オッペンハイマーは何と戦っていたのか。
話題になっていた映画「オッペンハイマー」、第七藝術劇場でこの8月に上映していたのは日本の原爆投下日に合わせた企画だったと思う。見逃した私には有難い好機。2023年8月下旬の米国公開時のプロモーションで「オッペンハイマー」 × 「バービー」が原爆ばかにしとんのかと炎上、Xで盛り上がっていたことが記憶に新しいですね。
でも中身はけっこう良かった的な、ちゃんとしていたような感じだったので、その後は逆に大きな、刺さる話題にはなっていなかった。ので私も中身は知らないフレッシュな状態で観に行った。
以下感想レポ。
1.全体の構成
構成については分かりづらさと巧みさが絡み合っている。3時間もあるがだるさも感じさせない、体感2時間程度で集中して観ていた。
序盤はテンプレの高速叩き込みでかなり辛い。売れている映画トレイラー詰め合わせ動画のごとく、次々に話が進められる。最新の映画ってこんな詰め合わせ動画なの??没入感ないんだけど??と不安になるぐらい、作品の中に入りづらい。
序盤では、オッペンハイマーの科学者としてのキャリアスタート~成長、量子論の立ち上げと広まり、原爆開発に着手するまでと、「共産党」とのプライベートな深い関わり、組合活動にノッてしまう様とが対になって語られる。
この情報の強引なまでの積み上げが、終盤の長大な、重苦しい2重の対決場面の理解を下支えする。
中盤は、原爆開発の本格化、マンハッタン計画、ロスアラモス研究所立ち上げ、トリニティ実験の成功から、人類初の対人実践として広島・長崎へ原爆投下し、第二次世界大戦が終結するあたりまで。
ここで映像の組み立て、物語の進め方が変わり、通常の人物ドキュメンタリー風ドラマ映画として直線的な流れを持ち、かつ没入できるスピード感で進行する。要は通常の映画の体感レベルになる。
クライマックスはトリニティ実験、人類初の原爆実験の成功シーンだ。人類史の新たな悲劇的な運命の始まりであるにも関わらず、それまでの難問・難題、当日の天候トラブル等々を乗り越えてようやく炸裂した巨大な炎の柱は、何やら感動的ですらある。物語の恐るべき力だ。
歴史的成功とは対照的に、続く日本への原爆投下、ポツダム宣言受諾、終戦にかけては、その後のオッペンハイマーの人生の暗転を象徴するかのように冷ややかな距離をもって描かれる。理論を物質へ生み出すまでが科学者の仕事であって、その後、生み出されたものをどう使うかには関与できない。目の前の戦争を終わらせ、その圧倒的脅威によって平和をもたらすために作り出したはずの原爆が、その後も水爆開発を巡るソ連との冷戦という形でエスカレートしていく。
日本を降伏させ世界平和をもたらした「原爆の父」科学者オッペンハイマーは大絶賛され、絶頂を迎えるが、大統領をはじめ世界は水爆開発にアクセルを踏んでいく。世界の破壊が止まらない。深い苦悩・葛藤が始まる。
終盤は、オッペンハイマーの苦悩と戦い、そして「ストローズ事件」が対となって、スパイラル状に描かれる。
オッペンハイマーは一転して水爆開発の反対を訴える。だがこれまでの共産党員との関わりについて「赤狩り」の追及を受け、狭い部屋で「聴聞会」、一般公開されず証拠資料も共有されない中でひたすら尋問され続けていく。
この聴聞会を起こして嵌めたのはアメリカ原子力委員会の創設委員、ルイス・ストローズで、戦後アメリカの原子力政策の中心的役割を担った人物。オッペンハイマーをプリンストン大学のプリンストン高等研究所・評議会メンバー、そして原子力委員会アドバイザーとして招聘する。
が、オッペンハイマーの天才ゆえに悪気の無い失礼な発言でプライドをあれされ、めちゃくちゃ恨みを持ち(映画を1回見ただけではその根の深さが分かりづらく混乱するポイント。ストローズの学歴コンプレックス等が深く関係している他、複雑な対立もあったようだが…)、「オッペンハイマーをアカ、ソ連のスパイだと認めさせて、機密情報アクセス権を剥奪してやろう」とする。つまりオッペンハイマーの業績やキャリアを全て破壊し、原子力開発関連に関われないよう無力化させようとする。
