名だたる写真家のプリントを手掛けた職人による、 古き良き「幸せなスナップ」の系譜。被写体への愛情と丁寧なプリントが素敵だ。作品の評価とは別に、こういうスナップ写真と撮影がもっと愛されてもいいのになあと思ったりします。みんな動画だけじゃなく写真撮ろうず。
【会期】2021.6/16(水)~7/10(土)
この1枚、男性の顔面(本人?誰??)が刻まれて重なって、異世界からの通信のようになっている写真は深いインパクトがあって、DMなど広報のキービジュアルに使われているため、セルフアイデンティティーの解体を目論むコンセプチュアルな作家なのだろうと想像していた。違った。これは例外的で、他の写真は所謂「コンセプト」とは無縁な、幸せなスナップだった。逆に驚かされた。
私は「幸せなスナップ」という言い方をよく使う。コンセプトから自由で、実験的でも観念的でもなく、その時々に出会った街並みやモノや人々や陰影を、直観的な好みのままに撮る写真のことだ。現代写真としての評価、現代アートとしての有効性、写真史に照らし合わせた時の有効性を逆算しないところで撮られる写真、つまり自己言及性や批評性を内包していない状態で撮られる写真だ。
この言葉、元々は写真家の金村修がトークで先行作家のスナップ作品を紹介しながら「これは幸せな写真だなあー」「これも幸せですなあー」とコメントしていて、実に的確だったので自然と私も使うようになった。例えばジャック=アンリ・ラルティーグやロベール・ドアノーが自分の中では代表格だ。
フィリップ・サルーンは写真家であると同時に、プリントアーティストとして1979年に個人の専門アトリエを開設し、それこそドアノーやビル・ブラント、エドワード・ブーバ、クロード・バトーら著名人のプリントを担ってきた。いずれの写真家も、写真集販売サイト等のプレビュー画面をちらっと見ただけで、同じく古き良き「幸せなスナップ」の系譜であることが分かる。そしてサルーンの作品が彼らの作風を受け継いでいることも。
どうですか。いいスナップ。幸せになりますでしょう。京都の何必館で特集されてそうな世界観です。
サルーンの作品の面白さはまず分け隔てのなさ、被写体の扱いがどれも等価で、老若男女、白人黒人、犬猫牛鳥その他、いずれもが愛情と滑稽さをもって撮られている。距離感というか、構図の中でのサイズ感・リズム感が一定なのでそのように見えるのだろうか。しかし距離を置いて撮っているのに、フレーム内で突き放したり置き去りにするということがなくて、大切な一瞬として掌に包み込んでいるような温かさがある。
これはシャッターを切る時の姿勢だけでなく、プリントの質感も大いに関わっているだろう。プリントが綺麗だ。丁寧で、技を誇っていない。技術は後ろに引いていて、写真の表情の方を見せている。「写真家」ともまた少し違う立場から作られている気がした。アンリ・カルティエ=ブレッソンほどフレームが締まっておらず、ドアノーほど人間ドラマでもない、もっと穏やかに、時の珍妙さを捉えている。豊かさというか。結局「幸せな」一時と呼ぶほかない。
もう一つはシークエンス、イメージの連続性とジャンプ力で、上下の2枚一組で額装された写真は、被写体のフォルムが似ていたり、リアルの犬猫と絵とが対になっていたりと遊び心に富んでいる。これは額装のセットを越えて、他の写真との間でも言えることで、先に挙げた人物や動物らはリアル⇔彫刻など疑似物⇔絵や影というイメージの位相を、物質の三態が移ろうように行き来している。
だが表象と意味性の戯れへ――ポストモダン的な議題には踏み込まずに、あくまで生の人間や動物たちの生き生きとした表情を愛しているところが、なんていうか、幸せな写真だなあと思う。時代のためなのか、それとも仕事で関わった巨匠らの影響なのか。
ちなみに、サルーン自ら手掛けたポストカードサイズのプリント(100×148mm)が、1枚11,000円(税込)と、非常に安くて驚きです。額装込みで13,750円から(サイズによる)。えらいこっちゃ。
しかしサルーンは2020年秋ごろに逝去したとのことで、何気に貴重なプリントになってしまった。1943年生まれ、御年77歳。合掌です。
マジでこういう写真が庶民的なところで再評価されて、「なんとなく良いから良い」みたいなノリで、みんな街の中で撮ったら良いと思うんですが、どうでしょうか。撮ろうや。理由のない「良さ」、おにぎりがうまい的な、そういう写真はアリだとずっと思っています。それこそが文化じゃね? どうすか、
( ´ - ` )ノ 完。