nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】R3.11/19~11/28_現代京都藝苑2021「悲とアニマⅡ ~いのちの帰趨~」@建仁寺・両足院

京都の「和」の2会場で展開される、現代美術の展覧会。『悲とアニマ ~いのちの帰趨~』というタイトルから想起される喪失感や悲嘆のイメージとは裏腹に、仏教、日本現代美術と「和」の感性とを掛け合わせる展示でした。しなやかでつよい。

まず建仁寺・両足院から観ましょうか。へい。

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【会期】R3.11/19(金)~11/28(日)

 

 

この「現代京都藝苑」というタイトルでの美術展示企画は2回目に当たり、実は2015年3月に第1回目が行われていて、その時に打ち立てられた4つのテーマの1つが『悲とアニマ』だったのだ。そして今回の展示では、当時のもう1つのテーマ『素材と知覚』:「もの派」の思考を再考し、「日本的感受性」を京都の歴史的な場で問う、という主題がそのまま活かされていた。

 

このあたりの展示コンセプトや第1回目との関係性は、本企画に出展している作家・勝又公仁彦についての単独記事で触れたところだ。

 

www.hyperneko.com

 

この通り別立てにしたので、勝又作品を除いた分で、建仁寺の展示を見ていきましょう。美術の領域は分からないんでゆるっといくぞ。概ね、建物に入って辿った順でやっています。ただ、鑑賞時は何かVIPの人?に、専門家?作家?の人がすんごい解説してはったので、一部の作品が撮れてません。

 

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通常時はこの「唐門前庭」側の入口は閉まっていて、こうした特別な機会でないと入れない。地味にレアだった模様。確かに毎年「KYOTOGRAPHIE」では反対側の入口しか開いてないもんな。その時点では自覚がないので後で調べて「もっと長居したらよかった」等と言いだしたりします。

 

 

◆大舩真言《WAVE #128》(2021年)

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高麗門(大門)から足を踏み入れてすぐの部屋が開いていて、青い絵が掲げてある。

元からあるものだと思って通り過ぎたが、いや京都をなめたらあかん、京都ちゅうところはおそろしいところや、美や技は日常的に潜んでいるから、外から持ち込まれても溶け込んでしまうんやと、内なる謎の老子が喋ります。

 

ほら~ やっぱり今回の出展作品ですやん。溶け込みすぎてて分からんかった。目録をちゃんとチェックしてなかったらマジで通過するところやった。溶け込み指数100。これ結界で近付いては観れなかったんですけど、別の部屋からアプローチできたのかな。しかし「#128」て、128個もの波作品もあるのか… 波物語やな。。

 

 

◇方丈(本堂)

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本堂は大きく、どんな「作品」でも呑み込んでしまう。「和」の空間は想像以上におそろしく手ごわいです。

 

◆岡田修二《水辺 76》(2016年)

「方丈」、仏間の座敷に上がって、これもまた元からあったかのような絵である。収まりがすごい。会期後も置いておいていいのではと本気で思う。

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近くまで寄って凝視するまで、絵なのか写真なのか区別が付かなかった。だがリアルなだけではなく、ハイパーリアリズムの作風というには主張が控えられていて、それどころか視線を吸い込む、磁場の谷間のような趣がある。

写真との違いはそこだった。写真は現実の複製イメージ、現実を「反」かつ「映」させたヴィジョンとして、こちらの視線を受け止めたり一部跳ね返すところがあるが、こちらは描かれたヴィジョンがこちらの視線、意識を「吸う」のが興味深かった。写真のようにリアルなのだが、写真ではありえない感触がある。

 

岡田修二は、2015年4月から2021年3月まで、2期にわたって成安造形大学の学長を務めるという、たいへんえらい人なので、「さんを付けろよ○○野郎」と怒られそうなあれですが、はい。

 

 

池坊由紀《巡り――いのちが去り》(2021年)

