nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展&トークイベント】R3.1/17_勝又公仁彦・鈴木崇「Sync - eternal commons / ephemeral being -」@GOOD NATURE STATION

京都・四条河原町に2019年12月に開業した「GOOD NATURE STATION」・ホテル棟4Fのギャラリースペースにて、展示『Sync - eternal commons / ephemeral being -』が開催されている。写真家・勝又公仁彦と鈴木崇の二人が、タイトルの『Sync』に基づき、共に作品を展開する。

二人の作品の観賞と、1/17(日)に催されたトークの内容をレポートする。

 

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【会期】2021.1/14(木)~2/28(日) 

 

 

 1.展示について

タイトルの「Sync」は、「synchronization」の略語として「同調、同期」という意味を持つが、「共に」という意の接頭辞「syn-(sym-)」から始まる様々な言葉を含意し、その射程は幅広い。

共感や共鳴、共生といった多義性が展示テーマとなっているのは、この商業・宿泊施設「GOOD NATURE STATION」のコンセプトに通ずるところがあるためだ。「GOOD NATURE」は「体、心、地域、社会、地球」の5つにとって「GOOD」であることをコンセプトとしており、それは特に「自然」への意識、敬意という形で、空間デザインだけでなくショップで販売される商品の素材やセレクトにも貫かれている。

 

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ホテルとギャラリー部分のエントランス、そして隣には広々とした吹き抜けスペースもあり、自然との調和が感じられる。上の階にはグランピングのテントが見える。フロアは仕切りを感じさせない作りで、穏やかに繋がって見える。

 

「自然」に対する意識は、本展示においても大いに盛り込まれている。作者両名でそのスタンスは異なるが、作品は自然と深く関わりつつ、例えば自然の美を礼賛する風景写真、エモーショナルな写真、記号的に一目で分かる写真とは根本的に異なる。 

二人は、勝又氏が提示したテーマ『Sync』を出発点としつつ、それぞれ別個にサブタイトルを設定して展示を構築している。事前の打ち合わせは行っておらず、搬入当日に初めてお互いの展示内容を知ったというから、計画性と偶発性の出逢う場でもある。

そもそも本展示が「写真展」とは謳われていないように、写真の展示数と同等かそれ以上に、会場ではケースに収められたオブジェ、壁面に据え付けられた液晶デバイス、壁を這う配線などが目に飛び込む。写真とオブジェの掛け合わせが生み出すイメージには、はっきりとした答えはない。ステートメントによってテーマの方向性は掴めるが、それは答えそのものではない。よって、展示を見渡してすぐに、完結した・単一の解答を得られることはないだろう。

 

では両者の展示を順に見てみよう。

 

 

2.【展示】勝又公仁彦「eternal commons」

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写真は額装されたプリントが1枚のみで、あとは写真ではない――3つのクリアケースに入ったオブジェ群と、壁面に植物、蔦のようにコードが這うデジタルフォトフレームと、それらに寄り添う木の枝などから構成される。

写真に写された光景を見ると、なだらかな山と森林が終わりなく広がり、薄く掛かった雲の向こうに太陽が光を湛えている。人工物は見当たらない。いつ撮られた光景なのか――つい最近のようであり、遥か昔からこうだったようにも感じる。周囲のデジタルフォトフレームもまた、緑色の鮮やかな木々を写し出し、壁に立て掛けられたリアルな木の枝と呼応する。

 

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照明を反射するクリアケースや白い壁面を縦横断する黒い配線、内側から電気的に光るデジタルフォトフレームは完全な人工物で、自然とは真逆の部類である。しかし自然対人為・人工の二項対比にはなっていない。黒い配線はむしろ、不規則に縮れて壁を這っているためか、そういう都市型の植物にも見えるし、デジタルの液晶面に呼び出される緑ある光景も違和感がなく溶け込んでいる。

この形態は近年の勝又氏の展示ではお馴染みのものとなっている。空間を這うデジタル画面のコラージュと多数の配線の絡まり合いは、「写真」の領域や定義を撹乱する。その効果はイメージの指示対象にも及ぶだろう。

 

