大規模回顧展を想像して観に行ったらかなり勝手が違ったので、本展示の特徴と、それゆえに浮かび上がった村上隆という作家の特徴、作品制作における姿勢などの気付きについてまとめる。
気温36~38℃の危険な猛暑、道を歩く人が著しく少なく、美術館前の広場は無人だった。太陽の光だけが乾いていた。
にもかかわらず展示会場は盛況だったので驚かされた。年齢層も、若者から中高年まで幅広かったので逆に傾向が難しい。見た目で言うと30~50代あたりがメインだっただろうか。
熱狂的混雑というわけでも、マニアックな層に限定された小規模な盛り上がりでもない。グローバルな著名アーティストの大きな展示イベントなので様々な層の人が観に来た(当然、村上隆のことはある程度知った上で)、という温度感だ。
1.展示構成:京都が中心
本展示は国内で8年ぶりとなる大規模個展(前回は2014年、森美術館「「村上隆の五百羅漢図展」)である。回顧展ではなく大多数が新作であり、かなり「京都」を演出・表現した作品・構成となっていた。
展示構成は以下の通り。
1.もののけ洛中郊外図
2.四神と六角螺旋堂
3.DOB往還記
4.風神雷神ワンダーランド
5.もののけ遊戯譚
6.五山くんと古都歳時記
(他、日本庭園、中央ホールに大型の立像作品あり)
3と5以外は全て京都関連である。
「4.風神雷神ワンダーランド」も、京都にゆかりのある古典的な絵師、琳派への腐海リスペクトと挑戦のコーナーとなっている。
逆に言うと、「京都」以外の展示は全体的にあっさりした紹介となっている。後述するが京都関連の主力作品に全力投球し、リソースの全てを割いていて、それすら間に合っていない状況のため、止むを得ないとしか言いようがない。
「3.DOB往還記」コーナーのみが、平面 × 日本古典絵画 × オタク・サブカル文化で一世風靡した「スーパーフラット」時代の過去作を特集していた。DOB君シリーズ、カイカイとキキ、パンダファミリーなど超・代表作が紹介されたが、それらも現在進行中の大型新作と絡めての展示で、どちらかというとかなりあっさりした紹介、企業のヒストリーコーナーのような置き方であった。
私は美術史・作家史に重きを置くので個人的にはここが一番観たかったところだ。村上隆の名をまず世界に知らしめ、オタク文化・サブカルとアートと日本史を結び付ける論法「スーパーフラット」を開発したところから、近年、特に「五百羅漢図」に象徴される東日本大震災以降の超大規模な作品制作との繋がりを確認したかったのだ。どうも私の中で「村上隆」像が、大きなプロジェクトの点々とした記憶しかなく、連続していない。
(いつも村上隆は自分が日本美術界に嫌われてるとか、逆に日本アート界はレベルが低い、みたいなことを言っていて、美術館側による体系的な語られ方・取り扱われ方を、拒否とまでは言わないまでも個として脱していこうとしているようでもあり、フラットな把握と理解がどうも難しい。)
「5.もののけ遊戯譚」は最新の動向として手掛けたアニメ作品やトレーディングカード、ゲームにおけるポップなキャラクターの絵やフィギュアが紹介された。スーパーフラットとサブカルの系譜が健在かつ現在の技術・プラットフォームに応じて発展中であることを示すコーナーである。
が、後に触れる入場特典や図録購入特典としてトレカを配布した件とのビジネス戦略的な関連も伺える。むちゃくちゃ好意的に見れば、トレカ配布を単なる客寄せではなく展示・作品鑑賞を美術館という権威的な枠からハンティング・個人所有・そして競りという無秩序さへ拡散させたとも言える。その折衷的な場としてショップでの比較的安価なトレーディングカード版画作品の販売(1点11万円から~)が付置されていた。
いずれも至ってシンプルな紹介である。
3.京都を舞台とした作品、「京都」というクライアント
京都へようこそ・おもてなし展であった。
京都で開催する大規模個展ゆえに、京都関連の作品(しかも超大型)で揃えて構成している。
入口すぐの「1.もののけ洛中郊外図」では、両側の壁に幅6.5m × 高さ3mの横長の絵《洛中洛外図屏風 岩佐又兵衛 rip》《村上隆版 祇園祭礼図》が対になって配置される。観客は長大な絵巻物的な屏風絵の世界、古典的な京都の世界を、目で追い指で追いながら辿り歩いていく。絵の中には「ウォーリーをさがせ」のように村上隆のキャラクターが紛れ込んでいるため、純粋に美学として鑑賞する眼を持たない層でも容易にアクセスし楽しむことができる。
むしろ観客の多くは私も含めて、絵のサイズとスペース・混雑との兼ね合いで視線が中へと取り込まれてしまい、ここで動員されている美術的な技術の量と質、価値が想像・理解できない、いわば美術館的な制度上での批評性が効かないため、そのようにテーマパーク的に振舞うしかなくなる。これも戦略だろうか?
