nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KYOTOGRAPHIE 2023】R5.4/15~5/14_本体プログラム15個全体を通じて(後編)

「KYOTOGRAPHIE 2023」メインプログラムをテーマタイトル「BORDER(ボーダー)」から読み解く後編。

続いては「作品テーマ、被写体にまつわるボーダー」へのアプローチ・取り組みの面からKYOTOGRAPHIEを振り返ってみる。

 

(前編:「1.展示形態、モチーフの物的形態におけるボーダー」)

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2.作品テーマ、被写体にまつわるボーダー

続いて、作品の主題や被写体において「ボーダー」を扱い・問うものを挙げたい。以下の分類は私の個人的な気付きから試みたものだが、詳細な背景や意図が解説パネルとガイドブックで言及されていることに加え、名うての実力ある作家とキュレーターが組んで展開しているので、作品・作者の意図から大きく外れた解釈に至ることはまずないだろう。解釈は自由でありながらも、大いなる射程圏内にあると言えよう。

また、実際には一つの作品が細分化された単一のテーマを扱っているわけではなく、テーマは複数の事象や問題に幅広く及ぶため、各作品のメッセージや要点についてどう力点を置いて読むかは個人に委ねられている。以下の分類もあくまで一つの目安に過ぎない。

 

① 人種・民族のボーダー

「ボーダー」という言葉からまず思い浮かべるであろうものが、人種や民族といった、人間にまつわる領域・線引きだろう。埋められない溝、深まる対立、燃え上がる痛ましい事件、差別や搾取の構造・・・ ニュースやTwitterで見聞きしない日はない。それでも、理解や解決に向けた努力は続いてゆく。写真を始めとする「表現」は、その断絶や無理解、あるいは認知できないというボーダーを認識し、越境するために機能する。

 

▪【09】高木由利子「PARALLEL WORLD」@二条城 二の丸御殿 台所・御清所

今回のKYOTOGRAPHIEで質・量ともに最大級の展示である。二条城「台所・御清所」の5室、アート展示スペースとして定番の大きな空間をフルに使い、高木由利子の「美」の仕事を振り返る大規模個展の様相を呈していた。

高木はファッションデザイナーであり、ファッションフォトグラファーとして長年活躍してきたが、私はファッション界隈に疎かったためその名を今回初めて知ることになった。いや、関東圏の人間だったなら東京都現代美術館で開催中の「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ」展(R4.12/21~R5.5/28)で高木の名を先に知ることになっただろうが。今年は日本列島の東・西で高木由利子の当たり年だったのだ。

 

展示はタイトルに「parallel」とある通り、二つの世界から構成されている。一つは洗練と先鋭を極めるファッション界でのファッション写真の仕事、もう一つは日常的に民族衣装を着ている12ヵ国の人達を撮影した<Threads of Beauty>シリーズである。後者は1998年、生活様式の変化などから民族衣装を着る人々が急速に消えゆくことに、高木が危機感を抱いて取り組み始めたものだ。高木は両者に同じ「装い」としての「美」を見い出しており、後者:伝統的な民族衣装が前者のデザイナーやクリエイターにインスピレーションを与えることの重要性を語っている。

しかしタイトルパラレルワールドとは本質を突いている。クリエイティブな業界における最新・洗練のファッションと、伝統的な土着の生活における民族衣装とはまさにパラレル=「平行」、直接に対等には干渉せず、交わることがない。前者が後者にインスパイアされ一方的に参照する――しばしば文化盗用と批判されもすることはあっても、後者から対等にアプローチすることは不可能である。西欧先進国の文明と資本の圧倒的な強さの断崖が横たわっているのは言うまでもない。

その分断された領域を、高木は写真家というニュートラルな立場で行き来し、写真という手段で接続する。本展示が二つの世界へ自由に行き来できるゲートウェイとなることを期待しているが、高木自身がまさにその役割を担うべく活動してきたことは明らかだ。

しかし写真を見れば見るほど、民族衣装からのインスパイア、世界各地の民族と風土のポテンシャル、それらへのリスペクトは勿論感じつつも、超絶技巧と洗練を極めるモードの世界は何をどう解釈しても、世界各地のネイティブな生活者とは隔絶された次元にある。