クリアケースの中に並べられているのは天然の無機物:岩石、水晶、白骨化したサンゴ、化石のようなもの、そしてとりわけ目を引くのが「三方」と、その内に敷かれた米粒、枯れ枝とセミの標本だ。それらはインスタレーションやブリコラージュと呼ぶには祭事的である。三方という神道の様式が場に持ち込まれたことで、オブジェ群、ひいては展示全体が、単なる「自然」(物)ではなく、象徴化された世界、聖なる属性を宿した領域へと相を移している。

 

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一言で言ってしまえば、これらは全て「自然」である。自然の産物であるとともに、自然を表す作品の構成要素でもある。自然は直接的に対象物として扱われているのではない。作者は自然にまつわるモノとイメージの断片を集めて配置することで、自然と人との関わり(方)の構造を提示し、再考していると言えるかもしれない。

反対側の壁面で展開される鈴木氏の作品もまた「自然」の光景、光を扱っているため、展示の場そのものが調和しており、そのことが一層、自然なるものを表現の対象・鑑賞の対象というより、もっと大きなものへと押し上げているように感じた。

 

作品の紹介文には『社会的共通資本の一つである「自然」にeternal(不変的/永遠)に潜勢する富の顕現と共有を夢想します。』とある。「富」は、重要な指摘だ。特定の個人・集団が所有・蓄積する資本主義的な経済力の類ではなく、所有という枠組みを超えてもっと広く共有されるもの、例えば資源、いやもっと大きい。四季や、風や光といった、四大元素を土台とする時空間そのものをも指すだろう。それらは個々人の心身や生活を満たすだけでなく地域社会にも及ぶものだ。風土や環境という言葉が近いだろうか。

自然界からギフトされる富の中でも、一つ変わっているのが炎だろう。炎は待っていても、一方的には与えられない。フォトフレームに作者の過去作品『Unknown Fire』:様々な場所で小さな火を起こし、長時間露光で捉えた作品シリーズが表示される。炎は原初のエネルギーであり、人類の進歩を大いに支えてきた。しかしごく稀にしか自然発生しない。火を起こすには、人の手の関与が不可欠だ。そして維持にも莫大なコストを要する。神聖さと実用性を高いレベルで備えた恵みである。

炎がゆらぎ燃える光景は、三方の儀式性と自然物のオブジェらと強く連結する。そしてまたフォトフレームに目を向け直すと、宇多天皇が眠る京都の大内山陵の画像が現れた。このとき、信仰と歴史とが自然と確かに結ばれ合っていたことを察した。恐らく古来よりずっと、民の生活だけでなく国の政においても、自然界の森羅万象を信仰の対象とし、自然の力を借りながら、共にあり続けてきたのだろう。

 

また、作家トークの内容と、ちょうど一年前に東京で催された勝又氏の個展『わたくしのいもうと』を顧みると、人と自然とはもっと深いところで「癒し」という関係性があることも見逃すことができない。

作者は妹との突然の死別に見舞われた。その後、自然の風景との関わりによって、埋めがたい喪失や傷を癒されてきたという。

  

妹トシとの死別に見舞われた宮沢賢治は、学校の教え子に就職先を斡旋する目的もあって、岩手から樺太へと旅に出た。その汽車旅の中で『銀河鉄道の夜』の着想を得たと言われている。

勝又氏は宮沢賢治の詩から展示タイトルを引用し、仕事で北海道に行く機会もあり、旅の道程を踏襲した。オホーツクに向けて旅をし、北海道の東端で羅臼側と根室川で天気、気象が大きく異なり、光と闇のような対比的な光景を目の当たりにした。再生の象徴としての自然の光景に出会った体験が、前述の1枚の風景写真である。そうした自然との「癒し」の関係性も本展示には込められている。

 

 

3.【展示】鈴木崇(ephemeral being)

向かいの壁面で作品を展開する鈴木氏の作品は、前述の通り、奇しくも勝又氏と同じく「自然」や「光」をモチーフとした作品であった。しかしそのアプローチは大きく異なる。

個別タイトル「ephemeral being」は、訳せば「つかの間の・儚い存在」ということになろうか。「儚さ」からイメージするのは、例えば覚めて消え入りそうな夢や、溶けそうに淡い雪などだが、プリントされた写真というのは思いの外頑丈で、化学的に操作したりハードな環境下で風化させない限り消えることはなく、そこに焼き込まれたイメージはいつまでも、そのままでそこに在る。よって本作では、何が儚く・つかの間のことなのかを探ることになる。