続く「2.四神と六角螺旋堂」は本展示の最大の見どころである。部屋をまるごと作品の浮かび上がる暗闇の舞台装置としていて、四方の壁の東西南北に、巨大な絵画作品:青龍・白虎・朱雀・玄武を配置し、部屋の中央には柱《六角螺旋堂》が立てられ、京都の霊的空間の縮図としてみせた。
柱にはドクロがまとわりついていて、生と死の境がほぐれた霊的な場、サブカルと日本絵画と京都との境目がほぐれた舞台となっている。ここでも巨大さと明暗さと細部の描き込みの入れ子構造が巧みで、「京都」アートの壮大なテーマパークと化している。鑑賞者はゲームや漫画等で馴染みの四神を相手に対話し、様々な解釈、想像を繰り広げることになる。
また、「都」にドクロ=死が当たり前のように共存しているところは、7/26に開催されたパリオリンピック開会式の演出に華々しさ・リベラルさだけでなく歴史上の「血」や「死」が当然のように絡んでいたことを想起させた。都、国の文化・歴史が深ければ深いほど、死の影もまた深く共にあるのだ。
しかし村上隆ってそんなに京都関連の作品ってあったっけ? と思ったら、やはり今回の展示のために相当数を新規作成することになっていたようだ。これは後述する。
「京都」の場所性や歴史と本展示との関係、さらに日本画と京都との関連については、他の優れたライターや識者が既に筆を尽くしているのでここでは触れない。展示図録のテキストでは、橋本麻里「絵空事としての京都」が村上隆《洛中洛外図屏風 岩佐又兵衛 rip》が参照した「洛中洛外図」という画題について「京都」へ接続し論考していた。室町時代後期から江戸時代にかけて描かれた絵画作品を通じて、「京都」という都市の変遷:いかなる姿をし、いかなる権能を湛えた都市であったか、そして従来一つのものであった「都」がいつから「京の都」と区分されるようになったか、等を解き明かしている。皆さんも読んで京都の深みにはまりましょう。
このテキストが象徴的で面白いのは、村上隆の作品解説・読解ではなく、村上隆の作品を入口として「京都」なるものへと歴史的・空間的な厚みをもったアプローチを行っていることだ。これは本展示の特徴と方向性を共にしている。
展示全体、鑑賞者側の体感的なところをいうと、「京都 × 村上隆」のホスピタリティ、おもてなしの場作りが前面に出ていた。展示会場に入らずとも、美術館中央ホールに⾼さ約4.3mの《阿像》《吽像》が並び立ち、その背後の壁面全体に屏風絵のように桜の絵(無数の顔のついた花)が広がって、美術館に訪れた全ての人を村上ワールドで歓待し楽しませていた。
一事が万事、日本画と場所性を掛け合わせたスペクタクルな、過剰とも思える作品によって、村上隆のことも、アートのことも知らない人、例えば小さい子供でも楽しめるように、分かりやすい歓待に満ちていて、驚き、喜びを提供していることが伺えた。特に中央ホールは小さい子連れの記念写真の場となっていて、もはやパブリックアートとテーマパークの狭間ともいうべき状況だ。
特に最後の部屋「6.五山くんと古都歳時記」は、壁前面が金箔仕様で、《京都の舞妓さん アニメ風》、《2020 十三代目市川團十郎白猿 襲名十八番》、《五山送り火》などが並ぶ。作品サイズよりも屏風絵のフォーマット、金閣寺の意匠の拡張のような「金」の空間が主体になっていて、「京都」に配慮し「京都」を立てたキャラクター・作品がそこに並ぶ形となっていた。観客は「京都」に歓待されつつ、同時に名実ともに主役である「京都」の大きさを以って送り出される。
最初から最後まで、徹底して本展示は「京都」を主役として盛り立てる。いわば村上隆は「京都」という巨大なクライアントのために文化的・美術的エンターテイメントを執り行い、観客を動員してみせたという印象を受けた。
4.アートという経営
これに尽きる。