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これはもう仏間のそのもので、「元からここにあったのでは」かつ「このままずっと置いといて良いのでは」という、本展示でも屈指の違和感なし女王である。実際すごくて「そういう仏間か」と素通りしそうになった。違和感がなさすぎて写真も撮ってなかったのだが、いや作品ならコンプリートしておかないと、と後付けで撮ったのだった。

 

素通り理由の大半は、私が生け花の言語を持っていないためだ。イケバナ語が分からない=花の種類・サイズ・組み合わせなどの型に込められた感情や意味が分からない。あかんやないか。いやー。中川幸夫は分かるんだけどな。

「仏教とか供養って感じだな」という大まかな印象はよく分かるが、それゆえに逆に「和」の間取りと同一化し溶け込んでしまう。華道ならではの、長い歴史の中で培ってきたしたたかな生存戦略を感じるが、「美術」「作品」とは、真逆という感じがする。

 

 

◆松井紫朗《ENTERING KINGYO-TABLE-STATION》(2015年)

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スープが置いてある、いや違う、

金魚が泳いでいる。

 

トポロジーの概念が金魚鉢と合体したような作品だが、水草?の塊が散って、食べかけのグラノーラが浮いたお椀みたいなことになっており、上から見た時のビジュアルが汚くて勿体なかった。遠目に、横から机や戸と合わせて観るとかっこいいんすよ。水面を見なければ。水草いらんかったんかもしれん。でも何もなかったら金魚がかわいそうか。

 

器、陶器の作家かと思ったら、松井紫朗は空間概念を操作し、人と人との関係性を再考させる作品(左右にトンネルの入り口みたいな穴が開いた置き物、穴と導管を通されて相手の声を届けられる机、等)を手掛けている。未知数だ。

www.artcourtgallery.com

 

この世界観の探求の仕方は興味がある。科学とも数学とも言い切れない柔らかさがありますね。


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「和」に溶け込んでいてかっこいいのだった。

 

 

◆松井紫朗《大黒》(2021年)

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さきの白い金魚の器となんか近い造形・空間センスがある。あるなあとは思ってたけど、同じ作者だったのだ。えー油断してた。金魚おらんし、黒いし。

これ宇宙空間ですよ。宇宙かな? 重力で空間がやぶれてるし。いや、宇宙かな?? あの世かな。この世でもあの世でもない虚無の世界? 死後とか来世とかいう二分法ではなく、この「世界」の認識の果ての向こう側にある(ない)海域の姿というか。なにいうとるかわかりませんけども。感覚的にはしっくりくる。仏教すか。数学すか。

 

・・・と好意的に接すると凄い感じがするが、今回の展示イベントという前提がなかったら、、、これ雨どいから伝わせた雨水を溜める什器にしか見えないのす。最初から作品という前提で観てかからないと、寺社に溶け込んでしまうとえらいことになるです。

ギャラリーとかにぽんと置いて、周囲から切り離されたオブジェとして見ることで、違和感や謎から意味や空間性が立ち上るだと思う。両足院は恐ろしいことに違和感を完全に殺しているんだよな。

 

 

◆大舩真言《Reflection field - Kannonji, Omi -》(2021年)

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これは痺れました超かっこいい。岩とか石は時に、人間よりも深い人格めいたものを宿す。そういう何かを見ましたですね。残念ながら私の写真には石しか写ってませんが、この眼にはそれ以上のものが映っていたんや。石やけど石とちゃうんやあああ。あああ。

青いからでしょうか。青や紫は人間に特別なものをもたらす。あれかな死ぬ間際には青い光を放つってWIREDの記事に書いてた(鵜呑み)。残念ながら線虫の話で人間はまだのようですが、絶対死ぬときは青いと思う(確信)。

 

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死は星のようだ。

 

 

◆大西宏志《瓦礫または停止した時計》(2011年)

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東日本大震災津波被災地で拾った時計だろうか。まさに時計、泥のついた、止まった時計です。

 

この時計と同じ部屋で、ペアで置かれていたのがこちら。

 

◆大西宏志《TSUNAMI 2021》(2012-2021年)

