とりあえずハートを描く人なんだと今更気付いた。アイコンが命になっていく。草間彌生も後にそうなったな。平面的で記号的で、流通するものとしての表現。ロバート・ラウシェンバーグ《都市》《きらめき》は真逆というか、流通していたイメージやメディアそのものをサンプリングして情報の文脈をバラバラに散りばめて提示する。情報化社会になっていくので。

そして1970年代、一転してフランク・ステラ《ポンズ川 Ⅲ「ニューファンドランド」》《ヨーク・ファクトリーⅡ》のシンプルな線と色の機械的な表現:ミニマルアートへと切り替わっていく。作る喜びは遠退けられ、工業的手法による私観の払底それ自体が作品となる。この時代に生きていた画家はどういう気持ちだっただろうか。それにしても10年刻みで次の時代が来てしまうのが20世紀現代美術の恐ろしくも凄いところだ。

 

 

最終の第4章「20世紀美術さまざま、そして…」は、特定の系統・手法を持たず分化してゆくその後の現代美術につて触れているようないないような9点。ジョージ・シーガルは白い等身大の人物が路上を立ったり歩いたりしている彫刻でお馴染みだが、《髪に手をやる女》は色付きで、絵画の面から女性が溢れ出てきたような作りで、これまで知ってきたシーガル作品と違っていたのが新鮮だった。

小野博の写真作品《大切なことは小さな声で語られる》シリーズが4点もあったのが最もこのコーナーを混乱させていた。他の作品が絵画、彫刻で1970~80年代のところ、これだけ2008年の現代写真で、関連も掴めない。写真好きのこちらとしては大歓迎だが唐突感は否めない。

このシリーズは倉敷の小学校で学生らの集合写真を撮ったもので、何ら特別なものはない。が、元々は均質化してゆく人々や世の中を表すのに、日本の集合写真というフォーマットが最適と思って撮ってみたら、子供ら一人一人の個性が浮かび上がったというもの。型にはめることで浮かび上がる差異があるというのはベッヒャー的で、それを逆転させた表現が澤田知子School Days》。

 

美術館の出口までの間に、茶室の原寸大レプリカがあり、その中にイヴ・クライン《青いヴィーナス》が腰かけている。これは面白かったが、軒先で茶を飲んでる来客みたいな収まりのよさができすぎている。やはり西欧美術は冷徹なホワイトキューブで神の手先のように鎮座しているのが良い。

 

そんな感じで楽しかったが、やはり図録がほしい。現物の記録と解説がないと後から辿れなくて困るんすよ。大原美術館からの貸し出しが主だったので、そっちに観に行ったらいいのかもしれない。

しかし現代美術は面白い。何故だろうか。地球規模の巨大な生物が急速に器官や形態を変化させているような、ナマのダイナミクスを目で見て感じ取れるのが心身を刺激するのだろうか。この艶めかしさ、人類全体に及ぶものと個別の絵画の筆致や濡れのレベルという、マキシマムとミニマムのエロスがある。

 

 

( ◜◡゜)っ 完。