nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】R6.6/12-30_宮木亜菜「赤いからだ」@enoco(江之子島文化芸術創造センター)

「身体を彫刻とした作品」と言えば一言で済むのだが、その分かりやすい言葉を掘り下げて、意味の三次元的な膨らみを求めてみたい。

 

 

作者はアスリートではない。が、自己の身体を力で試す写真とその際に用いた椅子や机が並ぶ会場は、アスリートの訓練場のようでもある。体が重り(おそらく粘土を捏ねた塊)の負荷と引き合い拮抗する姿が作品の肝となっている。

だがアスリートとの決定的な違いが何点もある。まず勝敗が存在しないこと。すなわち評価そのものが存在せず、石の重みに耐えることで得られるものは評価されない。よって行為を経て得られる目的・ゴールがないということは、これらはトレーニングではなく、発展や上昇も目的としていない行為と言える。

 

逆に、重りの重量に耐えている肉体を見ることが本作の意義になるが、耐えて得られるものがあるわけではなく、物理的な力に直接晒され、力を伝える紐によって五体の様々な部位が変形する様が提示されている。

勝敗も到達点もない、肉の変形するところを見なければならない。紐が肉を締め付ける、肉を寄せる、腕や腹や腿や首・頭が姿形を変える、締め上げられて普段見ているのと異なる姿を見せる。どれも不自然な凹凸や膨らみ、偏りを帯びているが、どれも一個の肉体が見せる姿の一つである。

 

一人の人間が有する一個の肉体について、各部位が持つ量と質と形の値が持つ範囲を探ること。限りなく固定的でありながら変数としての幅を持つ肉体について、重量物を量りのように用いつつ試していく行為が、普段の安定した、内実を隠蔽された身体を削いで、真相を暴いていく。ここに彫刻性がある。

 

どこに向かって作者は彫刻を行うのか?

 

肉を縛り、引き合う重りが、粘土の塊であることが、通常の彫塑と逆になっていて面白い。

粘土を骨格となる芯へと文字通り「肉付け」しながら、削ったりならしたりして整形していくのが通常の工程なら、本作ではオブジェの肉であるはずの粘土によって、作者の体の肉は削がれ、その内にある骨格・筋肉のラインに肉薄されてゆき、真の「形」へと迫られていく。逆説の彫塑という彫刻行為。

 

更に輪をかけて、行為主体と行為の対象とが同一(作者)であるという点も、不可解な謎を残す。

作者は自己同一性や自己表現のためにではなく、主体化あるいは主題化せざるを得ない「身体」と「私」の分断や距離感があり、そしてそれは平時は均されていて表面化していないのではないか。

 

まず思いつくのは以下のような問いだ。女性の身体が男性目線によって支配されていること、それを内在化しきった社会から女性自身の固有の身体性を取り戻すための、フェミニズムによる抗議的エクササイズなのだろうか? だがそう読みきってしまうのは早計であろう。別室に並ぶ多くの粘土細工とデッサンが、本作がイズムよりももっと明快に純度の高い彫塑・彫刻行為であることを告げている。

作者は実に即物的に彫刻になりきっており、彫刻をやっている。そこにはイズムの運動よりも強い透明な力が働く。

 

とはいえ考えのきっかけにはなる。提示されている写真を目にして、無意識の反射的において期待すること、見てしまうもの、そして違和感などが少なからずとも生じるからだ。

衣服から一部の肌を露出した若い女性の肉、そこにフェティッシュさを契機として性的なイメージの衝動が発火しうるかもしれないという問いの賭けが一秒未満の刹那に起こる。それは徹底された彫刻的振る舞いと全体の文脈によって強い抑制が効いているため火を灯さない。(無論、アートの文脈や磁場を解さない者にとってはその限りではないだろうが)

 

性的さの審問を潜り抜けた次にあるのは、審美的な審問である。

紐、重力で幾ら肉を選り分けても出てこないのが、理想的身体のイメージなのだった。あらゆるメディアを通じて、グラビアや広告やファッション、スポーツ、ポルノも含めて標榜され、供給され、植え付けられたイメージ。私達が生きている間のほとんどの時間、視覚に与えられ続けてきた理想的プロポーション、質感と形状とは、本作で提示される肉体は、微妙に、確実に、個別具体的にかけ離れている。

当たり前のことだが、一部の職種を除いて、一般人の肉体は、不特定多数の他者に晒されることを前提としていない。服を着た状態でならいざ知らず、その下にある裸体はむしろ、不特定多数の人間の眼(=欲望、要望・要請)に応える義務(暴力性)から保護されている。それはパフォーマンスを作品の一部に取り込む作者にとっても同様である。

理想的なプロポーションを期待しそこに見ようとしてしまう「私」と、逆説的彫塑によって様々な形態を試しながらどの局面においても個別具体的にズレを明らかにしてゆく 作者の肉体とが、明白に出会う場が、この展示なのだった。

 

作者が粘土の重りによって逆説的に彫塑・彫刻してみせるのは、社会に広く共有された逃れ難き理想的身体プロポーションの欲望やスローガンとしてのイメージと、同じく逃れ難く私的に固有の物理的肉体との間にある距離である。肉の歪みや肉が重量に耐えていることによって可視化される。

もっと言うと、一見目的・目標の不明な「耐え」によって、前者の力によって評価・査定されることから肉体を逃れさせ、解除する。

 

更に、「身体」が及ぶ範囲は肉や骨格だけでなく、身体と一体のものとして利用される机や椅子といった日常生活の備品も含まれよう。肉体を特権的に、美的に切り出して扱うのではなく、生活上「身体」として定義されうるミニマルな領域を含めて「試す」行為、どれだけそれがどういった物性を持つものかを、じわじわと力を加えて「耐え」させることが、本作で重要となっている。恐らく手作りの机と椅子が必ず写真では肉体とセットになっているのはそのためだろう。

 

美化しないこと。美的なスローガンやリクエストや欲望からいかに解除されたところで肉体について可能性と実体を語るのか。恐らくは作者にすら内在化されているであろうそれらを引き離したところの在り様を見せること。本作はそうした試みであった。見た目には停止しているが、物理的な力は働き続けており、それを押し留める制動の力によって能動的な問いを試みるから、本作は彫刻的なのであろう。

 

作者の肉体の「耐え」が彫刻の制動力を発揮し、美しいか醜いか審美の判定は無効化される。そもそも当たり前の共通言語のようにして所与のものであるはずの理想的身体イメージが、最初の前提から破綻していて有効ではないことを、物理的に告げられていくかのような展示なのだった。そして、所与の、個別具体的な肉体をそこに見る。

 

 

( ◜◡゜) 完。