 

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一つは写真に撮られているこの光景を認識した際の、まだ形を成さない前駆的な意識の儚さである。

雪景色と、木々と、その向こうに日の光がある。青空の中で太陽が光を放ち、暈(かさ)が幾重にも出来ている。それらに確かな形はない。在るのか無いのかと言えば、写真の上ではそう見えてはいるが、眼でどこまで見えて捉えていたのかは不明であり、質量や手触りではこの何かが何であるかを測ることができない。

むしろこれは、何ものかを捉えようとする手前の、意識が前へと駆け出そうとする起こりの瞬間、それらを「見る」手前で生成された瞬間なのではないだろうか。見るより先に見えた、その見えたところのものに向かって意識が、「私」が生成しようとする。

私達の意識が、自己の先にある兆しのような何かを不意に捉え、発火して駆け出し、衝突したときに生じるもの――言葉や観念に落とし込まれ、ラベルのマッチングが成立する手前の瞬間には、「世界」はあるのか、あると言えるのか。本作は、自己の外側に存在が成立する瞬間について語るもののように思われた。このままいけば量子力学に片足を突っ込むことになるのだろうか。

 

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もう一つは逆のプロセスで、特に写真以外のオブジェ類によって引き起こされる体験だが、目に見えているこの「世界」の従前の確からしさが、だまし絵だったかのように、虚を突かれて舞台装置の裏側を見せる、その儚さについてである。

今、目にしている「世界」はとても整っていて、安定していて、見慣れていて、見覚えがある。だが「それ」は本当に「その」形なのか? 今見えている「形」は、実は影を見ているに過ぎないのではないか? 

認識・認知の科学的視点を援用したらしき展示は、この「世界」の整った形が、連綿と折り畳まれた迷宮の入口を正面から見たに過ぎないのではないか? それらの不確かさを確かなものとしてまとめ上げて成立させる方程式のようなものがあるのではないか? それは「私」たちの内側にも外側にも無数に埋まっていて、その掛け合わせで「世界」が広がっているのではないか? そのような問いかけを放つ。

 

直接的に語らず、ブリコラージュ的に配したイメージとオブジェによって認識への問いを促す手法――科学的な視座転換をもたらす仕掛けは、2020年・KG+での展示『Quiet Riot』に通じるものだ。

 

 

自然とは、「私」たち主体の有する方程式の外側に広がる、更なる無数の式の総体のようである。「私」は例えば言葉や写真によって、その式をひとつずつ解いていくのだろう。だがこれは科学ではなくアートの部類であるから、統一的な正解は存在しない。認識は個人のものとして手渡される。個人の認識、つまり「私は何者か」という話にも繋がってゆく。

 

 

4.【トーク

1/17(日)18時過ぎから始まった勝又氏・鈴木氏による2人のトークは、当初の予定を変更し、展示会場からYouTubeでの無観客ライブ配信となった。新型コロナウイルス感染拡大の影響による緊急事態宣言を受けての配慮であった。

 

トークのライブ映像は、勝又氏のチャンネルにて、アーカイブとして残されている。

 


勝又公仁彦・鈴木崇 トークイベント「Sync – eternal commons / ephemeral being -」展 GOOD NATUR E STATION 4F GALLERY

(通信セッティングと確認のため、トークは6分後あたりから始まります) 

 

 

 本展示のきっかけは、「GOOD NATURE STATION」スタッフ・嶋田氏が京都芸術大学(旧・京都造形芸術大学)の卒業生であり、作家両名の教え子にあたることから、このたび二人展を持ちかけたという。過去にもこの二人による展示を観て、同じ写真家でも作品・展示に対するアプローチが全く異なることに興味を抱いていたとのことだ。

 

しかし展示を依頼したのは昨年11月のことで、たった2カ月ほどの準備期間しかなかった。短期間で仕上げることができたのは、作家としてのキャリア、経験値豊富な二人だからこそだ。

