写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【ART】R2.8/15_内藤礼「うつしあう創造」@金沢21世紀美術館

オブジェを「見る」ことが、「私」とオブジェとの間にある「間(ま)」を見て、認識し、見えないけれどそこにある何かに気付いていく。存在と気付きの関連を物語る展示でした。

 

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【会期】2020.5/2(土)~8/23(日)

 

 

 

美術館全体で同時に3本の企画展が走っている中、内藤礼の企画は展示室7つと「光庭」2つの計9フロア(+廊下)を用いて展開していた。

 

展示品の1点ずつがさりげなく、囁くように身近な物を配置するインスタレーションのため、速い人なら小一時間で回ってしまうだろうし、空間に身を沈めて鑑賞するのが好きな人なら2,3時間は滞在できるだろう。写真仲間は4時間ぐらい居たそうです。驚(笑)。

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撮影禁止のため文章だけになります。内藤礼作品はひそやかに、静かにそこに吹かれていたり佇んでいるものなので、言葉で語るのが非常にこわいものでもあります。言葉が勝ってしまうというか、言葉が意味を駆逐するというか。

 

混雑はゼロ。ほどほどの客入りでした。事前にWeb予約・チケット購入となっているせいかな。逆に、同時開催の『de-sport:芸術によるスポーツの解体と再構築』の方に人が結構並んでいた。五輪延期になったからなあ。タイムリーじゃなくなって逆にタイムリーだなあ。私そっちは見てません残念。 

 

会場構成はこちら。順繰り見ていきましょう。

 

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◆展示室7、展示室8

まずは、根性がひねくれたり迷子になっていない限り、入口すぐの「展示室7」を見ると思います。展示室と言いながら、壁に覆われていて中に入ることができない。一部が窓のように開けられているので、そこから部屋を覗き込む形に。

 

何もない?

 

いや、床に小さな人型のオブジェが2体並んで立っている。『ひと』(2020)、高さ7㎝・幅2.5㎝程度、具体的な人間というより精霊に近い存在(もののけ姫の「コダマ」をもっと人間界寄りにしたようなもの)と感じる。

実に小さな造形に対し、展示室はとても広いため、オブジェを見ることがすなわちその周囲の空間、「間(ま)」を含めて「見る」ことになる。それは「私」とオブジェとの「間(ま)」の存在、間にある何かを認識し、知覚する体験へと繋がっていく。

 

隣の「展示室8」は中に入ることができるが、奥の壁がまた窓のように開けられていて「展示室7」を別角度から覗く仕組みになっている。やはり遠目からだと目録にある展示品全てをはっきりとは見ることはできない。展示品は『世界に秘密を送り返す』(2組の直径1㎝の鏡)、『太陽』(直径4㎝の照明器具)、『母型』(水とミクストメディア)で、いずれも空間に対してかなり小さいため、肉眼ではよく見えず、謎めいている。

「展示室8」は自由に内部を動けるが、まず室内に立ち入ってしばし「作品はどこにあるのか?」と戸惑う。一見、大きな展示空間だけしかないようだ。目録の地図の番号、係員の配置、観客の集まっている感じから「作品がそのあたりにある」ことを察して歩いてみる。すると『母型』(水とミクストメディア)、『無題』(糸)がある。ぎりぎりまで気付かずに歩いていて、突然存在に気付いて焦る。前者は床に水溜りが出来ていて周囲に水滴が散り、後者は天上から糸が垂れ下がっている。

 

それだけなのだ。

それだけのことが、大事となり、鑑賞者は夢中になる。

内藤作品の最大の特徴は、オブジェそのものにはあまり意味がないことだ。それ自体の美しさや技巧は最小限に抑えられていて、なおかつ意味性や主張も、例えば記号論や作家の私性を訴えるわけでも、資本主義・消費社会への批判や自然・伝統への回帰などの主張もそこには託されてはいない。主張や表象のあらゆる意味性を取り払ったところにある「もの」――身の回りにある日用品や設備の延長線上の「もの」、紙片が、ただ「在る」。存在を、潤沢な「間(ま)」とともに供されている。

 