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畳に液晶ディスプレイで、金魚が泳いでいる。なるほど和の風情がありますなあ。しかしうまいこと生きてるみたいな挙動を取らせている。さっきのトポロジー金魚鉢の金魚を見た後なので油断しきっている。金魚かわいい。

 

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ドジャー。

 

どす黒い津波が来て金魚は呑まれてしまいました。

完。

 

そのうち何かが起きるかなとは思っていたが、モロに津波でした。これは前回2015年でも登場していた模様。2011年に近いほど衝撃は強かったと思う。今は何だか懐かしく感じる。

 

 

◇大書院

いつも「KYOTOGRAPHIE」でお世話になってる会場です。

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ガラス戸から見える景色がブレてブレてすごいかっこいいんで、このヴィジョン自体が作品になっているとも言える。いやいや作品なんて野暮なことを・・・などと脳内会話を繰り広げていると、「作品」の存在意義などがよく分からなくなる。両足院の空間は有象無象の、一般的な「作品」を凌駕しているのだ。

 

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おおトリを務める空間、ここが一番気合が入っていてテンションが高い。どれも「もの派」の作品である。畳の間は小清水漸の彫刻《雪のひま》が大部分を占め、その奥に関根伸夫関連の展示などがあり、この静から来る存在感やパワーは『悲とアニマ』というタイトルと異なるテーマ/まさに『素材と知覚』の本懐ではないかと言わざるを得ない。本企画について色々と疑問を抱いたり釈然としなかったのは、やはり主役たるこの部屋のパワーのためだ。

 

 

◆小清水漸《雪のひま》(2010年)

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意味は分からないが何かこう、問われている気がして/問いがぐるぐるとして、何枚も撮影していた。しかし捉えどころがなく、意味は分からない、というより作品自体は「意味」を、論旨や論理、主張を持たず、されどこれが在ることで鑑賞者側は素通りはできず、ぐるぐるとその周りを回り、しげしげと石や縄や台のことを見ては、やはりその周りを回り続けることになる。何がそうさせているのか分からないが、つぎはぎされた瓦屋根のような作業台に白っぽい石が配されているのが、どうも気になるらしい。これは「石」なのか「作品」なのか?「重力」なのか? 私が見ているのは「力」=関係性ではないのか?? 石が台に「乗っている」ことは、宙に浮いていることと地面に置かれていることとの両義性である、従前の関係性を解されたことで流れ出した「力」が漂い、それにこちらは巻き込まれているのだ。石でも作品でもある、主体でも客体でもある、そうしたどちらでもなさが「石」の存在感となっていて、五感を引き寄せる。すると、こちらから意味を付与して平坦に落ち着ける日常的な認識行為は失効し、これらは超・意味のままであるから、「私」はとにかくぐるぐる回らざるを得ない・・・。

 

「もの派」というのは「具体」に並んで日本現代美術の独自かつ重要な動向で、西洋美術が「もの」を素材として「対象」化するのに対し、「もの派」では主体と客体という関係性から「もの」を解き放った、すなわち西洋美術の呪縛を解き放ったとされている。言葉だけだと意味不明だが、こうしてぐるぐるしていると、なんだか分からなくもない気がする。

 

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◆関根伸夫《位相》(1968年)

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背骨の軟骨の亡霊のような何かが描かれている。貴重そうな家具類に囲まれているので、あまり近付いていないが、これもやたら収まりがよかったので意味について特に考えることがなかった。ほんと和の空間はなんでもかんでも取り込んでしまうなあ。良いのか悪いのか。。

 

関根伸夫は「もの派」の起源となる作品《位相 - 大地》の産みの親である。この《位相》という言葉が超難しい。調べても「位相」という名前で多数の作品があるため、政策時期やシリーズによって意味の幅が広い。大元の意味については、引用すると以下のようになる。

当時もそして現在も、関根の作品において、位相幾何学(空間が連続変形しても変化しない性質を研究する数学の一種)は重要な概念である。位相幾何学的空間が美術における「造形すること」を根底から揺るがし、形を固定のものとして考えずに伸縮変形が自在の「相」として捉えることを提示したからである。