この、ソ連のスパイ追及会を密室でゴリゴリやられるオッペンハイマーと、そんな蹴落としを画策したことが後に疑問視されたストローズが、商務長官としてふさわしいかを問う「公聴会」の場でゴリゴリやられるという、二つの詰問バトルシーンが蛇のように絡まり合って、終盤は緊張感に満ちている。
想像以上に終盤の二人の確執がボリュームをもって描かれている。確執というよりストローズのほぼ一方的なハメなのだが、ストローズの画策によって全てを失う危機に陥り、消耗しきっていくオッペンハイマーの姿と、彼を陥れた上に商務長官として上り詰めようとするも気骨ある証言者によって同じく危機に陥るストローズ、この二人を描くために序盤の駆け足の情報量があり、また「原爆」とはそもそも何なのか、どこから来たのか――それをオッペンハイマーが生み出したのだと語るために中盤が存在している。
2.分かりにくさ_オッペンハイマーとストローズ
分かりにくい映画である。だが異様なコクをもって記憶に残る。
一般的にイメージするのは、「量子論の天才の人生」として深淵な理論・思考を元にしたドラマや、原爆開発のドラマ、あるいは最大の成功=最大の悲劇としての広島・長崎への原爆投下と苦悩のセットのドラマ、といった展開であろう。
だが違った。
それらは網羅されながらも、原爆完成の悪魔的に力強い爆発な炎すら通過点に過ぎないぐらい、終盤のオッペンハイマーとストローズの確執、オッペンハイマーの聴聞会とストローズの公聴会のシーンが強く描かれている。この二人のコントラストとツイストが本作の真のクライマックスだ。
ここに本作の「分かりづらさ」がある。大きく二点挙げられよう。
まず一点目は、多くのサイトで指摘・説明されている通り、カラーとモノクロのパートが繰り返される点。一般的にはモノクロを見ると過去や回想のシーンと解釈するが、本作においてはストローズ主体のパートがモノクロで表され、カラーがオッペンハイマー主体のパートとして描き分ける作りとなっている。時系列的にはモノクロ部分がむしろ作中で最も未来:冷戦時代のアメリカだったりするので、私達の実感から外れていることが分かりづらい。
二点目が、そもそもなぜオッペンハイマーとストローズの対決が(ストローズの一方的なハメだが)事実上の主題として描かれているのかが分からない点だ。
普通、誰もストローズという人物のことは知らない。オッペンハイマーが私達日本人の敵か味方か、本作自体が日本人と敵対するのか否か、観客はそこにしか関心が無かったはずだ。
この二人の対決が非常に高いウェイトを置かれていることの理由、そこに至る文脈について、一応作中で盛り込みつつも断片的に挿入されていくので前提情報や筋書きがかなり不足した状態である。中盤~終盤に至る、原爆投下以降のオッペンハイマーの絶頂と苦悩の訪れまではしっかりシンクロして理解できたが、終盤の聴聞・尋問と、ストローズの存在自体がなぜこんなに多くの尺を割いてボリューミーに描かれるのか、けっこう謎である。
これは、日本人から見ると原爆開発と広島・長崎投下こそが最大のテーマであるのに対し、恐らく米国の歴史にとっては「赤狩り」のシリアスさがよりヘヴィなテーマだったからではないか、と想像した。日米ともにコアとなるテーマを2つとも押さえに掛かった上で、オッペンハイマーをソ連スパイに仕立ててハメようとしたストローズが失墜するところもしっかり描き切るという構成だったのではないか。
3.オッペンハイマーが戦ったもの
本作ではオッペンハイマーが実に多彩なものと戦っており、偉業とも言えるヘヴィな人生、観る側も満足感は高いが、結局何をしていたのか逆に見失いそうになる。終盤のストローズのシーンがスパイラル状に絡んでくるので猶更である。
オッペンハイマーが戦ったものを、順を追って大雑把に列挙してみる。
・量子論(科学者キャリア、理論追究)
・スペイン内乱戦争(⇒反対運動から共産党へ接近)
・大学での組合運動(⇒明確な批判対象はないが共産党へ接近)
・原爆開発(科学、理論の実践化、国家プロジェクト推進)
・ナチスドイツ(当人がユダヤ人 ⇒原爆成功=戦争終結という至上命題へ)
