nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】R2.1/25_窓展:窓からはじまるアートと建築の旅 @東京国立近代美術館

【ART】R2.1/25_窓展:窓からはじまるアートと建築の旅 @東京国立近代美術館

窓を巡る表現のありようについて。しかし建築より写真作品が多いぞ。写真自体が外界との窓みたいなものですね。 

【会期】2019.11/1~2020.2/2

 

 

「窓展」と銘打ってマティスの絵画がサムネイル表示されていると、かなり誤解を生むかもしれません。射程は非常に幅広くてジャンルは多彩、近代絵画よりむしろ現代美術を「窓」の観点から再編集しています。

 

18時半、竹橋駅。地下鉄の行先を逆方向に乗り間違うなど辛い思いをしましたが、いよっ。やってますな旦那。

国立近美は、金・土は夜20時まで開いていて、遠方から美術鑑賞ラウンドに来た人間には超助かるのです。超。

さて「窓展」。タイトルのように、建築と絡められつつ、多数の写真作品が出展されており、いかに写真が「窓」の隠喩と表象に溢れているかがわかります。

 

展示構成はこちら。

 

1.窓の世界

2.窓からながめる建築とアート

3.窓の20世紀美術Ⅰ

4.窓の20世紀美術Ⅱ

5.窓からのぞく人Ⅰ

6.窓の外、窓の内_奈良原一高<王国>

7.世界の窓_西京人《第3章:ようこそ西京に――西京入国管理局》

8.窓からのぞく人Ⅱ:ユゼフ・ロバコフスキ《わたしの窓から》

9.窓からのぞく人Ⅲ:タデウシュ・カントル《教室――閉ざされた作品》

10.窓はスクリーン

11.窓の運動学

12.窓の光

13.窓は希望_ゲルハルト・リヒター《8枚のガラス》

14.窓の家_藤本壮介《窓に住む家/窓のない家》

 

 

( ´ - ` ) もりだくさんや、

 

二時間でギリギリ。

 

全体として、はリードとしての概論、「窓」が写真や映像で登場するよねという触りの部分。ラストのみならずセクション全体とも緩く接続。

で、古代や中世から「窓」というものが建築的に模索されていたことを振り返る。美術史、建築史、そして窓の歴史を概括する年表があり、これが非常に理解しやすかった。1700年代の貴重な古書が展示されている。

3、4では、美術において「窓」が題材となってきたことを示し、特に20世紀の絵画、ポップアート抽象絵画での扱いに注目する。都市化、近代化に伴うショーウインドウの発明が新たな「窓」を生む。そして現代に近付くにつれ、「窓」は抽象表現の重要のモチーフと化す。

は「こちら」―日常やマジョリティの世界と、あちら―マイノリティや特殊な環境にある人達とのとの境界面としての窓を扱い、では国境、越境のシステム自体を作品とした「西京人」のプロジェクト(窓は登場しないが、入国管理局じたいが国家間の「窓」となる)を紹介。そこから8,9へ接続し、個人の側から見た際の、社会との境界面としての窓が提示される。

10、11は、窓が絵画のジャンルから飛び出し、映像作品の舞台、題材となり、あるいは動的なオブジェクトとして自立する。

12は、写真。外界の光を取り込み、風景を映像化するための装置である。家=窓の内側自体をカメラオブスクラとする写真は、内と外を逆転する。

13,14では、「窓」とは何なのかが究極的に問われる。窓はあるのか? ないのか?

 

 

( ´ - ` ) マジもりだくさんや。

 

モリッ。

 

というわけで古来は建築の一要素であった「窓」が、美術のモチーフに、そしてそれ自体がオブジェクトとして立ち上がり、何かを語る/語らない。どっちや。

  

