nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】2024.11/5-30_元田敬三「麦酒・焼酎・缶チューハイ」@ビジュアルアーツギャラリー

私の知らない西成・あいりん地区(釜ヶ崎)に、「私が」立ち会っている実感が生じたことが驚きだった。

釜ヶ崎三角公園の周辺にて撮られた写真。

 

正確にいうと「一般的知識として、想像としては知っているが、個人的には全く知りようのない西成」だ。これらの写真にはそれがあって、写真を見ていると自分がそこに半分当事者のように立ち会っている実感が出てくる。YouTuberやルポライターの観察、実録とは違う。あれらは外から対象を見て映しているが、本作は「地の言葉」があり、地の言葉を受け答えできない私の代わりに写真がそれをやってくれているような感覚がある。

 

西成・あいりん地区という特殊な場所・生活者と親身な写真だから良い写真ですねという安直な評をしたいのではない。まずその道を絶っておく。作者が西成に通い詰めて関係を築いてきたから、ストリートの情景を撮ることに長けているから、というだけでは冒頭の話は収まらない。西成・あいりん地区の住人らと胸襟を開いて血の通った関係を育み、経済的弱者として見なされがちな地元民と水平的な目線でコミュニケーションをとっていることが伝わることは、事実としてはそうだ。しかしだからそれが素晴らしいというリベラル目線の評に陥ると重要なものを見落としそうだ。

 

本作がもたらした感覚について考えたい。

 

欠かせないのはキャプションだ。言葉の効果は極めて大きい。本展示では写真が1点ずつ並べられる、非常にオーソドックスな展示形態だが、ほぼ全ての写真に対して、その人物がその時どのようなことを言ったか、何があったか、その後どうであったか、作者との間柄や来歴が書かれている。

本作のキャプションは、写真に写されたもの:住人らの表情や風体や場所だけが読み取り可能な事実として限定されるような、事実限定の構造から脱することを叶える。なおかつ、写真家の主観と技術:写真の腕前、写真道の信念や哲学が積み込まれたショット・画角やプリントといった、力業のアウラの構造からも脱することを叶える。写真と意味が一対一でカルタのように固定される事態から「西成」を自由にさせている。

当然ながら小説の挿絵ではないので、写真が主役であることに変わりはなく、写真に写された物事に即してキャプションの言葉と情報が添えられている。だが写真だけでは語りきれない背景や人物像などへと読み手を誘うが、絶妙な幅であって、両者の言葉は近い質の掛け合いとなって、写真像の語るものが拡張されている。一枚一枚の写真の指し示す意味や事柄が、写像のその先や横へと延びていく。

 

言葉は西成・あいりん地区の住人らが見せる多彩な表情、出で立ちに絡まって、写真はリアルへと肉付けられていく。リアルというのはガチモンのリアリズムというより(勿論リアル以外の何物でもないが)、想定的リアリティでもある。鑑賞者(私)が自分では生で体験、実現することのない関係性がそこにあって、「実際にはこういう人物(好ましく、純朴で、予測不能で、アウトローみのある、等)なのだろう」といった大まかな想定・了解に対し、それを率直に叶えていく写真となっている。想定的というのは、こちらもそれなりに人生をやってきて、様々な経験と学習から分かってきた付き合いの可能性と限界があり、そして西成・あいりん地区への了解があるわけだが、それらと写真との間に齟齬がほぼ無く、むしろ熟成させるように効いてくるのだ。

 

そして私個人ではこの写真のように彼ら彼女らを現前させることは叶わない。

地元との関係性を築いていないし、築く気も特にないので当然なのだが、そんなわけで想定・了解は内部データとしてのみ留まっている。本作はそれを引き出して写真の内部に接続し、本来ありうべき「西成」の可能性表情へと開く。

人物らとの距離感、背景の写り込みがそれを実現させている。人物が主体の写真でも広角気味で、ほぼ背景が広く写されている。鬼海弘雄のストリート人物写真と異なるのがその点だ。[(路上+下町) × 人物 × キャプション]というフォームは共通しているが、元田作品は背景の存在感、現場の臨場感、スナップ的な目の動きがもっと大きい。結果、撮影者・被写体の双方の主観、「私」をバーターに交換(交感)している。どちらかが重くて大きいのではなく、どちらもが対等に居て、言葉や情緒を交わすところとなっている。

 

キャプションの文体・情報と、背景や臨場を取り込んだ写真の文体によって、バーターな交流が画面内に成立し、そこに鑑賞者(筆者)は同席させてもらい、立ち会うという構造が実現している。

言葉で書くと、写真の在るべき論で言えば、誰もが普通そうしているように思うかもしれないが、至難の業であり、特に西成という場では撮り手・作り手の様々な情緒や主張が跳ね上がってしまう。それがなぜ生じるのかは私の今後の宿題だが、やはり国内における伝説的な場所のように語られすぎていて、非日常として強すぎる土地であるし、人物らも色んな意味でやはり独特である。写真は奇異でも親密さでも何でも欲望・情動を増幅させてしまう力があり、写真家はその衝動と常にある。経済・社会的な問題がダイレクトに現前化しているために撮り手がイズムに寄ってしまう場合もある。

本作がそうした諸々の「強い」作家主義から一定の距離をとることに成功しつつ、強度のある写真作品を成立させているのは、西成という場を尊重しようというシンプルな姿勢を貫いているためだと思う。ラストの写真とキャプションがそのことを物語っていた。1995年、作者が学生の頃に新今宮駅前で逡巡しながら撮った写真と、その時の思いが。

 

 

( ´ - ` ) 完。