nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】2025.3/7-4/6_頭山ゆう紀「残された風景」@PURPLE

何が残されたのだろうか?

「KYOTOGRAPHIE2023」の「ケリング・ウーマン・イン・モーション」支援にて、石内都と共に「透視する窓辺」で作品展示をしていたのが頭山ゆう紀である。その時点で過去作「境界線13」シリーズと合わせて、新作として祖母の介護中の作品が入っていた。

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その時は会場のスペクタクル的な見せ方と、石内都の引きの強さと、二人の世界観の類似性(人間を直接写さずに、親愛なるもの、近親者の存在を立ち上がらせるような描写)から、「石内都の延長線上にある世界観、文体」という見方にとどまり、写真一枚一枚がというより全体的な印象しか残っていなかった。鑑賞体験の量の差で言うと圧倒的に石内の方が上回るのと、被写体のアイコンとしても単体で強いので、どうしても会場の雰囲気は石内色がベースとなり、記憶の残り方もまたそのようになる。

 

当時の記録写真を振り返ってみると、今回の「残された風景」が多く展示されていたことに気付いた。

会場の終盤に向けて頭山作品へ切り替わり、モノクロの窓・レース越しの風景写真が連続し、最後の部屋で様々なサイズのカラー写真が散文詩、日記のように散りばめられ、一つの大きな窓と太陽に向かって終幕を迎える。

友人が亡くなり、更に15年の間に祖父、祖母、母親が亡くなり、次々に親しい人が作者よりも先に去ってゆく――現世に残される側としての、日常の光景が撮られ、また陽が上る/陽が沈んで明日が来る時間の環が、大きく示されていた。

 

本展示では「KYOTOGRAPHIE」から打って変わって、大きな没入型の写真はなく、サイズ感が揃った。しかし額装の種類、マット台紙の有無に伴うサイズの大小があり、概ね目の高さに揃えられつつも横一文字を崩したリズミカルな配置など、展示構成には工夫が凝らされている。

何より変わったのが、モノクロ写真の使い方で、KG会場では一列にまとめられていたのが、ここではカラーの日常景の写真群に挿入されている。

これによって、現在の/祖母の死後の時間を生きる作者の視界と、かつての/祖母を介護していた頃に送っていた時間の視界と、二つの時間を行きつ戻りつするような展示となっている。

 

構成の変化に伴い、受ける印象が全く変わったため、KGでの展示や理解がどうだったか、思い出すまでにかなり時間を要してしまった。記録的・記号的でない写真は、構成や文脈によって帯びる意味が大きく変化することが分かった。

 

実際には、ステートメントを読んだところでは、モノクロ写真は「幻覚で壁に墨絵が見えるという祖母の視線」へ作者が寄り添うように想像して作成した視座、ということになるが、全くそのようなおどろおどろしい・病的な・不安な要素はなかった。もっと優しくて柔らかい。光と事物だけがある。つまり光景だけがある。

 

モノクロームからやってくる光景、つまり過去から来る光の影。ただただ、かつて親密な人が居た(そして今はもう居ない)ことを投げ掛ける眼差しとして響いていた。

 

モノクロと、そこに写されたガラス窓への反射やレースの透過という視線・反視線の構造が集まり、ある光景となって、過去に留め置かれた想いや記憶や視界を引き連れて、「現在」を刺しにやってくる。

 

カラー写真側も同様に、ガラス窓越しに風景が撮られており、一貫してこれらの写真は脱ストレートな光景、すなわち見ようとしても見られないもの・直視できないものへの眼差しに満ちている。

 

写真は、祖母を本格的に在宅介護し、看取るまでの間、介護生活のごく限られた合間に息抜きで撮られたものだ。新型コロナ禍で、介護のために退職し、作者は介護者としての生活に入っていたことがテキストから伺えた。だが写真にはそのような記録的な状況、特に祖母や自分などの人物が一切写っていない。光景だけがある。

それらは時系列や記録性を持たず、目の前にある光景を写している。曖昧なエモーショナルなブレやボケではなく確かに見てシャッターを切っている。なのにどれも何を見ているのかが掴めない。「時間」ですらないものを見ているかに思える。いつの時点に何を見ているか、何を思っているか、明らかに私的な主観写真なのだが主観の位置や行き先が見えないのだ。

これが、本作が「不在」を巡る写真であるという実感に繋がっている。

 

例えば喪失感で凹みましたとか悲しいです、絶望しましたという「私」を語ることはたやすく、そのようなテンション・雰囲気の写真を撮ればよい。親しい人がいなくなりましたという空虚さをどう表せばよいかについての典型的な解法は、ある程度人生をやっていると経験則で技術的にも身に着く。しかし本作はそうした「私」の語りという主観が真空のように静まり返っていて、「私」すなわち「時間」の柱が無くなったような反射や透過だけが、残響のように響いている。

 

今、あるいは今に至るまでの「私」を構成してきた、重大な柱となる存在が無くなろうとしている、あるいはもう無くなってしまった時間、すなわち主観が、ここに撮られており、その時間の区別も行きつ戻りつしている。

つまり「私」にとって、喪失は終わったことではなく、前から続いていることでもあり、しかし喪失=死別は時系列上の出来事として、起きてしまったことで、それ以前には戻れないというジレンマにある。

 

完了形の死別と、終わりのない喪失がここにある。

作者は対話を続けるのだろう。そういう、終わりのない波のような、主観の写真なのだった。

 

( ´ - ` )完。