◆2.窓からながめる建築とアート

が一番手でなかったのがよかった。博物館的に時系列で並べることはせず、まず初手で映像、写真作品で「窓」の存在に触れてから、歴史を振り返ることになる。

書物、建築の図面が豊富で、時間が全く足りず、さらっと眺めるだけになってしまったのが悔やまれる。 

1700年代の書物。会場内でかなり地味なポジションだがとてもいい。読めませんけど。

反対側の壁面には、美術史、建築史、窓の歴史をまとめた年表が広がる。これも膨大なためじっくり見ている暇はない。

現代、ポストモダンの建築家らのスケッチ。ロッシとベンチューリが必須科目です。不勉強なので意味わかりませんが。

 

では、会場に入ってすぐの

 ◆1.窓の世界

で扱われているものはというと、まずバスター・キートンのシュールなモノクロ映画が入口すぐに展開。

家が倒れてきて、窓の部分でうまく主人公がすり抜けるというコメディタッチの短編映画。

写真は、横溝静、郷津雅夫の写真だ。写真では、人々が暮らしの一部としての窓に寄りかかり、また、家の内と外を結び分界するインターフェースとしての窓に寄りかかり、すっかり画面内に馴染んでいる。

郷津雅夫《Windowsシリーズは非常に力強いモノクロで、1971年からニューヨークのバワリー・ストリートで撮り溜められたもの。窓の枠に収まりきらない住民らの、写真のフォーマット、窓のフォーマットからはみ出して来るパワフルさ、「撮れ!」「メシ食わせろ!」みたいな力が溢れていて魅力的だ。被写体の人物らは窓を舞台装置のように使い、それぞれに個性的なポージングを見せる。

 

同じく窓を舞台にした住民の写真でも、横溝静《Stranger》シリーズは郷津と全く異なる。個々人のプライベートな時間が漂う。事前に依頼をし、互いの姿を確認できない位置から、窓際に立つ被写体を10分近い長時間露光で写し込み、本来は真夜中には見ることのできない、夜の部屋の中、個々人の"内"が写る。

 

 

これら20世紀後半の写真における、「窓」と人物の関連は、

◆3.窓の20世紀美術Ⅰ

で登場するウジェーヌ・アジェとは一線を画する。

アジェの窓(1910年、1925年)には、人は写らない。窓の向こうにあるのは商品の陳列である。ただのショーウィンドウだが、この窓は当時、都市化した街におけるマーケティングの装置であり、新しい近代都市の新機能であった。

 

それに対して、1948年のロベール・ドアノーは、ショーウィンドウの立ち位置を逆転させ、その内側から行き交う市民らの反応・反射を秒速で掠め取った。

例えば絵画勢ではマティスが、窓と人物の心理を絡めて描いていて、キルヒナーや長谷川潔は家の内側から真っ直ぐに窓を見た時の光景として、手前の窓枠やガラスと、窓の向こうにある風景をセットで描く。窓によるフレーミングによって風景が変質することを描いているようだ。  

その路線を写真によって押し進めていたのが、ヴォルフガング・ティルマンスの2作品《tree filling window》(2002)、《windowbox (47-37)》(2000) か。面白い提示だ。こうして並べられると、作品単体ではいまいち意味の掴みかねるティルマンスが何に挑んできたのか、その壮大な試みの一端に気付かされる思いがする。

 

 

セクション1でポッと登場する、

戦前の抽象画家・北脇昇《相関的秩序 L.C.M.》(1939)、《非対称の相称構造(窓)》(1939) では、自宅であった寺院の窓をモチーフとしつつ、抽象表現を模索した。「窓」抽象絵画との関連は後のセクションで特集される。

 

それが

◆4.窓の20世紀美術Ⅱ

で、デュシャンパウル・クレー、ハンス・リヒター、ジョセフ・アルバースマーク・ロスコらが並ぶ。

共通するのはいずれの作品も四角く、色で、配置であることだ。確かに窓という都市の垂直装置を浮かび上がらせたときに得られるイメージだ。なお、このあたりの作品の大半は撮影不可。 

 

 

5.窓からのぞく人Ⅰ

 では、林田嶺一なる、なかなか奇特な作品を繰り出す怪作家が登場する。美術史のフォーマットに乗っておらず、生の表現が声を上げているのだ。

なんと1933年、旧満州の生まれという、実に86歳の作家である。作品はゼロ年代初頭に作られたものが多く、満州時代の暮らしの記憶に由来するビジュアルを「窓」に刻み込んでいる。中には旧日本帝国の暴力性を告発するようなパートもあり、ただの自己表現の楽しみに留まらない迫力がある。

