丹野章、1950年代「サーカス」は知っていたが、1960年代以降の「地底のヒーローたち」は知らなかったし初見だった。炭鉱!
「VIVO」メンバー(1959~1961、奈良原一高、東松照明、川田喜久治、細江英公、丹野章、佐藤明)はそれぞれに個性を生かして独自の世界観・テーマ性を発揮したが、丹野章は特に舞台、サーカスの写真で知られている。
丹野章とその作品は奈良原や東松、細江と比べるとマイナーではあり、露出が高いとは言えない。戦後昭和の写真家を振り返ったり、「日本現代写真」を辿る主旨の企画展・グループ展でたまに出会うことがあるが(近年も「サーカス」シリーズをどこかで観たのだが思い出せない…奈良市写真美術館のマーク・ピアソンコレクション展だったか?)、登場の機会はそう多くない。
「サーカス」シリーズをまとめて観たのも、実は初めてに近かったかもしれない。
会場は手前のコーナーで「地底のヒーローたち」、奥のコーナーで「サーカス」を配置する2段構成となっていて、「サーカス」シリーズは16点・全て額装だ。
素朴だが力強い。1950年代の撮影機材だから現代の映像技術とは比較できず、また70~80年代あたりからの広告写真のようなドラマティックに演出する撮り方はなされていないが、サーカス演者が飛んだり跳ねたり綱渡りをするところを的確に捉えている。非常に素朴な機材と撮影スタイルながら、暗い会場内で演者の動きをきちんと止めて撮っている。
現代のサーカスや演劇よりも会場が小さいためだろうか、ステージと観客との距離の近さ、肉体的な結びつきの強さが感じられ、印象に残るのだ。
そしてスポットライトを浴びる「舞台」の周辺、それを包むサーカス劇場の周囲も幅広く撮られていることが特徴的だ。これは後の「地底のヒーローたち」に通じる視座である。
人間、動物らによる技と躍動、歓喜する観客たち、降り注ぐ光と濃い影のコントラストもさることながら、舞台が終了して観客がはけた後の、大量にゴミの降り積もった座席、出番を終えた円形の柵のフォルム、その奥でくつろぐ団員。それらを内包し生活の場として支えているバラック小屋のような裏手などが並ぶ。
まさにサーカスの舞台上と舞台裏の光と影、夢と現実とを、コントラストの対比、対立によってではなく階調によって表している。太陽と月の二つは分断されているのではなく共にあり、巡り合い、混ざり合う時間帯もあるような、そんなモノクロームのドキュメンタリー写真だ。
耽美、劇的ではなくリアリティ。だが悲哀はなく、団員のプライドのようなものがある。リアリズムよりも相手方に染まったような、サーカスという場の発する空気に耳を傾けるドキュメンタリー写真だ。安井仲治の「サーカスの女」とも全然違うのが面白い。ドキュメンタリーという手法を写真家個々人が内面化していることがわかる。
この姿勢、視座はそのまま炭鉱、炭鉱夫に注がれている。
「地底のヒーローたち」は、本展示が関西では初のお披露目であるという。確かにWebで上がってくる過去の展示情報は2013年・キヤノンギャラリーの巡回展ばかりだが、展示会場が銀座、札幌、福岡の3か所と、あろうことか大阪が飛んでいて、確かに関西では紹介されていないままのようだ。個別の写真集も出ていない。
会場では10点の額装プリントと、ケース入りの14点のプリントが提示される。
ケース入りの写真はどれもサイズが揃ったプリントで、裏面に署名があるなど、まとめて雑誌に掲載するために送ったものが返却され、保管されていたのではないか、とオーナー談。
確かに戦後昭和の頃には色んな雑誌が、今や写真史に名を連ねるようなビッグネームへ普通に撮影や取材、連載を依頼していたりするので、有名どころのバックナンバーを探していけばそのうち丹野章の連載記事に突き当たるのではないだろうか。普通に70年代以降のアサヒカメラ等のカメラ雑誌を確認していくのが一番早い気がする。い、いや、やりませんけども(やりかねない)(床がぬけるのでやりたくない) めまいがしますね。
写真は前述の通り、総合的なドキュメンタリーとして「炭鉱」の姿を撮っている。取材地は、長崎県の「高島炭鉱」。世界遺産のうち世界文化遺産として、「明治日本の産業革命遺産」の一部に認定されている。現在でも一部の遺構が見学できるようだ。
作品では炭鉱夫とその家族も撮られているが、土門拳の撮る「炭鉱」が「筑豊の子どもたち」に代表されるように、エネルギー革命での転換によって困窮し、社会問題化された「労働者」(とその家族)の色合いが極めて強いのとはテンションが異なる。社会正義のためのリアリティ追求=リアリズムよりも、「炭鉱」で働いて生活をするということ、生活の全体像を示していて、その中に不可避の状況としてエネルギー転換による産業の衰退、閉山がある。それらは主題というより背景として写っている。
中心にあるのは個々人の炭鉱夫と地下の労働現場、つまり「人」の素朴な暮らしだ(労働環境からすれば経済的にも肉体的にも過酷には違いないが)とすると、「サーカス」シリーズよりも更にメインテーマの周辺が幅広く撮られている。労働争議に集まった夫人らの姿や、坑夫の姿を脱いだ自宅内での様子や、閉鎖された坑口、寂しげな町中、山を切り崩す重機とダンプカーといった写真は、時に説明的ですらあるが、並べると脇役でも説明資料でもなく、坑夫の姿と対等に現場の姿を立ち上げてくれるカットとなる。
ただ、その中でもやはり人物写真は数段光って見えるのは確かだ。彼らには誇りや輝きが宿っている。産業の衰退を感じさせない。その意味ではヒューマニズムの写真家なのかとも思った。
同じ炭鉱を撮りながらも、幾何学的な画面構成、近未来的なハードコアな空間を強く写し出した奈良原一高とは全く違っていて、VIVOメンバーの個性が更にはっきりと認識できた。ただこれは撮影された時代の違いもある。奈良原が軍艦島(端島)を撮影した「人間の土地」は1954年で、まだ石炭がエネルギーの主役の時代で、島民は東京よりも近代的な社宅暮らしをしていたという。10~20年で世界が一変したのだと思うとくらくらする。(私達日本人が”失われた10年”のデフレ・低成長時代を生きて、もう30年が経っていないか?) そういった経済・産業面、生活インフラ面と写真家の眼と、作品の違いについて、炭鉱・鉱山の作品は顧みられても面白いように思う。
だが1986年の閉山までの間、どれだけの期間を撮影していたかなどの具体的な情報はまだ表(特にWeb)に出ているものがない。公的な美術館で学芸員が調査したり、財団アーカイブや有志、学識者による調査・回顧展の企画がなされたりといった動きがないと、基本的な情報すら「ない」のだと知った。ないねん。マジで。ゼロから1を作ること、語りを作っていくことの重要さと苦労を想像すると、まためまいがするのだった。応援する以外になく。はい。
白旗宣言みたいなレポになってしまった。良い写真でした。
( ´ - ` ) 完。