「BALL GAG(ボール・ギャグ)」、一体何者なのか、性別もグループなのかも分からない名義のアーティスト。そして展示も得体が知れない。写真? 彫刻?
「KYOTOGRAPHIE」シーズンに「KG+」枠で催された個展「Hype(Loop)Core」と、同時に展開された個展「Drago(Loop)Core」をレポ。
アーティスト名からして謎すぎるし、グループなのか個人なのかすら分からない。和名「猿ぐつわ」氏? 謎である。(※個人です)
作品ジャンルも不明である。
展示を見て純粋にその感触だけを元手に感想と気付きをしたためようと思っていたが、作者とBnA Alter Museum展示企画者・筒井一隆氏とのトーク(インスタライブ)を聴いてみると、制作趣旨や世界観が私の想像と全く異なる層にあったので、改めて捉え直すのに時間を要してしまった。
ひとえに言語体系が異なるためだ。
展示全体の趣旨や意味は掴み難く、ステートメントを読んでもうまく理解ができない。だが個別具体的なヴィジュアルイメージとしては分からないものではない。つまり作品の単語は分かるが、言語体系としては私のベースにあるものと大きく異なっているらしい。言語処理エンジンの作りが異なるのだ。
私は当初、この二つの展示を別々のものと捉えていた。「Drago(Loop)Core」はインテリア・静物的な、生活上のインナーに有するサブカル × ゴシック的な感性を具現化した作品として。対する「Hype(Loop)Core」は全裸の人物が森に大挙している、しかしデジタル加工のエフェクトが強く刻まれていることから、ヒト個人と自然とデジタルを結び付けた(もちろんデジタル世界に過度に寄った個人の演技的な自己を扱った)作品、という粗い解釈を持っていた。
だが作者の語りを聴いていると、そもそも「作品・展示と主題や意味が一対一で対応する」構造ではない気がしてきた。「主題や意味を表すために作品や展示がある」という作品前提主義(作品至上主義とも)の言語ではないのかもしれない。
逆に本作は、私達を取り巻くインターネット環境と自己・内面との相互作用を参照して、作者が組み上げた言語エンジンの出力結果としてのヴィジュアルなのではないか。
作者の個人的な作家性としての制作意図や美意識、技術から発してまたそこに帰結する表現というよりも、インターネットを介したインタラクティブな情報・感性インフラと、それらの一部となって駆動している自己について、それらをそう足らしめている演算の過程~結果が提示されている。そのように解釈した。
このことは、2つの展示タイトルが「〇〇(△△)コア」と揃っていることにも通じている。「〇〇コア」はインターネットミーム、トレンドである。代表例として2019年頃からTikTokで流行を始め。2020年の新型コロナ禍で更に広まった「ゴブリンコア」が言及されていた。
個人的な興味・関心への傾倒がSNS、ハッシュタグを通じて大きな共感のコミュニティ、トレンドへと繋がる「〇〇コア」。個人から純粋に発せられる嗜好や美学であるように見えて、実はそれらはインターネット(グローバル企業、AI等)に学習されて読み取られており、そして知らないうちに学習成果によって囲い込まれている。つまり本人のオリジナルな世界観というよりも、既存のコミュニティ、著名人のノリやセンスがエコーされて出来上がった類型の一種である。枝分かれ細分化したコミュニティと同義かもしれない。
こういう感じで結論も答えもないが、手探りで2つの展示について触れてみたい。
◆R6.4/4-6/9「Hype(Loop)Core」@BnA Alter Museum
アートホテル「BnA Alter Museum」エントランスすぐ右手に大きな集団ヌードの写真が掲げられている。これは同時開催中のグループ展「AIR3 SCG」と隣接し、特に明確な区分のないままBALL GAG作品が続いていくので、BALL GAG作品について(として)考えるよりも、まず二つの展示企画の区分・区別について混乱している。通常の整然とした作品・展示の読解を許さない混成的な空間に楽しみつつ戸惑う。本作は最初から「正しく」形式的権威的に読まれることを是としていない。逃れゆく。
この困難さ・逃れは本作に始終付きまとう。
「Hype(Loop)Core」には分かりやすい意味を伴わない。よく作家が扱うような「自己」や「他者」、「性差」「身体性」「マイノリティ」「政治性・権力性」、あるいは美術や写真史、文法に対するメタな言及・・・といったお馴染みのテーマは標榜されていない。
本作はまさにそれらと異なる領域に展開している。
大伸ばしの複数体でのセルフヌード(恐らく作者自身による演出と合成)は、どの人物も顔が不明瞭で、生白い肢体を晒して、スニーカーだけを履いている。森、自然と溶け込もうとしているのか、逃げ出そうというのか、徹底的に戯れているのか。
ヌードの人物像は、「ヌード写真」と呼ぶにはあまりに貧相で、美的な意味をほぼ持たない。美術・写真史的な文脈を突き放して、私達の現実の身体とダイレクトにリンクする。白くて、肉付きが良いわけでもなく、無防備で、後ろめたくすらある身体。