後に調べたところ、やはり美術の正史からは外れた存在、アウトサイダー的な存在であった。写真で撮ると可愛いが、現物が放つ粘っこさはすごい。

 

そして安井仲治《流氓ユダヤ》(1941)。不意打ちだったが、確かにこれも「窓」だ。どのコーナーにあっても説明が付けられそうな、多くの意味を備えたカットだろう。

 

 

6.窓の外、窓の内_奈良原一高<王国>

ここは奈良原一高のミニ個展コーナーとなっており、1950年代、人の世から隔絶された2つの世界を特集した<沈黙の園><壁の中>が展開される。奇しくも、「日本カメラ博物館」で同時期に開催されていた奈良原の展示と、内容的には大いに重なっていて面白かった。

日本カメラ博物館で見たものより、プリントがしっとりと美しかったことと、空間の余白があったことで、見え方はまた違った。こうして見ると、奈良原の作品は窓と扉だらけである。北海道の男子トラピスト修道院、和歌山の女子刑務所は、日常・こちら側とは別の世界であり、一般人はそこに立ち入ることはできない。

 

立ち入れない境界を扱う視点は

7.世界の窓_西京人《第3章:ようこそ西京に――西京入国管理局》

に接続、発展される。異国との間にある「窓」としての入国管理局のシステムそのものを模した、舞台装置であり、観客体験型の作品である。この企画は過去にも体験したことがあり、久々でうれしい再開。

入国審査は、踊ったり笑顔を見せることで通過できる。国連のマークのような国旗と、段ボールの壁、この緩さが、重々しく厳重な国家のシステム「国境」を、遊戯的なものに引き寄せて、身近に考えられるものへ転化させる。

 

休みの日の行先をどうしようと親子で話す中で、候補に挙がる「西京国」。自分で勝手にパスポートを作れば行けるという適当さが痛快。中国、韓国、日本出身のアーティスト3名によるプロジェクトゆえか、緩やかな国境横断が考察されている。

 

はい。

 

 

8.窓からのぞく人Ⅱ_ユゼフ・ロバコフスキ《わたしの窓から》

9.窓からのぞく人Ⅲ_タデウシュ・カントル《教室――閉ざされた作品》

は、それぞれ窓を介した個人と社会体制や歴史との関係を考察させる作品。どちらもポーランドの作家で、前者は映像作品。後者は舞台演劇と立体。

特にカントルの方は内容が重厚で、死が漂っている感。演劇「死の教室」は1975年の初演以来、世界各国で1,500回以上上演されてきた。このオブジェ空間だけでは内容は分からないが、 黒い箱状の部屋(教室)と、黒ずんだ影のような人形がとにかく印象に残る。ボルタンスキーと同じタイプの暗さだ。 

 

◆10.窓はスクリーン

では、一転してTV、ビデオなど動画映像、Webについて言及。そうこなくてはいけませんな。Windowsっていうぐらいですからね。

わあい。

JODI《My%Desktop OSX 10.4.7》(2006) 、手作業によってPCのバグ挙動のようなビジュアルを実演する動画作品。バグい。OSを手にした人類が迎えた新しい「窓」の挙動ということで。好きですね。

他にナム・ジュン・パイク&ジョン・ゴドフリー《グローバル・グルーブ》(1973)、ロバート・ラウシェンバーグ《スリング ショット リット #5》(1984)など。

 

 

◆11.窓の運動学

これまで題材や表象であった「窓」がそれ自体で立ち上がり、動くコーナー。自立したときの「窓」が発揮するポテンシャルが非常に面白い。

ローマン・シグネール《よろい戸》(2012)は、3台の扇風機の送風によって、窓がひたすら自動的に開け閉めされている。風でじわじわ扉が開いていく、自然の動き方が何とも言えない。バタン、バタンと音が鳴り響く。

