写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【映画】「友川カズキ どこへ出しても恥かしい人」@九条シネ・ヌーヴォX

健康健全な不良人生。

確かにお酒が好きで、ギャンブル(競輪)のことしか考えてないような人物ではあった。が、孤独・孤立とは無縁だった。そこに同じ「ダメ」でも、「生き方」と「依存者」との大きな差異を見た。無論、本作は前者の方だ。

 

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生き方とは。

 

職場でスマホをいじっていて、紹介文を読んで直感に刺さり、唐突に休みをもぎ取って、昼から観に行ってきた。友川カズキ。人物のことは何一つ知らなかったが、70歳になるのに競輪に狂っている。半端でなく競輪。そして若い頃はシンガーで画家として知られたという。人物像として得られた具体的な情報は、ほぼ競輪。だめだ、これは無視できない。

 

誰にでも直感的に気になる映画というのがあると思う、私の場合は登場人物がどうしようもなくダメ人間だったり、人間としてダメじゃないけど運命か何かで穴にハマって人生がダメになっていたり、社会の仕組みや不条理によってギリギリに追い詰められた人々の映画というのが、たまらない。ことさら、酒やクスリやギャンブルで生活のバランスが滅茶苦茶で、破滅していくだけの映画も良いし、逆に、ズバ抜けた技術や才能や人間関係によって奇跡的に人の世での生をキープしている人のドラマやドキュメンタリーも、格別に良い。それは依存や不安定という「症状」ではなく、ある一人の個人がそうやって(しか)生きていけないという、逃れ難い「生き方」の極地を見せてくれるからだろう。

間違いなく私自身の手に負えない影や陰の部分をそこに見出し、救いを得ているフシがあると思う。

  

映画の紹介文と断片的なカットからは、ギャンブルで身持ちを崩した、芸術家肌でややこしい、狭い部屋で酒ばっかり飲んでる、孤立無援の独居老人のドキュメンタリーを想像していた。

 

全く違った。

 

全く悲哀のない、予想外に明るい映画だった。健康的と言ってもいい。

 


映画『どこへ出しても恥かしい人』予告編

 

 

まず第一に、周りに人がいる。

人が多くて、場が暖かいのだ。呑むときには人に囲まれていて、呑みながら何かしら陽気に喋り続けている。ライブの打ち上げ、ライブ前の飲み会、行きつけの居酒屋、スナック、自室・・・ 驚いたのは、家族(4人の息子がいる)らとの関係も良好なことで、競輪で買ったの負けたのをわざわざ伝えたり、一緒に競輪場に行ったり、友達付き合いのように軽々としている。

人々はこの映画の撮影ゆえに集まったのかもしれない。撮影陣が一緒に呑んでいるから緩くポカポカしているのかもしれない。車の中で賑やかに楽器をかき鳴らして演奏しているシーンは、映画の撮影のために集められたという。息子も、映画の撮影を機に数年ぶりに顔を合わせている。

それでも、友川の類稀な人たらしの引力を感じずにはいられない。その人を中心とした集まりが自然と生まれる、そういう磁場がある。誰かしら巻き込んで「陽」へと反転させる力は本物だ。自室や競輪場で予想し、身を乗り出し、番号を叫ぶ後ろ姿にすら、必死さの中にどこか愛嬌がある。

 

「競輪」(ギャンブル)は確かに、友川の生活・人生にとっても、映画にとっても核となるものだが、本人がそれに振り回されているという印象は不思議と受けなかった。それが驚きだった。競輪という大きな力に乗り、熱狂しつつも、競輪の評を書いては夕刊フジへ原稿を送ることで稼ぎを得、稼いだ金でまた競輪に賭ける。ギャンブルのサイクルにうまく収まっているところがあって、賭け方が無謀ではなく、小出しで買っているようなところが興味深かった。それでも夜遅くまで競輪場にいるし、自室のシーンではいつもTVに競輪番組が映っているので、半端ではないことが否応なく伝わる。そんな番組が存在したのか。

 

競輪でひどく負けたエピソードも当然語られはするのだが、友川の笑顔と人柄の前では、悲惨さも霞む。

何より、競輪で負け続けても、友川には絵画と音楽がある。本作はその3本の柱がベースとなっている。

 

友川カズキは歌手として1970年代にフォークシンガーとしてデビューし活躍したが、80年代には画家としても活動し、作中では大島渚が絵を買っていったとか、中上健次とも親しくなったというエピソードが語られる。

その本質は高齢になっても変わらない。まず画家の性について、居間と風呂場で絵画を描く姿が描写されている。絵の具に何か別の素材を混ぜ込んでいるのか、火山灰土のように白くてドロドロとした液体が、奇妙な質感を見せる。競輪専門番組が流れるリビングで、意識を集中し、灰皿で絵の具をかき混ぜて絵を塗りたくる姿、そこから生み出される味のある絵は、型にはまらない力を存分に見せつける。その時間には、ギャンブルが付け入る隙はないように思われた。

 

そして音楽についても、友川カズキが格別の、唯一無二の存在であり、歌を歌うこの人のことを、ギャンブルが支配するなど到底できないと思い知らされる。友川の歌は画面を超えてこちら側の心を直接震わせる。縦波横波の振幅の大きさが半端ではない。小さなライブハウスでこだましていた前座の若手のパンキッシュな叫び声が、喉の表面を不器用に鳴らしていただけに思えた。魂から咆哮する歌。「生きてるって言ってみろ! 生きてるって言ってみろ!!」音韻全般に「ェ」の音が効いた、方言のような唸り声。

 

「生まれた時から途方に暮れている」と自身を語っていた、そんな人間の放つ言葉は、触れるもの全てを震わせる。

 

一体この人は何者なのか???

身持ちを崩したダメ人間の実態に触れようとして、私の器では理解のできない、規格外の何かと出会ってしまったらしい。恐らくそれは本作の監督も同じで、この映画は撮影から完成まで10年を要したという。他の仕事も並行していたことも一因だろうが、友川カズキという無形の人物像を把握し、有限の形でまとめることがなかなか出来なかったのだろう。

 

 何となくわかる。公園で水を浴びたり、競輪場で「くる!」「こい!」「いった!!!」「とった!!!」と叫び、負けたり、たまにべらぼうに勝ったり、訳の分からない塗料で絵を制作したり、仲間らと飲んんでいたり、とてつもなく良い声で咆哮して徨で空気を震わせたり、

競輪の刹那のドラマに叫ぶことと、ライブの昂揚の中で唸るように歌い上げること、そして型にはまらない絵を塗り、絵の具を垂らすこととが、友川カズキという一個の人間の中で全て繋がっている。そこに嘘や虚飾がない。そこに魅力を感じているのかも知れない。

 

・・・この人物をうまく形容できる言葉は観終わったあとも見付かっていない。ただただ健全な不良だということが、よく分かった。むしろ常識や制度に囚われ、得体の知れない不安と不快さを纏わりつかせて生きている「こちら」の方こそ、ずっと不良品のような気がしてくるのだ。

 

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( ´  ー` ) 完。