nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【Talk】2024/8/3_第七回 太田の部屋〜つくるをかんがえる〜「話を聞き、撮り、書くということ」インベカヲリ★×太田靖久

インベカヲリ☆、2冊の書籍『私の顔は誰も知らない』(人々舎、2022)『なぜ名前に☆があるのか?』(読書人、2024)を元にしたトーク。聞き手は小説家の太田晴久氏。

オンライン配信のトークをリアルタイムで聴いたのは実に久しぶりだった。

何の拍子か忘れたが、Xをダラダラ繰ってたら偶然、インベカヲリ☆氏がトークをするという投稿が流れてきたのだった。

 

「太田の部屋〜つくるをかんがえる〜」は、太田晴久氏が「つくる人」をゲストとして招き、様々な話を聞くトークイベントだという。

liondo.jp

 

なぜ急に聴いたかというと、「インベカヲリ☆・現在系を知っておかねばならない」と、急に危機感を感じたからだ。

 

インベ作品については過去に展示を鑑賞し、ブログで短観を書いた。が、最も印象に残っているのが、2018年の「ふあふあの隙間」(ニコンプラザ大阪)「理想の猫じゃない」(大阪ニコンサロン)の時、つまり私がインベカヲリ☆という存在を初めて知った時点(一般社会もこの時の展示で初めて知り、衝撃を受けた)で作家像と作品のコアとなる印象が刺さったままになっている感があり、それでもう6年もの月日が経っている。

その後も、2022年の個展「たしか雨が降っていたから」(原宿、Gallery KTO)を観て、本人とも少し話したりはしたが、いくら作品制作のテーマや精神性が一貫していると言えど、私の初期印象そのものとも言える理解の感覚が、いつの間にか作家の実態とズレている恐れがあった。

 

www.hyperneko.com

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なんか多いな。どんだけ好きやねんと思われるかもしれないが、それだけ作者が精力的に活動しているということであって、むしろこれは氷山の一角であって、近年の活動、特に著述やトーク関連は全く追い切れていない。あうえあ。

 

 

トークについては有料の配信なので、内容を詳らかに書くのは避けつつ、そこで得られたエッセンスについて書いておく。

 

トークを聴いた結論から言うと、特に自分の認識にズレは無かった。むしろ作家像がより奥行きをもって、より具体的な肉付けがなされていった。

 

といっても一発聴いて即・吸収、記憶されたわけではない。アーカイブ公開期間が2週間と限られていることもあって、お盆の三連休は写経のようにトークを書き起こしていたのだが、これが覚えていさすぎてショックだった。ライブ中にに感銘を受けてXに投稿したところは確かに覚えていたが、それ以外の個所は綺麗に忘却していたりして、わりとショックだった。「人は人のことをこんなにも忘れる」とか嘆きながらWordを打ち続けた。記憶力がほしい。

 

 

冒頭の通り、トークは2冊の著書をベースに展開されたが、大まかにはインベカヲリ☆という写真家にして文筆家の制作スタンス、もっと言うとインタビュアーとしての聴き・書きの姿勢について掘り下げられていた。

不特定多数への対人インタビューなどを生業とするライター、あるいはインタビュー取材で作品制作を行う作家・アーティストには必聴とも言える内容だった。

 

めちゃくちゃ大まかにいうと、型にはまっていない不特定多数の相手を、いかに型にはめずに話を聴いて掘り下げていくか、というプロセスの話だった。

 

型にはめない、カテゴライズしない、話に解決策や提案をアドバイスしない。

「聞くことが仕事」という、達人の極意のような日常的なスタンス。そういった話が具体的に語られる。

 

インベ作品を一度でも見れば分かるが、写真作品の登場人物らは全員、揃いも揃って「型にはまっていない」どころではない。

作品では、過剰にコミカルに真剣に神妙に堂々としっかりと逸脱している。

 

それは、彼女らは写真作品以外の場面では、つまり平時は、過剰に真剣に絶え間なく、どこの型にはまっていないはずの「私」を、組織や一般常識や対人関係等々に合わせて「型にはめて」きたがゆえの姿なのだ。

それが当人にとって辛いか苦しいかそうでないかがまたモデルによって全く異なる。その点においてすら接し方、解釈をメタに上げて/引いていかなければならない。一般的な価値評価をベースとした解釈は禁物だ。

そうした全てからの反動というか抵抗運動に等しい。独立戦争の記録である。一人対世界の。

 

実際、インベ自身が原体験として、女性が本音を全く喋ることができないまま大人になることのトラウマについて語っていて、自分が世界に殺されてきたこと、自分の人生を自分のものにするために、女性の語る「世界」を作ることしかない、だから女性らに語らせて作品を作るのだと言っていた。コスプレ写真、演出・変装写真、自傷行為、承認欲求、etc…どころではない。生存の戦いである。何からの? 型や解釈、公用語からの。型から逃れて自立する、抵抗の戦いである。たぶん。

 

そうした、女性が自分の言葉で何かを語ることを「当たり前」の世界とすることが、作品制作の核のテーマとなっている。インベカヲリ☆という作家が生涯続けるであろうライフワークである

 