・日本・太平洋戦争 (とりあえず戦争は終わらせねば…)
・核攻撃加害者としての自責
・ソ連 (核開発続行)
・水爆開発、冷戦(⇒反対論者へ転向)
・米国 ( ≒ ストローズに代表される水爆開発の推進へ抵抗)
・ルイス・ストローズ(作中では直接対決していないが人生上最大の敵)
・原爆を産んだという事実 / 世界を破壊する可能性
非常に多いし国家規模、地球規模である。大変だ。wikiに掲載されているような「オッペンハイマー」の人生・情報の項目を網羅した映画である。網羅力がすごい映画であることは特筆すべきだろう。
項目が多いのでカテゴリーを大別してみると、以下の5点に絞ることができる。
・科学・理論(量子論)
・戦争、外国、外交
・国家と主義
・核兵器
・人間個人(の悪感情)
ここで5点目に挙げた「人間個人の悪感情」というのが、前項で触れたストローズの存在と仕打ちをどう解釈しようかと考えた結果の枠組みである。やはり映画を見終わってからも最も理解が追い付いていなかったのが、なぜストローズの存在の尺と重みが原爆以上に、こんなに高くて重いのかということだった。
確かにオッペンハイマーのキャリアを破壊し、戦後アメリカの原子力開発の舞台から放逐せしめた現実はあるので、ストローズの存在は重い。これをどう解釈すべきだろうかという問題が残った。
4.ある個人の悪感情が、世界を左右している。
映画を観ている時には、「あ~これが政治だよな~」「この嫌な圧力、ゴリゴリの権力こそ政治、国家だよな~」と嚙み締めていたのだが、やはり映画全体を振り返って構成を考えたとき、特に原爆の誕生、広島・長崎投下との流れとウェイトバランスを考えた時に、なんともアンバランスというか奇妙にも思えたのだ。
「戦後アメリカ史において赤狩り、マッカーシズムの嵐が重大事だった」だけではどうにも収まらないぐらい、妙なウェイトである。
これはアメリカ(人)にとっては根本的に逆なのかも知れない。日本とは違って、広島・長崎への原爆投下は、オッペンハイマーという歴史的有名人のエピソードの一つにすぎなくて、「原爆の父」オッペンハイマーの人生のその後を描くこと、輝かしい経歴を奪った原子力界隈のボス・ストローズなる怪人物を描き出すことこそが関心事であった、と仮定することもできよう。ここはアメリカ(人)側の感覚・事情が分からないので確定的なことは言えない。
しばらく時間が経ってから思い至ったのは、こんなストローズみたいな(性根の小さい、個人的な感情でねちねちしてる)奴が、アメリカという大国の原子力開発・運用の権限を握る重要な立場に就いているというのは、やばくないか?ということだった。
ラストでオッペンハイマーとアインシュタインが、池のほとりで交わした短い会話の中身が明かされる。核爆発の無限連鎖による世界滅亡の可能性についてオッペンハイマーが言及し、アインシュタインが思いを巡らし憂慮(絶望)する(なおかつその直後にストローズが間の抜けたタイミングでやってきてすれ違いを生じ、自分だけ低く見られていると勝手に解釈してへし曲がってしまう…)。
だがオッペンハイマーのいう世界滅亡とは物理現象としてではなく、冷戦構造のごとく、核開発の競争による戦争の抑止がエスカレートしていく世界のことであった。生みの親はその運用に携われない。
生み出した核兵器をどうするか、その鍵を握っている究極のところである「人」が、こんな個人的な小さい感情で物事を動かし、実際に国を動かす騒動に発展していたという事実が、何よりも恐ろしいことではないか。
エンタメ的な間口の広さとスピード感を持ち、人物ドキュメンタリー・成功物語として上昇していくノリの良さを持ち、しかし原爆成功クライマックスの後に本当の対峙を嫌な緊張感でしっかり描いた、なんとも凄い映画であった。
そして立場や主義が揺らぎ続けるオッペンハイマーという人物像が、一様には把握できなくてキャラの掴みどころがなく、それも主人公として独特であった。量子論=波という揺らぎの概念を導入する物理学にふさわしい人物像なのだった。
( ´ - ` ) 完。