そうして鑑賞者は「私」とオブジェとの間にある「間(ま)」 に着目することになるが、例えば『母型』の水溜まりでは、鑑賞者はその水が一体どこから来たのか、天井から漏れ出しているのか、水蒸気の結露か、中空を見つめたり、館外の天候に思いを馳せる。「無題」の糸も同様に、それが宙を漂い、時折揺れる度に、風や空気がそこに「在る」ことを強く想起させられる。展示室の天井はとても高いので、何もない「間(ま)」の大きさがそのまま展示物・作品となって、オブジェを取り巻いて室内を満たし、根源的な物理的な諸要素、現象を主題として浮かび上がらせる。気付き、存在の兆しが生成する。

 

◆展示室9、展示室10

2室は並んでいて、同じような展示品が同じような配置で暗がりの中に並んでいる。入って正面の壁に7m半の『窓』が設置され、そこに『恩寵』(花柄のプリント布)『顔(よろこびのほうが大きかったです)』(糸で吊るしたくしゃくしゃのファッション雑誌)が並んでいる。相対する手前の壁面には、背丈5.4㎝の『ひと』が佇み、観客を含めた空間をどこともなく見つめている。

「展示室9」に入って正面の壁面に向かってずんずん進んでいると、いきなり白くて丸いオブジェが目の前に現れ、驚いて急ブレーキをかけた。あぶねえ。『風船』(天井から吊り下げられた白い風船)である。意外と人間の目は見えていない。

 

反対側の床には電熱器のヒーターが置かれている。『無題(母型)』、空気が熱されて小さな上昇気流が起き、糸がうねうねと動いている。生き物のようだ。これも細くて白い糸にはすぐ気付かず、まず薄暗い部屋の床で赤く光る電熱器に目がゆき、近付くと何となく空気が熱いことに気付き、そして次第に動く糸と上昇気流とに目がいくようになる。見えていないものを直接見ることは出来ず、気付き・認識とは階段状になっているのだと分かる。

 

そうして前の部屋と同じく、オブジェは「ある」のか「ない」のか判別し難いぐらいの存在感であったり、あるいは存在感の透明なもの=自然界の諸要素へ働きかけを行うことで、この場がそれらに満たされていることを示唆する。空気、熱、風、原子、重力、光、そういった眼には見えない諸要素の「在る」ことを、鑑賞者は認識させられていく。

その一切を遠くから茫漠と眺めている小さな『ひと』オブジェは、意識の始まる以前の「人」を表しているようである。まだ「人間」と呼ぶにはずっと手前の段階にいる単個の人類で、そこには「私」や「あなた」もまだ不確かなのだろう。

 

それが対峙する『窓』に掲げられた『 恩寵』『顔(よろこびのほうが大きかったです)』の意味は全く解りかねたが、内藤作品の志向するところは古来からの人類の意識(以前の状態)でありながら、作品が語りかける対象(観客)はあくまで現代人、現在の資本主義・消費社会の真っ只中で生きる者である、ということだろうか。くしゃくしゃに丸めて再び引き伸ばされたファッション誌の1ページは、空気の動きでゆるく回転し、花柄のプリントは、1870年代から続く英国の百貨店・リバティ社のものだ。記号的消費に生きる現代の私達の系譜を垣間見せる。

 

◆光庭2

「光庭」は半オープンスペースで、触れに行くことは出来ないが、天井なしの吹きっ晒しのスペースで、他の通路からもガラス窓で360度鑑賞が出来る。

別の通路からではこの写真のような光景が見える。(鑑賞エリア外からの撮影なのだがこれ載せて良かったんかな、、だめなら教えてください

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風に吹かれて白い紐が宙を舞っている。これは作品『精霊』で、ポールに結びつけられたリボンが天候、空気の動きに応じて動き回る。

もし風が全くなかったら、ただの施設に付随する業務用の備品に見えたかもしれない。太陽の角度や天気によっては光と空に同化してしまって見えなかったかもしれない。

シンプルの極みを尽くした素材と造形、こうして写真にすると魔法が溶けたように「もの」の姿が露わになってしまう。こちらとオブジェの間にあるものが写らないのだ。そうですね。目に見えないものを動きや兆しによって現すオブジェだから、現場で全身で知覚しないと意味がない。