本展示は「アートは経営である」、ひいては「アーティストは経営者である」ことを痛感できる。
作品がやたらと大きいし新作ばかりなので、十分に凄いことは承知の上だが、私は日本画を描かないしそちらの分野の教育を受けていないので村上隆の絵師としての技術的な凄さは計りようがない。ましてや会社として組織ぐるみで大規模作品の制作に取り組んでいるとなると、印象派の画家がチューブ絵具を持参して戸外で風景を描いていたのとは前提からして違いすぎて想像できない。何なら平面だし工芸的だし、アニメっぽい絵柄だし、実の手数が図りづらい作風である。一人で描いているのではないようなので、逆に手間が省力化されているのではないかとすら勘違いしてしまう。
そうした誤解や無理解との戦いもすっかり長年の歴史と化しているためか、それはそれとして本当に納期の問題がどうにもならなかったためか、各展示室には美術館側が用意した小テーマ解説文のほかに、村上本人が手書きしたエッセイ風解説パネルも掲げられていて、本展示がいかに大変だったか、どこに具体的に苦労したかが語られている。これが告発の一歩手前のような内容で作品以上に興味をそそるものだった。
- 過去作の多くは海外の美術館・コレクターが所有しており輸送費や保険代の負担が非常に高額になるのを避けるため、美術館側のリクエストにより160点以上の新作を作成した(数m規模の巨大作品も1点と数えて)。
- 作品<四季 FUZIYAMA>はクライアントから受けたコミッションワーク(受注制作)で7年かけて取り組んでいるが、紆余曲折あって最高難易度のペインティングとなり今も未完成。しかし会期中には展示すると約束しているため出さないわけにはいかず、そんな割り切れない事情のため割り切れない素数を大量に並べた仮作品を提示中。
- 昨年11月のプレス会見後、展示開催費用が〇億円足りない(1,2億の規模ではない)と言われ、作品制作と同時並行で社をあげてふるさと納税制度を勉強するなど金策に追われた。
(※伏字は原文ママ)
ここまで身を切って血を流す、もとい銭という血が流れているところを見せてくる展示は例がない。苦境を訴えてクラウドファンディングで資金協力を募るといったレベルの話ではない。血だ。美術館の経営・売上のために奔走し、結果作品が間に合っていない。アーティスト残酷物語である。華やかな舞台の裏側では血へどを吐くような話があるものだと怖くなった。しかも駆け出しや中堅の作家ではない。恐らくアートを全く知らない人でもその名やキャラには覚えがあるだろう、トップクラスの著名人でこの苦労だ。恐ろしいとしか言えない。
(補足すると、依頼は強権的なものというより、デビュー当時から30年来の付き合いのある高橋信也氏のリクエストであり、京都の文化・歴史といった「京都文脈」へ村上隆を深く絡ませ、オリジナリティある展示を仕掛けようとし、村上がそれに乗った形でもあるので、一概には何とも言えない。が「予算も無いのに言いたいこと言って、本当迷惑だなぁ…とも思いました。」と書いているので、できるだけ好意的に受け止めてみせながらも実際むちゃくちゃなオーダーだったことは間違いない。)
関連する話題をひとつ。集客について。
展覧会初日、限定配布のトレーディングカード目当てに転売ヤー含む入場者が多数殺到し、列を抜かすわ警備員では埒が明かないわ警察は呼ばれるわで大混乱になったと報じられた。Xでは最初、「村上隆の展示初日は大行列、混乱」との報しか見えていなかったので、村上隆ってそんなに国内しかも関西で熱狂的な人気あったっけ???と謎すぎたのだが、トレカ配布するなら、そらそうなるわと納得。
アリの群れを蜜で呼んでいるに等しい。だが次の疑問が湧く。レアなトレカを配れば転売ヤーがアートそっちのけで集結し混乱するのは、美術館側も誰でも予測できただろうのに、なぜそんな見えている地雷を踏みに行ったのか・・・?