モードの世界は人口の月面のようだ。カメラの先には写真的な真空状態が広がっていて、そこに立つことができるのは、カメラの前で息を、心拍を止めたまま動くことのできる超越者のみだ。民族や人種のボーダーを越えた先にあった世界とは、まさにパラレルの亜空間だった。現在、ファッション界に起きている種々の批判や改善のムーヴは、高木が繋ごうとしてきた「パラレル」に対する問い直しそのものなのかもしれない。

 

▪【13】デニス・モリス(Dennis Morris)「Coloerd Black」

最初、完全にジャマイカで撮られた写真と勘違いしたが、イーストロンドンなのだという。1960~70年代に英国へ移住したジャマイカ系イギリス移民たちの、生活苦や黒人差別と戦いながらの暮らしとプライドの写真である。

第二次世界大戦後の英国は復興に必要な人材を集めるためカリブ海諸国に移住を呼びかけ、1940年代末から70年代初頭にかけて黒人たちが英国へと移り住んだ。モリス自身、幼少期に母親に連れられて移住したジャマイカ系イギリス人である。9歳から写真を始め、1974年・13の頃にボブ・マーリーの初の全英ツアーに同行し、その後も様々な著名ミュージシャンの撮影を行い、1977年にはセックス・ピストルズの公式フォトグラファーとなった伝説的な人物で、会場冒頭に展示された文字入りのカラフルなデザイン風写真はそのバックグラウンドを象徴している。

 

しかし本作の主体は庶民、地元民へ注がれた眼差しである。写真は全て人物で、プライドの写真と呼んだのは、そこには不条理や不利に抗い、戦う者たちの誇らしげな姿が写っているためだ。展示は、冒頭のデザイン的な写真、典型的なカリブ移民の生活の写真、そして「フロントルーム」・居間と撮影スタジオの再現空間と関連作品から構成されている。写真からジャマイカ本国の暮らしを写したものと見紛ったのは、まさに写真には英国というより、カリブ系ブラックの暮らしと文化が力強く写されていたからだ。

タイトル「Colored Black」には葛藤と抵抗が込められている。「カラード(有色人種)」とひとまとめに呼ばれることを避け、独自の文化とアイデンティティーを持った存在=「ブラック」を自任していく歴史があった。前向きで誇らしげな姿ばかりなので逆に背景が読み取れない部分も多いのだが、解説を聞いたり読んだりしたところ、やはり相当に人種差別や経済的苦労があったことが知れた。しかしそれを感じさせない、跳ねのけてゆく力に満ちていて、英国の中であくまで「ブラック」の文化を保って生きていく自負が見える。人種や国境というボーダーとの、暮らしの中での格闘を感じさせる作品である。

 

 

② 世代、年齢のボーダー

世代や年齢は確実に大きな境界、壁となる。Web、SNSで誰もが誰もと接続され、アクセスし合えるようになればなるほど、SNSサービスの細分化やユーザー属性に最適化された検索結果とおすすめ表示が行き届けばそれだけ、世代間の断絶、分離は深まる。特に自分よりも若い世代について交わる、知る機会を得ることは難しい。本KGでは異なる世代へと積極的にアクセスする作品が見られた。

 

▪【05】石内都・頭山ゆう紀「透視する窓辺」

KGでは珍しい2人展の形態である。

「次代の女性写真家を指名して、2人展を企画してほしい」とKG側から石内都に依頼があり、石内は頭山を「この人しかいない」と指名した。

頭山は2002年の石内のワークショップに参加した。その時の作品は石内の記憶に残っていなかったというが、2006年「ひとつぼ展」で頭山の作品が最終選考に残った際に、審査委員を務めた石内が改めて面識を持ったことが関係の始まりだったという。

本展示は、昨年度KGの「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」と同様に、ケリングの「ウーマン・イン・モーション」支援企画である。女性2人展ということやそのテーマからも、「性別・性差(女性)というボーダー」に関わる作品と捉えるのが自然だろう。実際、二人の対談では「女性の写真家として歴史を刻む」とサブタイトルが振られている箇所がある。

