nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R4.5/20~29_前川朋子・宮脇慎太郎「双眸 ―四国より―」@gallery 176

四国を生活・撮影の拠点としている2名の写真家が合同展示だ。関西から近くて遠い「四国」を、写真家はどう語るのか。キーワードの一つは「自然」、もう一つは「暮らし」だろう。

と考えていたが、書いていたら全く異なる観点に進み、「地方」を語る写真(家)側の文体と、それを鑑賞する側の「受け」の文体が必要なのだという気付きに至りました。詳しくは以下をお読みください。くわいか(kwik)。

 

【会期】R4.5/20~29

 

 

単なる「地方の写真(家)の展示」「美しい地方の自然の写真」であれば、特に目を向けることはなかっただろう。

鑑賞しに行ったのは、一つには二人の名前を何となく知っていたためだ。なぜだろう? 前川氏とはいつの間にかTwitterで繋がっていた。SNS社会あるあるですね。宮脇氏は全く面識もなかったが、何となく・・・ 漢字の語感のせいか? キャリアを見ると「瀬戸内国際芸術祭」2016、2019の公式カメラマンを務めていて、もしかするとガイドブック等で名前を目にしていたかもしれない。

 

この2人展は、「gallery 176」メンバー・木村孝が企画したが、木村自身が愛媛県新居浜市出身であり、現在も愛媛を拠点に写真家活動を行っている。結婚を機に徳島県へ移り住んだ前川朋子とは、石川直樹が講師を務める「フォトアーキペラゴ写真学校」で知り合ったという。

宮脇慎太郎もまた香川県高松市の出身で、四国をベースに活躍している。言わば本展示は、大阪にあって「四国」ネイティヴの写真が交わされる場となっている。

 

 

■宮脇慎太郎(《UWAKAI》シリーズ)

撮影の舞台は宇和島市愛媛県の南部に位置し「南予」と呼ばれるが、伊方町西予市八幡浜市などと並んで西の端にも位置している。そのためか海の青が鮮やかだ。作者は2015~2021年の6年間、四国を旅する中で宇和島宇和海に出会い、独特の風土に魅了され、長期で撮影することになった。

宇和島の特徴は複雑なリアス式海岸となっていることで、海側の陸地が千切れ飛んだような離島と海岸線を形成している。Google Mapで見ても宇和島だけ地形がおかしい。本作で登場する印象的なシーンはこの独特な地形、風景に由来している。

 

どんな被写体でもそつなくしっかり撮り、対象の特徴を伝えるバランスのよい力量は、プロカメラマンとして活躍してきた実績を物語っていた。

 

俯瞰で見下ろす入江と港町のカットは「どこかで見た気がする」という感覚を惹起した。これはあれだ、あれ・・・

 

それは隣の祭り装束の子供のカットと共に、東北のイメージと強く結びついた。ブルーと鹿の角が効いた。

海と緑と鹿、祭り、地元民というモチーフは、東日本大震災以降の「東北」を語る上で幾度となく繰り返されてきたものでもある。有名なところでは岩波友紀《波の音》、私の身近なところでは駒崎佳之《鹿の夢》、それ以外にも無数にあるだろう。「地方」の表象が似通ってくるのは、日本の各地域における祭礼など文化の類型に、そして大都市圏から離れた沿岸部の生活に、根底で共通するものがあるためだろうか。あるいは、東日本大震災以降に「地域・地方」を語る写真的文法が洗練・共有されたということでもあろうか。

 

 


このあたりの話は調査をしたわけでもないのでエビデンスはないが、海沿いの町で、全体的にモチーフが「東北」と似ていたので、どうしても反復を催してしまうところがあった。

 

だが、四国にしかない風景、気候感はちゃんとあって、海の濃いエメラルドブルー、人が小さく見える巨石の重なり、人々の顔を照らす強い日光などは、東北的な語りとは分けて考えるべき要素として写っていた。緯度と経度が違う。

 

補足しておきたいのは、作者は「東北」をなぞっているわけではない点だ。むしろ「四国」のコアな風土に身を投じてきた。前作『曙光 The Light of Iya Vallery』では、徳島県祖谷渓谷の自然と住民を特集しており、作者の活動歴自体も見ていく必要があるだろう。祖谷の山の深さ、水と空気の厚みが色濃く表現されている。写真に湿度がある。

459magazine.jp

 

なお、本作は写真集『UWAKAI』サウダージ・ブックス、2022)からのセレクトとなっているが、これがクラウドファンディングで作られたため、写真家・宮脇慎太郎の活動と本作の取り組みについては以下のサイトでしっかり説明されており、参考になる。

greenfunding.jp

 

会場を振り返ると、物販コーナーの上の壁に1枚の宇和海の写真を9枚組に分割・再結合した大作品がある。

やはり海の表情は「東北」とは全く異なる。リアス式海岸という地形の共通性はさておき、水面の表情、水平線に浮かぶ島影、太陽光の温度感は、瀬戸内海で見てきたものと近かった。写真の読み方は、やはり自分=鑑賞者側が生で触れてきたもののウエイトが大きく、例えば私なら「四国」など地方の表象より3.11以降の「東北写真」 とダイレクトに結び付いている、そのような気付きがあった。

 

要は、「写真」の文体として「地方」をどう描き分けるか、という観点と同時に、鑑賞者側にも「地方」の風景、情感を判別するための情報量や受け皿も必要なのではないか、ということを感じた。

 

最近は「瀬戸内国際芸術祭」にも飽きてしまって行かなくなった私だが、本作を見て、四国の海と気候に触れたくなってきた。

 

 