 

 

◆展示室11

それは巨大な未来の祭壇のようだった。

 

かなり広い長方形のフロアで、個人的にはメイン展示だった。

フロア中央には巨大な台座『無題』(木にモルタル・塗装、幅3.8m、奥行き6.1m、高さ65㎝)があり、上には無数の『ひと』が立ち並んでいる。周囲の壁には『椅子』(本展示では、観客の座る椅子も作品の一部)、『color begining』(キャンバスにアクリル絵具、抽象的な絵画のような薄っすらとした色)が配され、台座を取り囲んでいる。

 

台座は腰よりも低いので、『ひと』の群れを見下ろすかたちで対峙することになるが、それらは真っ直ぐにどこか、遠くを見ている。見下ろす我々観客とは目線が合わず、鑑賞から逃れた―突破した存在である。顔を覗き込むことも躊躇われた。これらは我々人間のミニチュア=娯楽的・消費的な観察対象ではない。自立して立っている存在だと感じさせられる。

76体に及ぶ『ひと』は、台座のぐるり360度、外側に向かって配置されていて、台座の中心には何もない。真空である。それは意識も自我も何もないところ――「私」が生じる以前の場所から、次第に「わたし(たち)」が顕在化していった、その根源を表しているのだと感じた。無の領域から、こちら側へと向かって歩いてくる者たち。その果てとして、こちら側の私達があるのだろうか。

 

『ひと』は、それぞれが一定の間隔をおいて立っていて、寄り添ったり固まっておらず、それは集団とは呼べない。『ひと』同士はばらばらに、別個の存在として、そこに立ち尽くしている。それぞれ誰とも繋ぎ合わされていない。孤高を感じたのだ。至近距離にいるお互いのことにすら気付いていないような、今この瞬間あるいはずっと昔から存在していたような、いつどこから始まったか不確かな、人間の形。それは「意識」というものに似ているかも知れない。

『ひと』の造形として、顔や体型にはそれぞれ個体差はあるが、ぼんやりとしていて、積極的に特徴が描かれているわけではない。その意味では「個」としても確立される以前の状態だろう。つまりここでは『ひと』のオブジェが個人とも集団ともカウントできない、「人間」という社会的存在に至る以前の、何か意識の根源的な姿だということになるのだろう。

 

同時に、終戦の日に近かったこともあってか、同心円状の無人の領域と『ひと』の広がりは、原爆と爆心地のイメージにリンクした。地理的にも歴史的にも国家としても「無」と化した一点で、滅びなかった私達が、立ち尽くしながら、拡散してゆく未来の兆しを見ているようでもあった。

 

計算されつくした空間構成に痺れ、脳がみりみり刺激され、集中力が昂った。刺激的な場であった。何度でも立ちすくんでいたい。 

 

 

◆展示室12

小ぶりな部屋。入ってすぐ係員の説明。部屋の奥に天井から吊り下げられた長方形のレンズのようなものがあるので、それを覗き込んで入口側を見返してほしいとのこと。それが作品『 地上はどんなところだったか 』で、4㎝×5.5㎝のガラス越しに見ると当然ながらぼやけたり歪んだりして、通常の視覚のようにはいかない。何か特別な見え方を期待して角度を工夫してはみるが、特に効果はなく、どう見たら「キマッた」見え方になるのか苦慮した。特になかった。これまでの展示と同様に、見えざるものの存在や力に気付かせる仕組みであると考えると、光や空気の存在の話になるだろうし、逆に私達に内蔵されているこの眼のレンズ構造の調節によって「世界」が「正しく」認識されていることへの言及とも言えるかもしれない。

 

壁には多数の仕掛け(作品)があり、『精霊』(糸をピンで留めたもの)、『恩寵』(花柄のリバティプリント)、『太陽』・『太陽の子』(どちらも照明器具)これまで大部屋の空間に埋もれていたささやかなオブジェが比較的密集している。それでも目録のマップがなければ見落としていただろう。特に『精霊』は、壁の高いところに色の付いた一本の糸があるだけ。白い壁に同化していて、初見では気付かないかもしれない。