 

だがこの2人展の重要なポイントは、石内都という日本写真界を代表する超ベテランが、親子ほど年の離れた頭山を「地味な場所で息をひそめるようにして、写真を発表していた」と目をかけ、指名したことにあるのではないか。異なる世代の表現に、相通ずる普遍的なものを認め、バトンを渡す場を設けたのだ。

二人の作品は違和感なく場に連続し、調和している。二人の作風・撮り方こそ違えど、テーマ性において確かに両者は共通しているからだ。石内は自身の母親の遺品を撮った<Mother's>から、頭山は友人の死を経て撮った<境界線13>と、祖母の介護から死まで、そして母親との急な死別を経て撮った新作からセレクトされている。両者ともが親や祖父母というそれぞれにとっての上の世代との関係性と喪失について扱った作品である。

直接には本人を写してはいない。だが石内は窓にトレーシングペーパーを貼って、庭からの光を取り込んで遺品を撮り、頭山は祖母の介護中にその家の窓から庭を撮った。タイトル「透視する窓辺」とはそうした個人的風景のうちから様々な境界を越えてゆく眼差しのことを意味するだろう。

そしてそれは異なる世代、自分より上の世代の存在について受け止める行為でもある。

親や祖父母のことを理解できるのか、寄り添えるのか、どんな距離感にあるのか。その生死をどう受け止めるのか。ある個人が個人として生きることに、その日常に、身近な他者―多くの場合は親など上の世代の生と死が、深く関わっていることを2人の作品は物語る。

 

▪【10】ココ・カピタン(Coco Capitān)「Ookini」@ASPHODEL

タイトル「Ookini」はそのまま関西弁「おおきに」(ありがとうの意、京都弁の代表格。なお大阪弁でも使われている)で、作者が撮影協力者となった若者らにいつも感謝を伝えるのに使っていた言葉である。

会場の1~3階では2ヶ月間の京都滞在中に撮った10代の若者が系統立てて整理されている。1階:ストリート、スケボー。2階:制服姿の学校の生徒、学内の様子や部活。3階:日本の伝統的な領域:禅寺で修行する見習い僧、舞妓、狂言師、人形師、茶道など。

それぞれの写真は緩やかに撮られているが分類に基づいて提示されているため、展示全体で大きな卒業アルバムという印象を持った。特に2階の展示は学生服で学園生活の記録 卒業アルバムそのものだ。

実質的には日本のティーンエイジャーが所属する「学校」「学生」についてのフィールドワークであり、どういった形で伝統文化/ストリートに身を置いているかの観察とも言えそうだが、「標本的」とまで形容するにはフレンドリーで柔和である。バランス感が絶妙だが、それは日本人の性質も影響しているかもしれない。インタビューの言葉が興味深い。

日本で2カ月過ごしてみて、「ああ、これは礼儀正しさではなく、感情を表に出さなかったり、特定のテーマについては議論をしないだけなんだ」ということにも気づきました。私は日本の人々が実際には何を思っているのかわかりませんでしたし、かれらは思っていたほどオープンではありませんでした。

これは被写体となった若者らだけでなく、関わった日本人全てに対する感想でもあろう。つまり前項「人種・民族のボーダー」としても捉え得るプロジェクトでもある。だが作品だけ見るなら、SNSやWebを介さずに生で接した時の、素朴なティーンエイジャーの肖像そのものに他ならない。TikTokのように地の言葉、本人らの動作や発話が無いがゆえに、卒業アルバムと見えたのかも知れないが・・・。

 

 

③ 記憶・過去と関係性のボーダー

誰かの記憶や過去を直接に見たり触れたりすることはできない。しかし当たり前のことだがそれぞれの人間にはそれぞれの記憶がある。気持ちや思考と同じく、言語化・ヴィジュアル化されることで、個々人の内にあるもの(=他者からすれば「無い」に等しいもの)が表出され、共有される。この無と有、絶対的他者のボーダーに関わると言えそうな作品が2つあった。いずれも前回で既出の作品である。