■前川朋子

宮脇作品から一転して、「四国」を連想する特徴的な風景などはなく、生活・身の回りの光景と家族(娘)の姿が交互に繰り返される。宮脇慎太郎が四国の秘められた地に実を投じ、自己の「外側」を写真によって通じてゆくのに対して、前川朋子は自己の内側・生活圏内にある名もなきものを、写真によって一つずつ見つめていく。

 

「些細な日常」というと「またか」と思われるか、あるいは「とりとめがなくて分からない」と言われるかのどちらかに捉えられるかも知れないが、実際、わけの分からない幾つものを行為やシーンをルーティンとしてパッケージ化したものが「日常」という言葉(制度?)である。その中身をじっと見つめてみると、一言では言い表せないものが沢山動いている。そこに「家族」や「地域」(=四国)を見い出したり、あるいは見失うことができる。その遠近の中で鑑賞者はそれらとのピント、関係を結び直していくことになる。

 

驚くのは「娘」の存在感だ。撮る側も撮られる側も慣れているためか、「家族」の型にはまっていない。無防備というのでもない。演技でもない。さりげないが、見逃せない姿をしている。年齢不詳・住所不定、という言葉が浮かんだ。

自身の手と腕を重ねたアップのカットは、産まれてから間もない頃のような無垢な柔らかさを現わしている。どこを見るでもなく寝起きのような顔で唇をむっとしているカットは、顔に差す影のためにかなり老成して見え、中年のような雰囲気すらある。下を向いてテーブルを拭いている姿はもはや何処の誰だか判らない。その隣の、車の中でシートベルトをして助手席に座っているカットも服装も何も、性別や年齢も判らない。近所のおじさんと言われても通用するレベルだ(※娘のカットでなかったらすいません。そう注釈入れざるを得ないほど「判らない」)。

 

作者にとっては、これらのカットは(少なくとも写真を撮るまでの間は)延々と繰り返されている「日常」であり、常時固定・判別された「家族」、ごく見慣れたシーンなのだと思う。だが初見の側からは関係性は手探りで、まず助手席の謎の服の人物、テーブルを拭いている誰か、ときて、徐々に「もしかしてステートメントに書いていた”娘”なのか」と認識が定まってくる。

この不確かさは良いなと思った。他の展示レポでも過去に繰り返していると思うが、「家族」というものは注視すればするほど他人に見え、またふとした瞬間にいつもの、特別な特定の存在になる。それが行ったり来たりする。

 

「不確かさ」とは、本来ピントが合っていて意味が固定されているべきものが、まずふわっとしていて、徐々にピントが合っていく・・・が、それでもクリアに端的な意味や単語には収まらない状態を指す。

ここでは「娘」という存在と、日常の暮らしの場=徳島・四国もまた「不確か」である。関西圏から見る「四国」はまさに、面影は昔から知っているけど内情はよくわからない、身近で遠い存在だ。

 

だが不確かさの中に、水は一貫して流れ続けている。モクズガニ藍染め、川のカットが、関西ではない・他のどことも異なる土地を物語る。水と暮らしが隣接していることが分かる。初めて知ったが徳島では「阿波藍」が平安時代から行われていて、特に江戸時代中期あたりから吉野川流域に広がっていったという。

 

最後の1枚はおそらく高速道路が建設されようとしているところで、何もない空き地に支柱が並んでいる。かなり質は異なるが、これも見えない「川」のようなもの、流れを連想させる。日常の生活と「川」の光景を大きく変質させかねない、侵略的なものですらあるかもしれないが。

こうしたシーンの連続と絡み合いが、「何気ない」日常を何気なくないものとして浮かび上がらせている。

 

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( ´ - ` ) はい。面白かったですね。

 

「四国」写真をどう捉えるか。

わざわざそう括る必要はない、と言いたいところですが、そう言えるだけの段階に到達するためには、まず括って考えていきたいと思っています。

 

登山や珍スポット巡りをしていた頃は、四国にもしばしば出掛けていたが、いうても珍しい場所を巡って撮ることの繰り返しで、人々の生活や文化に目を向けるようなことはしていない。ましてや四国を写真でどう語るかは考えたこともなかった。

 

何が言いたいかと言うと、写真史的な文脈に貫かれていない土地・地域を写真で語ることの難しさと、技術や機材、撮影時の体験談などを除いたところから「写真」を語ることは、どうしても被写体と写真自体の歴史性に行き着いてしまい、それとどう向き合ったらいいかを考えざるをえなかったわけだ。答えはない。

 

「四国」4県が、「東北」や、関西や、山陰・山陽と似た部分もあれば、全く異なる部分もあり、それを物語る「写真」があるはずだし、それがどこかで語られてきた可能性もあるはずで、「写真」における「四国」をどう見い出すか、今後の私の課題でもある。なんせ香川・徳島は大阪・神戸から近いのだ。無視してはいけないと思う。

 

「gallery 176」でも四国帰りの写真家(山下豊)がいるわけで、今後も一定の「四国」との交流、写真による言及が期待できる。

 

書いていて実感したが、宮脇慎太郎の作品は外側を軽くなぞるだけにとどまったのに対し、前川朋子の作品については内側へと入って考察しているのは、ひとえに私に、日常や家族に関する「受け」の文体が内在しているためである。逆に、南予宇和島の文体は存在しない。

 

ので、鑑賞者側の写真文法の受け皿、「受け」の文体についても考察していきたいところだが、土日祝日がカフェインと酒でズグズグになっており、控えめに言えばラリっているので出不精をきわめていて、四国現地調査に行くどころではないのである。はい、すんません、はい。

 

( ´ - ` ) 完。