これは本人の策略だったようだ。
Youtubeを見ていたら偶然、「山田玲司のヤングサンデー」ヤンサンメンバーが村上隆本人と本展示を回ってトークする回を見たのだが、序盤から村上隆本人が事情を語っている。
本人によれば、美術館側から入場者数の動員目標20万人を求められたので、ではトレカを配って集客しましょうということで、初日の3日で3万人を達成したという。美術館側の要請をそのまま受けて、それで目標に達しなければ、あの作家は集客できないという評価になるだろう。それを裏返し、手段を尖らせてまず数字を取りに行った(作品の鑑賞・理解はその後でも良い!)ところに、ただならぬ経営者の身体性を感じた。
経営者の身体性。
展示、文章の随所に、集客や出費など経済性への意識と、そしてクライアントの存在、顧客サービスの意識が強く表されている。作家としての表現意図や作品テーマといった美術的な要素よりも、とにかく集客、顧客、経済性が色濃く伝わってきた。私がどっぷり社会人をやっているせいもあるだろうが、しかし通常の美術館の展示とは根底で前提が異なっている。
普通の美術館の展示では、アーティストの具体的な苦労を、制作上のエピソードや文脈として紹介はしても、前面には出さない。ことに展示に係る経済的な事情は展示企画自体の権力性や搾取への告発を帯び、企画がそもそも破綻してるやんとなるので出されるはずもない。それらが作品と等価に提示されている点で、類希な展示であった。
村上隆に限って言えば、「GEISAI 」などの活動、海外のアート市場で「勝つ」ことを語った著作やインタビュー記事、日頃の言動等々を知っていれば何も疑問でもないだろうが、「美術館での大規模個展」から期待・イメージされるものと根っこのかなり異なるプロジェクトであることはとかく印象に残った。
5.実際間に合ってない。
ないのだ。
冒頭のメッセージで「オープニングその日から徐々に五月雨式に展示している作品とは別班で製作し完成したら取り替えていく、という特殊な展覧会形式になってしまいました。」とある通り、非常に変則的な展示となっている。
私が訪れたのが7/28だったので、ほぼ作品は出揃っていたと思うが、それでもまだ一部の大型作品は完成待ちとなっていた。というか目録すらもらえていないので、何が暫定仮置きで何が入れ替えでどこまでが展示完了となっていたのか、よく分からない。
7/2時点での美術館Webサイト「お詫びとお知らせ」では、当初からの新作展示公開時期アナウンスから変更(延期)があったことが分かる。
後出し作品の点数がやたら多い。もう7月なんですけどね。
2/3から会期スタートしているのにこれだけの数が完成待ちだったとすれば、プレス内覧会時点ではスカスカだったのではないか。14点もの作品が会期スタートから半年近くも遅れて納品されてくるのはやや異常な気がする。
先述のとおり、海外の美術館やコレクターの手に渡っている村上隆の作品を交渉して保険をかけて日本へ輸送するとなると、莫大なコストがかかるため、美術館の求めに応じて新作を作るよう無茶な依頼をされたということで、確かに鑑賞していて、やたらと展示ラベルの制作年が「2023-2024」となっている作品が多いのが気になっていた。「3.DOB往還記」コーナー、スーパーフラット期の著名な過去作品すら制作年がそうなっていて、まさかと思ったが本当に作り直していたようだ。信じられない作業量である。カイカイキキ社は採算とれているのだろうか。まあ作った分売れる見込みがあるから作ってるんだろうけれども。
本展示が回顧展の立て付けになっていないのは、「京都ファースト」としてのクライアント目線の事業であるだけでなく、そもそもリアルな「過去作」を展示できないという経済的・構造的な事情があったのだ。
間に合ってなさが堂々としていて、こうした事情や、美術館という圧倒的に強い存在に対して「経営者」アーティスト個人が文句を言いながらも無理やり折り合いをつけて「展示」を成立させている、そういうアートビジネス(政治?)の構図が「展示」されているので、こちらとしては別に作品展示が遅れようが、仮のまま会期を終えようが、あまり不満はない。
先に紹介した《四季 FUZIYAMA》は「割り切れない事情があり制作が間に合わないので素数を書いた仮の作品を提示します」と割り切っているので逆にスリリングだし、5桁にも及ぶ素数が絵に乗っているのもデジタルな旨味があって面白い。逆境を見せ場に転じてみせる手腕がとにかくすごい。どこまでがガチなのか演出なのか分からなくなる。その点も含めてプロの経営者の手腕を感じた。