【01】松村和彦「心の糸はまさに「記憶」そのものを扱っている。認知症の当人が記憶を失ってゆく様だけでなく、身の回りの人の記憶も失われ、その関係性が変質してゆくことを、聞き取ってきた言葉とエピソードから浮かび上がらせる。記憶とは何か? それは写真そのものではない。写真に写るのは、取材対象者らが人生の節目や日常において残した視覚的な断片である。あるいは作者が記憶を巡る物語を再構築する際に企図して制作したイメージである。言葉もまた発せられ編まれる度にその繋がりや姿形を変えてゆく。

恐らく「記憶」と呼ばれるものは写真や言葉を受け取った側が、それぞれの内面で生成する気象やオーロラのようなものだ。そうした不確かなものを様々な角度と描写から提供し、鑑賞者の側に生起させることが試みられた展示であった。

 

【15】インマ・バレッロ「Breaking Walls」も、記憶と過去に関する作品である。京町家が取り壊され、ビルの谷間でぽっかりと空いた土地はそれだけで何かを揺さぶってくる空隙なのだが、地面に敷き詰められた陶器の破片は言わずもがな、そこにあったもののことを催させる。もちろん陶器の破片が、それを提供した不特定多数の持ち主のことを想起させるという効果もある。だが私にはやはり、2020年のKYOTOGRAPHIEで会場となり作品にもなった伊藤佑町家と、ひと続きのプロジェクトに思われてならない。

当時の展示は、福島あつし「弁当 is Ready」は、生活感を強く残す町家の部屋をそのまま展示会場とし、弁当配達で独居老人宅の中へ立ち入ってゆく写真の光景とリンクしていた。マリアン・ティーウェン「Destroyed House Kyoto」は町家内部を2つのゾーンに割って破壊して、片方では床も何もかもくり抜いて穴より深い空白を生み出し、もう片方に廃材を積み上げて別の空間を構築した。この時の生活と破壊のコントラスト、あるいは共鳴の記憶が、今回の「Breaking Walls」へとそのまま繋がっているのだ。

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③ 社会・国際的な問題(とその認知)のボーダー

社会的、国際的な問題、困難な状況によって生存や人権が脅かされる、そうしたボーダーに関する作品である。文字通り、国境や人権の定義など制度が深くかかわっている。

また、それらの問題をそもそも知ることができるかどうかの、認知や認識のボーダーもある。幸いなことに日本で生活していると、何だかんだで平和で安定しているためか、社会・国際的な問題についてかなりの部分は他人事でいられる。報道を通じて心を動かされることは度々あっても、瞬間的なもので終わっている。それに普段ニュース等で触れる話題は、日本や暮らしに直接関係するものが選ばれているため、知る機会がないものも多い。

 

▪【07】世界報道写真展 レジリエンス ― 変化を呼び覚ます女性たちの物語

世界報道写真展は前回「KG2022」にもあったが、クオリティが大きくグレードアップした。展示方法:木製の台座を円にする方式は同じだが、会場と照明が舞台仕立てとなっただけで、緊張感が増し、シリアスさが全身で伝わった。テーマの絞り込みと掘り下げも格段に力を増した。世界の「女性」の置かれている状況について、国・地域によって様々な問題、動向があることを改めて突き付ける内容だった。

最も刺さる話題だったのは、「ブレスト・アイロニング」だ。カメルーンで特に多く行われている慣習で、レイプや性的嫌がらせ被害の抑止を目的として、母親や親戚の女性が10代の女性の胸を平らに押しつぶす行為である。棒で押さえるだけでなく、熱した石も用いられる。レイプなど性暴力が戦争や紛争における「武器」として用いられているためとは言え、自衛のために身体を自ら傷付けるしかないというのは、キャプションを読みながら非常に苦しい思いがした。その点でも、写真とキャプション、説明文の取り合わせは完璧だった。