 

個人的にここでの目玉はTHE PLAYの関連資料。1967年から関西で活動した芸術グループで、企画を打ち立てて実践し、行動そのものが作品であるという反芸術的な集団である。形のある作品を残さないため、活動は写真や映像、会報、DMなどの記録によって辿ることになる。

《MADO 或いは返信=埒外のものを愛せよ》(1980)兵庫県立近代美術館(現在の兵庫県立美術館の前身)の展示室の3.5×4mの窓を取り外し、美術館の内と外とを接続した。温度や湿度など様々な環境管理を厳密に行うことが使命の美術館で、外気を入れ続けるのは暴挙にも等しく、どういう交渉で成立したのか非常にミラクルな企画だ。よく実現できましたね。窓の機能とともに、美術館という制度、システムを立ち現わす。

《East Wind, Fine 東の風、晴れ》(1983)は、THE PLAYの主要メンバー・池永慶一個人による企画で、まだ埋め立て造成中の六甲アイランドに巨大な「窓」を設置したもの。

地中3m、地上11.2m、幅6.22m、厚み15㎝。とんでもない「窓」だ。今のSNS時代なら間違いなく話題になったろうが、約1か月間の会期で来場者は25名だったという。凄まじくかっこいい作品だが、時代が早すぎたのだろうか。

 

 

12.窓の光

いよいよ終盤。ここでは山中信夫とホンマタカシのピンホール写真が展開される。

山中信夫《ピンホール・ルーム》(1973)シリーズ3作は、自宅を巨大なピンホールカメラと化して外光を取り込み、周囲の像を捉えたもの。縦4枚×横5枚の構成は非常に大きく、映像に入っていくような鑑賞体験となった。自宅近辺の映像とは思えない深みがある。

ホンマタカシ《camera obscura》シリーズは、山中信夫の手法を活用し、物件の場所を変えながら様々な位置から富士山を撮影する、冨嶽三十六景。

写真の観点で捉えるとこれらはカメラオブスクラの原理として納得していたが、建築的に捉えると家の「窓」と密接な話になるというのは、見落としがちな観点だった。

 

 

残り2作品は、「窓」の意味をさらに前へ推し進めていく。

◆13.窓は希望:ゲルハルト・リヒター《8枚のガラス》

角度の異なる8枚のガラスは特殊性で、「約35%は鏡のように像を映し、65%は向こう側が透けて見える」。鏡でもあり、透過するガラスであり、こうして遠くから離れて見ると立体オブジェだが、近付いて覗き込んだ時には窓にも反射像にもなる。ガラス越しの光景は斜めに切り取られ、反射し、その反射がまた映り込んで・・・と、終わりのない空間の交錯が生み出される。

2019年には、大阪の「堂島ビエンナーレ」、京都・清水寺の「CONTACT」展で本作がお目見えした。リヒターは50年以上にわたってガラスをモチーフにした作品を制作しているとのことで、リヒの理解が進む良い流れが関西に来ている。リヒ好きなんですよ私。

 

 

最後にして最初の展示が、

◆14.窓の家:藤本壮介《窓に住む家/窓のない家》

会場内には、キャプチャータイトルと説明書きだけが壁に貼られている。作品自体は、実は、美術館の敷地、エントランスの外に立っている。夜で暗かったので気付かなかった。タイトルには「家」とあるが、窓がないので家として全く機能しそうになく、非常に考察を促すものとなっている。

窓どころか壁の大半がない。迷路のような建築物だ。

建築なのか? 夜空が曇っていて街の明かりを反射しているせいで、空が欠落した建築の壁や窓を何となく補完している。外気の寒さを防いでくれるものがないので、寒く、居住性は完全に「外」だ。しかし「建築」の枠組みに囲まれているという実感はかなり確かにある。「窓」の有無が何を生んでいるのか、窓が無くてもそこに窓的な機能は働いているのでは、そんな問いかけに満ちている。

 

 

というわけで面白かったです。

 

いつも面白がってますが大体面白いものは面白いんです。

 

( ´ - ` ) 窓。