だが普通、相手を、特に相手の話を、型にはめずに聴き続けることは苦痛を伴う。相手がこちらに気を遣ってチューニングして、会話・キャッチボールの形式を保ってくれるならまだボールを拾える。が、『私の顔は誰も知らない』を読めば分かるが、登場人物の言葉はキャッチボールの次元を超えている。コミュニケーションの定型化、安全化に慣れ切った身には、素潜りで濁とした深みに飛び込むような発話が文字起こしされていると、読み進めていくたびにクラクラしてくる。

生の言葉。インベは会う女性会う女性の人生や生活や感覚や身体や人間関係をそのまま聴いているのだ。これは大変な仕事である。語り手本人のことだけではない。彼女らに近づいてきた人間たちの暴力性や欲望が生のまま描き出されて迫ってくる。「型」にはまってないのはむしろどっちの方なのか? クラクラしてきた。

 

 

トークはライタースキルを向上させる目的では催されていないので、どうすればそういった聴き方・書き方が出来るようになるか、といった技術論は一切ない。要は技術の問題ではない。

 

明確にされたのは、来る女性来る女性の話を聴いて、誘導することも説教することもアドバイスすることもなく、「聴く」に徹する姿勢であった。

世界と人間のリアリティを何処に認めるかという問題において、モデルの女性らは自分たちならではのポイントを選び、インベはそれをとことん見守り、受け入れて聴く。シンプルだがそれゆえに真似できない。

 

その驚異的な聴き力・受け入れ力の代わりに、インベは生活において、各種メディアや視覚上で飛び交う様々な「情報」が苦手であるということも語られた。

「情報が嫌いなのでシャットアウトしている」「情報というのはテレビとか映画とか小説とかニュースとか」「デパートに行って商品が並んでる、何が並んでるかみたいなのを見るのはストレス」…もう情報社会の全てがアウトである。生まれる時代が少しズレてバブル絶頂期の日本で17歳を迎えていたら発狂して都市文明から逃げ去っていたかもしれない。絶妙な時代の申し子と言うべきだろうか。

 

しかし、ある個人から吐き出される生の言葉、実体験から催される言葉は「情報」ではないからOKなのだという。

 

インベの言う「情報」とはおそらく、資本主義社会がメカニカルに、自然現象のように空気のように四方八方から無味無臭で発してくる信号や指令のようなものだ。それらは接する者の主体を奪い、資本主義の一部へと取り込んだ上で、ゾンビを増やすように「私」を侵し、動かす。だが「私」自身は自然と連続しているためにそのことに気付かない… そんな力の言葉や音や文字や波長や光や色のことである。それは「何者か」の「型」を選択させ、購入させ、どこかへ属することを求めさせる。それは人の声や言葉に折り重なって一体化し、ウイルスのように感染力を奮う。

 

ある個人が内から発する、戸惑いや躓きや迷い、確信や自由さに満ちた言葉は、「情報」の力に染まっていないために、それを聴いても資本主義のゾンビウイルスに感染しないのだろう。

だが私のような何者でもないことに耐えられない人間は「型」を切望し、資本主義ウイルスで熱に浮かされることで力を得る、そのことを望んでしまう。

何者でもないのでは、生きていけない。

 

インベとそのモデルらは恐らく、どこかの時点で既に独自の「何者か」であり、如何ともし難く「個体」であった。あるいは本人にとってどうでもいいはずの「私」を周囲によって強烈に意識させられてきた、結果、過剰となった自分を周囲・社会が求める「型」に沿って削ったり殺したり/周囲から強いられたり殺されたりしてきたのではないか。無理矢理にオフィシャルな「何者かの型」へ自己を当てはめる必要に迫られて。

 

偶然、私はここ最近、真逆のケースをしこたま見ていた。youtubeで『令和の虎』や『キャリアコロシアム』を見まくってしまっていたのだ。健康に悪い。それらは、何物でもない若者、ことに男性が、ガチガチに型にはまった世界の「何者か」=成功者になろうとして、しばかれながら必死でコミットしようとする場、その反復であった。

彼らは序列、権威、経済的な強さといった総合的な「型」において圧倒的に無力で、足りない。人によっては人間としてヤバい。だが彼らがあるべき「型」にはまっていないのは、足りなさ、欠落や未熟さ、甘さ、ズレによるものだ。それを背伸びしたり胡麻化したり学びを得たりしながら、何物でもない人間が「型」を満たした上で圧倒的な存在になろうとする。

要は彼らには正解(成功)が存在、彼らは正解に向かうリニアな存在なのだ。

 

これはインベ作品のモデルらが既に「何者か」であり、外れ値にあったがゆえに、自分を一般的な「型」にフィットできない様と、相当に性質を異にする。彼女らは直線どころかまとまった繋がりの線すら本来は存在していない、とっちらかった語りの断片だったはずだ。彼女らの語りが活字・エッセイの形で流れを成しているのはインベの編集、執筆力によるものだ。

 

そういったことを得た。

 

こうした対比を絡めながらトークとインベ本を合わせていくと、現代社会を噛み締める角度が色々と得られて、おいしいですね。うまいうまい。

 



なお新著『なぜ名前に☆があるのか?』を読んで、私の仮説は当たっていたことが確認できた。インベカヲリ☆という作家は特定のイズムに止まらない、染まらないことが分かった。

 

『私の顔は誰も知らない』ではフェミニズムにかなり沿った論調があったのだが、それが客観的な、冷静な立ち位置で見ている現在地を知ることができた。

イズムもまた「型」である。

猫は型にはまらない。

 

 

( ´ - ` ) 完。