私達の日常を顧みてみる。スマホ・PC、SNS、LINE、ソシャゲやオンラインゲーム等の利用においては、店の看板、第二・第三・第四…の「自分」として作り上げたアカウント毎のプロフ写真と紹介文で増殖している。ゲームキャラクターの育成も同様だ。Instagramの投稿を揃えて演出していくのも同じと言える。アイコン化、バ美肉、ボイチェンを駆使せずとも「自分」を作出し増殖させていくのは誰もが無自覚に実践しているところだ。
本作にまろび出た裸体は、Web画面上で加工エフェクトが剥がれてしまった際の、放送事故的な、低品質な生の顔と体を想起させる。どちらがリアルなのか? 白く幽霊のような裸体は物理とWebのどちらに所属しているのか? 最も物理的なはずの裸体・肉は、ジムに通ったりマリンスポーツでもしていない限り、むしろ物理世界でこそ出番がなく、そのビジュアルはデジタルの産物(ポルノや衝撃・事故映像などでお馴染みの)に近いとも言える。居場所のない異物のように画面内をうろつく裸は、亡霊とも呼べる。
その裸体群と対概念と言えるのが、多くの写真に写りこんでいる服を着た人物だ。写真の多くでは、スマホやノートPCを手にし、部屋や森の中に現れる。仮に服を着てデバイス操作する人物を核となるオリジナルの人格:インターネットに接続して「私」を管理運営する主体とするならば、裸体の方はまさに亡霊的に無重力的にそこにいる。それらはログイン(受肉)を待機している各種アカウント(=虚ろな器)と言え、ログインされるまでは亡霊的に漂う。
ここでの森はオンラインゲームのようにインターネット世界を物理側に逆転させた世界なのだろうか。
だがインターネット上のアカウントズのどれかに接続・受肉することで初めて、服を着た核となる主体もまた一人の人格を持つことができるようになる。デバイス操作者が人の姿をしていられるのは その意味で主従関係はないかもしれない。
1Fの一番奥にある大伸ばしの2枚は、物理社会側とWeb側との並行する2世界を、私達は同時並行で生きている様を示しているとも考えられる。ログインすることであるアカウントが受肉しWeb「コア」の世界に生き、ログインと操作を通じて物理社会側も一部Webと重ね合わせ状態になっている(Web内での振る舞い、行動の結果は現実にリアルタイムで影響する)。
私達はWeb内にアクセスしログインしているのか。Webアカウントにログインすることで「物理現実社会」に真にログインしプレイすることになるのか。『攻殻機動隊』のような密接不可分の重ね合わせの世界を、サイバーパンクではなく身近な素材と自身の肉体で実演してみせたのが本作ではないだろうか。
◆R6.4/4-22「Drago(Loop)Core」@京都 蔦屋書店
京都蔦屋書店で同時期に(もっと短期間だが)催されたもう一つの個展「Drago(Loop)Core」では、ある架空のコレクターによるコレクションを陳列するという構成になっている。
ぶっちゃけ「Hype(Loop)Core」側と何がどう連動・関連しているかを感じ取り、掴んで理解するのは困難だったが、それは「〇〇コア」なるWeb・SNS界隈におけるコミュニティ的な美意識と、個人の生活環境と愛好精神とがスパイラルに連続し同期している状況を踏まえる必要があるだろう。つまり作品やWebを突き放して見るのではなく、もっとWebと密接な身体・生活感覚を有したインターネットネイティヴの立場に立つ必要がある。
コレクター、愛好家は身の回りを自分の愛するもので蒐集し固める、その美意識はどこから来てどういう形をとるのか。「Drago core」(ドラゴンコア)が、先述の「ゴブリンコア」を更に加速させた仮想インターネットミームとして、空想上の怪物そのものである「竜」へと過剰に肥大・加速された美学を体現する。誇大で、偏執的で、妄想の、しかしそういう共通のセンス・コミュニティへ接続して得られた世界観として。
左側の鏡は、鏡文字が刻まれていて、「Nothing happens」とある。右側の鏡は反転しておらず、多くの文字は不明瞭で読めないが、大きく書かれた「scared」や「BUT THE SAME MAN」の文字や人の顔、怪物の口・牙らしきものが見える。意味は全く分からないが象徴性の強さ、何か神秘的なものへの傾倒が見られる。
この鏡は個展「Hype(Loop)Core」側にも掲げられていて、こちら「Drago core」側:コレクターの「コア」世界=物理現実生活の世界に、Web世界のエッセンスを流し込んで反映させた次元と、あちら「Hype Core」側:ログイン者として「コア」世界の森へと常時接続的に入り込んでゆくという、物理現実を取り込んだWeb世界の次元、その二つをループ的に接続するものと考えることができる。
大きく描かれる竜は自らの尾を咥えたウロボロスの姿で、これまた象徴性・神秘性が高く、文字通り環のごとく完結した円環世界にあることを示している。私達は二つの次元を間断なく、もはや意識もなく、円環的に狂ったように行き来している。自らの身を亡ぼすようにして生きている…
( ´ -`)ノ 完。