6.図録・目録の件(おこ)
間に合っていないのは展示の図録(カタログ)・目録も同様である。
図録・目録についてはXでも恨みつらみを投稿させていただいた。
まず展示目録。前述のとおり展示される作品が流動的なためか、会場にも美術館ホームページにも展示目録がない。ブログを書いていて非常に困った。会場は全点写真撮影OKでありがたかったが、観客が途切れないため全ての作品ラベルを撮影するわけにもいかず、撮影したところでどこに何という名前の作品があるのか、正式名称は何か、体系的に確認するのは困難である。とにかく非常に面倒だった。
次に図録。
別の展示を観るため6/1に美術館に来た際、物販にて図録がWebから注文できるとPOPでアナウンスがなされていた。販売サイトでは「図録は受注制作になります」とあり、なら事前に申し込まないとだめだなと思ったのだが、全然そういう意味ではなくて7/28鑑賞時には2つの物販コーナーともに平積みになっており、複雑な気持ちになった。あるやん。めっちゃあるし。
しかも届いたのは結局8月に入ってからだった。送料700円オンして定価購入した私の目の前で、半値近い値段でメルカリ・ヤフオクに図録がどんどん放流されているんですけど… これはまたしてもトレーディングカード同封で税込6600円という商法だったため、トレカだけ抜き取られた図録が安くで捨て売りされたためだ。
どう考えても4千円台の内容で、しかし紙質、表紙が無駄に豪華で、重くて分厚くてページをめくりにくく調べ辛い。重い。何なんだこれは。
そもそも4/26の時点で「4月下旬・4千円ぐらいで販売開始とアナウンスしてたけど、内容充実させて、カタログ限定トレカもつけて、7月中旬に6600円販売に改定します」とお知らせ発表がなされていた。
やはり4千円台だったか!
いやトレカの分を値引いてくれ。トレカ抜きで4千円台で転売されている現状況こそが実勢価格として正しく、皮肉であった。
とにかく数を売って成果を出し、稼がねばならない事情があったとはいえ、これはもう図録としての意味がどこまであるのか疑問だ。頑丈な作りなのは保存する上で助かりますけども。
しかし7月時点で体系的な情報がまとめられていなかったならば、1~2月の展示開幕時点で取材していた各種メディアは美術館・作家側のセールストークをそのまま転用するしかなかったのではないか。批評も分析もしようがない。まあアートのプレスは大体「宣伝」、イベントを華々しく持ち上げてみんなで「上げていく」性質のものだから、思考は事後的に遅れてやっていくしかない。
まあ手元に図録も来たのでいいです。
6.まとめ(おかわりする?)
作品が追加されていることを考えると、会期前半に観に来た人は8月中におかわりしても良いのではないか。逆に2~3月の開幕当初がどういう状況だったのか知りたいぐらいだ。
ポップな絵柄で文字通り平面的な作風で、見る側を楽しませ、「京都」の凄さを伝える作品のため、解説等で書かれている技術的な凄さや労力が目で見ても分からない。よくある現代美術的なメタの問い掛けがなく(掘り下げれば沢山あるがお客様の前で無粋なことをしない作りになっている)、社会・国際問題やリベラルな問題提起、資本主義やマジョリティへの異議申し立てetcという問い掛け・説教がない(掘り下げればそもそもアメリカが日本に原爆を落として占領したところから始まるし、アート市場や美術館制度の話に繋がるので全く無害なものでもないのだが、一般の客にリベラル説教をするような作品にはなっていない)ため、複数回行って作品と問答するということはないかもしれない。
やるとすれば1回目には表面上のエンタメ的な部分を楽しみ、2回目は経営者、商人としていかに美術館、観客、そして「京都」を繋ぎ合わせて場を作ったか、その場を「成功」とするために経済的な集客と売り上げをいかにして立てる戦略を組み上げているかを見るのが良いと思う。公的施設:図書館も病院も美術館も、経営が成り立たなければ潰れる時代、アーティストも、売れる・人を呼べることが第一の正義なのだということを教えてくれるだろう。皮肉な意味ではなく冷徹な事実として。
そんなわけで、アーティストとして活躍したい、でかいキャリアを得て規模の大きな活躍をしたいと思っている人にとっては、本展示は書籍で読む以上の実体験としての学びを得られる好機なので、よく見ておいた方が良いだろう。アーティストは、たいへんや。
( ´ - ` )完。