悲しい話題だけではない。女性の入場を禁止するイランのサッカースタジアムで、男性に扮して入場を試みる女性サポーターや、女性のスポーツ参加を非イスラム的として禁止令が出される中、殺害予告を受けながらも活動を続けるソマリアの女子バスケットボールなど、抑圧や暴力の被害者に留まるだけでなく、困難の中でも自立した存在として活動している姿も紹介された。不条理で暴力的な支配に抗い、戦う姿は、性差・性別や国籍を問わず、勇気を与えてくれる。

 

・【08】バオロ・ウッズ&アルノー・ロベール「Happy Pills ―幸せの薬―」

前記事で既出の展示である。見えざる社会問題を「薬」という観点からまとめ、網羅して可視化するものだった。私達の「幸せ」「薬」によってコントロールされ、提供されるものとなっていることを突き付ける内容である。

紹介されるのは抗鬱剤など向精神薬による感情・生活のコントロールといったよくある話題に留まらず、もっと広範にわたる。まず「薬」の射程が広く、抗鬱剤精神安定剤から、避妊薬、ADHD治療薬、ステロイドバイアグラ、自殺幇助のためのフェノバルビタール(催眠剤)、世界で最も高価な遺伝子治療薬、家庭の常備薬、ハイチの露天商・・・と非常に多角的である。ユーザーの射程についてもいち個人のドキュメンタリーではなく、個人の事例もあれば疾患、職業、国単位と様々なレイヤーについて取り上げている。

つまり本作は薬=個別具体的な薬理作用を有する物質として見るミクロの観点と、産業・市場、あるいは制度と共にある存在として捉えるマクロの観点を備え持つ。ユーザーは個別具体的な症状や悩みを抱えたいち患者、相談者であると同時に、グローバルな「薬」の市場における消費者であるし、ゆえに彼ら=私達が追い求める個性や生き方といった「幸せ」は商業・産業の範疇に属し、組み込まれてすらいることを本作は示し、問い掛ける。

そこから―各写真から、無数に、厄介な、容易に答えの出ない問いが派生していく。なぜ鬱やADHDと診断されたら薬を飲むべきなのか? なぜそれらの診断がなされるのか? なぜ薬が処方されるのか? なぜその処方を求めるのか? 主語は誰なのか?

 

 

▪【11】セザール・デズフリ(Cēsar Dezfuli)「Passengers」

「越境者」、最も直接的に「ボーダー」を明示するタイトルである。作品に登場する人物らがまさにボーダーを物理的に越えようとした人達である。デズフリはジャーナリストとして世界各地で取材活動を行っているが、本作はドイツの難民救助NGO団体に密着する中で捉えた、北アフリカから国境を越えてイタリアからヨーロッパ入りを試みた難民らの記録である。

特徴的なのは海上救出された難民について、救出劇を一つの出来事として完結させるのではなく、個々の難民について顔と名前を明らかにし、渡航「前後」のストーリーを個別に追ったことだ。2016年8月1日、リビア沖を漂流していたゴムボートから救出された直後の難民118名のポートレイトが、本プロジェクトの起点となっている。その顔だけを見れば、何の区別もつかない。皆、同じに見える。疲弊と憔悴と日焼け。だがそれぞれの背景、そしてその先に、様々な事情や現状があること――顔のある「個人」がいることをデズフリは示した。

展示では彼らの困難と危険に満ちた道のりが明かされる。意外にも船で海を渡る際の危険度よりも、各地から地中海を目指す際に経由しなければならないリビアの方が危険である。地中海・イタリアの玄関となるリビアは2011年にカダフィ政権が崩壊して以来、政治が不安定で民兵武装)組織が乱立しており、人身売買が横行、沿岸部への移動経路と拘置所を支配している。移民らは捉えられて虐待を受けたり、家族は身代金を要求される。

地中海を渡る越境者たちの旅は、海岸に到着するかなり前から始まっている。自分たちの家から何キロメートルもの移動をこなし、その道中では人身売買業者や汚職まみれの公務員に商品として扱われる。この移動の間に彼らの所持品は繰り返し盗まれる。

 

多くの場合、首都のトリポリは海を渡る前の最終地点で(業者にもよるが)数千円の密航代金を彼らが支払わされるところでもある。出航地である沿岸地区サプラタでは、砂丘の狭間で出港の順番が回ってくるのを彼らは待つことになるが、何週間にもわたり虐待を受けながら、ほんのわずかな食料と水だけで過ごす。