テーマタイトル『Sync』という勝又氏の発案を受けて個別にプランを練り上げ、擦り合わせなしで設営当日を迎えた結果、両者とも「自然」や「光」を主に扱う内容となったが、まさに期せずしてタイトルの含意の通り、シンクロニシティが起きた展示となった。両名が作品制作・展示に関わる高いリテラシーを備えているがゆえに、場の文脈=「GOOD NATURE STATION」のサスティナブルな運営方針と空間コンセプトを尊重した上で、自身の関心事にどう引き寄せて展開するかを考えるという、根底の姿勢が共通していたことを物語る。

 

展示品の多くが過去作品から再セレクトされたことも、大きな要因だろう。

例えば勝又氏は、新作は写真作品のみであとは過去作品から成り、鈴木氏の2枚1組の写真作品は約15年前のものである。この点は、例えば美術館のアーカイブ機能のように、過去作品を再展示して再考することの意味や、先述のように「作品は本質的に未完成である」ことと繋がっていく。

これには、作家両者とも「写真家」という属性に囚われるのではなく、「表現したいことに合わせてメディアを選べばよい」「ここ何十年かで顕著なのが、固有のメディアだけで表現するのではない形で作品が展開している」「例えば僕は、体に馴染むメディウムが写真だった、というだけの話でやっていて、そこにヒエラルキー的な、セオリー的なものはない」などと二人が語るように、「表現」の手法、領域の横断や交雑、交流を受け入れる姿勢もまた深いところで共通、共鳴している。

 

トークでは展示物を個別具体的に解説するよりも、こうした作家としての姿勢や考え方について意見が交わされた。

むしろ、解説を語ることで「正解」を与えてしまうことを懸念し、解釈はあえて鑑賞者の関心・好奇心に委ねたいとの趣旨だった。それは、鑑賞者の側に立てば、作品を観て「意味が分からない」という感想を持つことも許容することであり、作家側に立てば、作品は本質的にはずっと未完成であり、作者自身でもその意味を完全に理解し把握しているものではない、ということでもある。

作家の語るコンセプトや解説が本質的に大事なことではない。観る側=自分がどう解釈するか/解釈できないかが重要なのではないか。観てすぐに明確な答えがもたらされる展示・トークでなかったのは、他の可読性への可能性が失われてしまうことを回避する意図もあるだろう。

 

明確で単一の、分かりやすい意味・解釈を求めない――できるだけ感じ・考えることを止めないための在り様は、現在の新型コロナウイルス感染症という、理解のできない状況(存在)の真っ只中を生きていることと密接である。実質的に撲滅の不可能な感染症=「他者」なるものと、関係を取り結ぶことを考えた時には、『Sync』的な発想、共生や共鳴について考えざるを得ない。

 

それはジレンマでもある。 

観客が個々に自由に感想を持つためには、やはり展示を実際に鑑賞する必要があるのだが、京阪神の三府県で緊急事態宣言が出ている状況下では、来場を推奨・推進できない。

それゆえ、トークは作品・展示・表現についての話題と、コロナ禍、緊急事態宣言を巡る話題とを行ったり来たりした。今回のギャラリースペースは密閉された部屋ではなく、通路の空間を活かした場であり、密にもならないので危険性は低いと思われる、といったことも改めてアナウンスされた。

 

 

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自然とは、衣・食・住を支え、心を癒し、人智を超えたものへの信仰を育む土壌となってきた。また、それが内包する原理に触れる度に、乱反射する万華鏡のように見え方を変えてきた。対して、私達の側も自然の側へと、その畏敬や感謝の念を還す手段を持っていたのではないか。その大きな手段の一つが、こうした写真やアートによる表現技法であろう。

 

私が「自然」に対して何かを理解できているわけではなく、この新型コロナ禍の真っ只中では無力で、政府与党やTwitterのタイムラインやTVコメンテーターの言を消費するか反応するか無視するかという、非知性的かつ怠惰な日々を送っている。そんな体たらくなのだが、それでも日々、特に不安定さに陥ることもなく(むしろ従前から変わらず安定して)暮らしているのは、案外、通勤で空の表情を見たり、外の風に吹かれたり、空気を吸ったりしている――自然との関りを、自分なりに構築し、保持しているからなのかもしれない。

 

 

( ´ - ` ) 完。