要は、何かが「ある」「見えた」(気がする)、と、こちらの「意識」が働いて何かがチカッと発火するかどうか、存在に気付くか否か、気付くとは何か、そのこと自体が鑑賞体験であり作品である。

 

 

◆光庭3

通路から大ガラス越しに、屋外スペースを見る。水の入った透明なガラス瓶『無題』が 78本並んでいる。吹きさらしのため、その日の風や雨といった天候条件や陽の傾きが全て反映され、微妙に/大きく表情を変えるものだ。表情というより現象のレベルで変わっていると言うべきかもしれない。風が吹けばガラス瓶の水面はざわざわと揺れ、水と容器であることを超えていく。雨が降れば瓶の中身と外側は雨水と空と断続的に繋がり、水が溢れればガラス瓶の内と外側・床面もまた水で繋がる。相が次々に流転してゆくのだ。

 

これは「光庭」に限った話ではない。金沢21世紀美術館の構造自体が、ガラス壁と天井が自然光を取り込む構造となっているため、全フロアが時間や天候によって明暗、光の質が変化してゆく。これまで紹介してきた各部屋での作品の見え方、気付き方が変化するのは勿論のこと、体験者によれば、夜が近付いて暗くなると、各部屋の入口付近や内部に設置されていた作品『太陽』・『太陽の子』(照明器具)が点灯し、人工的な光によって、また別種の空間になるのだという。

 

( ´ - ` ) 何度でもたのしめるということですね。奥が深い。展示作品を楽しんでいるのか作品を媒体として時間や自然を楽しんでいるのか。 

 

◆展示室14

順序で言うと最後の部屋。

円形の大型フロアになっていて、出入口は一か所。反対側には窓が開けられていて、外から何となく展示の様子を見ることができる。無数に天井から光が吊り下がってキラキラしている。

中に入ると、手前の壁側にベンチが設置され、鑑賞者が歩けるスペースと、残りの大半は小さな球体、円形の物体が天井から雨のように吊り下がっているゾーン。作品・『母型』(5.6m×9.7m×7.68mに及ぶ、スフレビーズ、鈴、テグスを用いた宙吊りキラキラの空間作品)である。

 

意識が昇天して、此岸でも彼岸でもない宙に漂って光を照り返している、そうして時間そのものが行き先を失って、その場自体が現世から切り離されて、さりとて、どこかに向かうものでもなく、漂っているようだ。

実際、ベンチに座ってゆっくり・ぼんやり見ていてOKという展示だが、無数のスフレビーズに光が反射する様子は、眼の焦点をどこにも合わせる場所がないため、意識のかたちを留めておくところがない。眠気が急に来て、あまり何も考えられなかったとです。あうう。

 

構造は「展示室11」の、テンションの高い台座の空間とは逆に、意識がしだいに霧消していく空間であり、「私」という存在もまた自然現象、光や音や波のような、現象の一つだったのかもしれません、曖昧になってゆく。みなさん、みなさん、さようなら~。

ああー。

 

総じて仏教観にも通じるような、不確かで形なき意識と外界、存在というものの在り様について可視化し、感覚器に触れさせる展示でした。されど神や仏を一切語らず、ささやかでひそやかな気配、物体の配置と、人型のオブジェの立ち尽くす姿によって語ってゆくところは、仏教観と溶け合ったジャコメッティの彫像というのか、実存主義のメタレベルの話というか何でしょうか、心身を揺さぶられました。

 

こうして振り返ってみると、人間の気付きと、人間の外側にある存在、そのどちらが先行するのか、というまた先祖返りしたような議論も孕んでいるわけですが、そこを西欧哲学のように議論するのではなく、凡て一体の大きなサイクルのような、巨大な輪廻のように繋がり合っていて不可分のものであると考えました。空も石もわたし。わたしと水。わたしも水。でもわたしはあなたではない。チャポン。

 

 

なんか普段の水道水の原点をたどって湧き水スポットまで遡上してさらにその奥の原泉を見に行った感。

 

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コロナ対策をすごく厳重にやってました。白と透明なブルーが基調で、このくそあつい酷夏にとても似合っている。いい建物ですね。できれば毎年観に来たい。

 

 ( ´ - ` ) 完。