展示では、拘束・暴行されたり、銃で撃たれた傷の写真や、親戚の電話番号や想いで、聖書の一節を書き留めた小さな紙きれが提示される。また、ヨーロッパに渡った後の生活苦:不安定な労働環境、亡命申請の却下、ホームレスとして暮らさざるを得ない現実なども語られている。これらのことは、私達の日々の生活では、認識する機会すらない。

 

 

④ 人間界と自然界のボーダー

最後に、「自然」と人間との関わり、境界について言及した作品を紹介する。自然をただモチーフとしたり一方的に賞美・記録して撮るだけのものではなく、人間側の主観や感覚との関わり、あるいは文化と自然との関わり方に触れる作品だ。

 

▪【04】山田学「生命 宇宙の華」

前記事で既出の、ルイナールのシャンパン作り文化、自然と人の営みと写真とが融合した作品である。一見、何が合わさっているか分からない宇宙的にしてミクロの世界を思わせるビジュアルだが、シャンパンの元となる葡萄の果実、シャンパンそのもの、葡萄畑にあった小石やブドウの葉、京都の金箔、セロファンなどが合わさり、「自然」だけでなく、人間の営みや工芸的な要素が複合されている。

キラキラと光る襞、金色に散る煌めきを配した「宇宙」は、作為ではなく自然発生的に、既にそこにあったかのようでもある。何者かが作者に創作させた、ならばそれはやはり、ルイナールの歴史的なシャンパン作りの場である。深さ38mの地下にある石切場の闇の中で、石灰岩の壁・岩はしっとりと湿って生きており、太古の昔に積もったプランクトンの死骸、海の底と地上とが一つであった悠久の時の流れ、地球という星の生命に作者は開眼したのだった。

それらを表すために諸要素を繋ぎ合わせるシャンパンと金箔とセロファン、つまりシャンパン作りの文化と工芸的文化が効いているところに「人間」が介在していることが興味深い。

 

▪【06】山内悠「自然 JINEN」

こちらも既出の作品である。屋久島の森の中を昼夜問わず歩き続ける中で、夜の闇によって外界=自然と自己とが混ざり合い、意識・理性を超えた領域に踏み込んでいることが分かる。樹々の幹や根本、岩の姿形、膨らみや艶は、地形とも生き物とも、自己の意識の一部とも付かない存在となって現れる。幼い頃に夜の暗がりの中で、世界と自分との分界線が見失われ、未分化なところへと逆行し、恐怖すら感じる、あの感じが、山にはあるのだ。そのカオスの領域をよく表した展示であった。

 

もう一つ挙げるなら、マベル・ポブレット「WHERE OCEANS MEET」もここに該当すると言えなくもない。が、ボーダーというよりは海・水という存在を作家が全面的に受け容れた上で出力している感があり、作者と海・水の一体感、作品との一体感から、逆に山田や山内と似て非なる作品なのではないか?と考えた次第だ。

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「KYOTOGRAPHIE 2023」本体プログラムについては以上である。

繰り返しになるかも知れないが、どの作品も複数のテーマにまたがっており、単一の分類で語れるものではない。

多かれ少なかれ、いずれの作家の取り組み・表現活動も、何かしらの領域や限界、権力に対して抗ったり異議申し立てをしたり越境を試みるものなので、全ては何らかの形で「ボーダー」に関わると言えよう。しかも複数の種類のボーダーに関わっているだろう。

今回、自分で書いていても分類は非常に悩ましかったが、どういう尺度や分類が効きそうか?と考えることは、作品の理解を進める上で有用であった。

 

本当は個別の作品をもっと掘り下げられるところでもある(特に石内都×頭山ゆう紀、松村和彦については、導入部のさわりしか書けていない自覚がある)が、とにかく今年は諸事情により時間が全く無かった。個別に書けそうもないが、また別の機会で触れて言及する際に、今回の鑑賞経験は自分の中で補助線として使えればと思う。

 

( ´ - ` ) 完。