(引用元: prtimes.jp 


作品として造形を作るのではなく、素材をあまり加工せず、「もの」としてニュートラルな状態で配すること、その関係性によって「もの」の意味は置かれる場面、場所に応じて変わっていく、それが「もの派」の「位相」のニュアンスだと考えておけばひとまず良さそうだ。

 

 

◆村井修《関根伸夫《位相 - 大地》1968》(2016年)

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「もの派」という動向、考え方、そして関根伸夫という作家の存在を決定付けた作品がこの写真に写っている円筒状の彫刻と穴だ。地面から掘り出された土の塊を、それを掘り出した穴と共に並置している。

写真で見ると美しくクールな作品だが、深さ2.7m・直径2.2mの巨大な穴と、それと同等のスケールの円柱となると、どれだけの衝撃があったことだろう。実際、これでみんな度肝を抜かれて、歴史が変わりましたとのこと。なお、先述の小清水漸はこの制作の手伝いをしたという。

 

このあたりの話は私の領分を遥かに超えているので、以下リンクで中井康之氏(国立国際美術館学芸員)の論考をお読みください。

artscape.jp

 

 

◆成田克彦《SUMI》(1968年)

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「もの派」の作家。会場では何とも思わなかったが、まあ、

炭ですね、

 

成田克彦は木材を燃やした「炭」を作品としていて、調べたら色んなバリエーションが出てきました。でもこれ会場でみて「炭だ」と思わなかった(=別の意味を持つ「作品」となっていた)んで、そこに何かあるぞ。

 

 

◆吉田克朗《触》(1996年)

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「もの派」の作家。立体作品を手掛けた時期は限られていて、フォトエッチング、ドローイングを主に取り組んでいた模様。この《触》シリーズは粉末黒鉛を付けた自分の手をキャンバス上にこすりつけて描いたものだという。どうりでモヤモヤァッとしてるわけだ。これが「何」かは分からない、見る側の想像次第か。異星人の化石、岩石に擬態したキノコ、硬くなった内臓・・・いやあ、、、(センスがない)

 

 

◆近藤高弘《Reduction》(2014年)

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これすごい好きだし、場に超合ってるんで、このまま置いておいてほしい。凄くないですか、2対で向かい合って禅してますのよ。完璧ですわ。しかも顔がない。個を喪失/超越した存在。向き合って対話しているのか、互いのことも見えていないのか。

尻、腰、背中、肩、首筋あたりの姿勢、体重の掛かり方のリアリティが半端じゃなく、めちゃくちゃ説得力がある。深く内省というか、深く瞑想に没入し、祈りそのものと化している。祈り。何に? 

 

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この坐はどこから来たのだろうか。東日本大震災だった。

Reductionシリーズについて、近藤氏は、「五浦も震災で大きな被害を受けた地。震災や福島の原発事故は、改めて自然と人間との関係をわれわれに問い直した。亡くなられた方への鎮魂とともに、自分自身が自然と人間との関係の中で生まれていく陶芸という仕事を改めて拾遺し直す、もう一度自分の中で問い直すという意味で、2012年から2017年まで約21体の坐像を作ってきた」と語っています。

(引用:www.ibaraki.ac.jp )


 

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しかし震災と関係なく、両足院は座禅体験もできるお寺なので、日常的な場としてこの像はすごく似合うのだった。だから『悲とアニマ』というよりも、彫刻・作品そのものが持つ力についてテーマがあるように思う。彫刻に対して目を向けることでこちらに生じるものと、こちらの眼差しを受けて彫刻側に生じるものとが重要である気がした。

 

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茶室「臨池亭」は、VIP的な人がいたので作品を観られていない。まあいいです、十分堪能いたしました。何だかんだで面白かった。どれも凄まじいレベルで「和」の空間にぴったり沿って調和していたのが何よりも驚きだった。こんなに美術作品が「和」の空間にフィットするものなのかと。

 

 

( ´ - ` ) つづく。