【写真展】染谷學「ほうたれ」@gallery solaris
昭和の原風景がしみじみと広がる。手を合わせてお祈りでもするように、光と瞬間を写し取ったモノクロームの写真たちだった。
【会期】2019.12/17(火)~12/29(日)
時をかすめ取る瞬間芸たるストリートスナップの妙と、時の流れを恒久的に封じ込める銀塩の写真術とが同居した描写が魅力的だ。
作者が手づから焼いたプリントは、時間を生きたまま封じ込めていた。空、川、海が町にもたらす光が平面の内に溢れ、映像には生きた感じが満ちている。グレーと白の光を帯びて、空気自体が奥行きに満ちている。
かたや、写っているシーンはとても古い。昭和の、70~80年代の残響の真っ只中に飛び込んだ思いがした。しかしどれも過去の写真ではない。古めかしいフォントや文字の読めない看板、古い建物、雑草の生い茂った線路、いつの時代か分からないファッションをした老若男女。特に子供の姿は完全に時代を攪乱する。それらがゆるく交錯する場が、作品の舞台だ。
どう見ても昭和だが、信じられないことにどれも「今」、2010年代も半ばを過ぎた日本のどこかなのである。都市部、郊外から距離のある、地方の町なのだろう。日本列島いずこも画一化が進んだ今でも、ここまで「懐かしさ」を濃厚に湛えた土地があったとは驚きだ。
全国のどこの土地かはよく分からない。これらの写真は旅の中で撮られたものだ。
作者は2015年、50歳になったのを区切りとして、それまでのフリーカメラマン生活の仕事をすっぱりやめ、お寺の墓地で草むしりをしたり掃除をして生計を立てるようになった。そして1年のうち4回ほど旅に出て、旅先で撮影を行う。そんな営みを繰り返している。旅が、作品であり、人生のようなものだ。
1日5回くらいの旅で20本くらい撮って、よさそうなのが2枚。年に4回くらいしか旅に出られないので、年に8枚。3年撮れば24枚なので、展示が出来る。と思っています
旅に出ること、知らない土地へ行くこと自体が必然の行いとなっていて、行先や目的などは特にないのだろう。しいて言えば撮影が目的ということになるのかも知れないが、撮影旅行ともまた違う。それぞれの土地独特の風景や風俗がほとんど入ってこない写真群である。作者が漂うように、風の赴くがままに移動している姿が想像させられた。
前作の写真集『道の記』(蒼穹舎、2013)も見せてもらったが、もっと印象的で目を引く構図をきちっと狙い澄ましていた。熟練の写真家の仕事だった。それはどこか彼岸に触れるような世界観だった。世界をよく見ている、撮っていることが分かる写真である。比べると本作『ほうたれ』は、両手に何も持たずに写真を撮っている気がした。撮る、というより、写ったという感じなので、それを「お祈りのようだ」と感じたのだろう。
<★link>「写々者」_写真集『道の記』
https://www.shashasha.co/jp/book/michi-no-ki
だから私は、タイトルの「ほうたれ」とは、「野垂れ」をもっとマイルドにフラットにした造語だと思っていた。放牧のように、彷徨する、野垂れ。まさに出家した歌人が、つらつらと、ふわふわと随想を書き留めるように、スナップは風と光を語っている。「ほうたれ」の語源とエピソードについて、作者の語り口調がしみじみと良かった。あくなき旅人の言葉だ。
「ほうたれ食べるか?」愛媛県の宇和島にある九島という島を歩いていたときに、おじいさんが声をかけてくれました。
「ほうたれ」とは土地の方言で、かたくちいわしのことです。浜ゆでして干したほうたれはとても美味しく、私が喜ぶとコンビニのレジ袋に困るほどたくさん入れて持たせてくれました。
(中略)
最初「あほたれ」に聞こえたその言葉は、ずっと心から離れずにいました。
ほうたれ、ほうたれ、あほうたれ。
カメラをぶら下げてあっちこっちほっつき歩いているあほたれ、そう言われているようで嬉しくてたまりませんでした。
展示には流れがありそうで、結びは最後まで謎に包まれている。放浪、出家の旅のように、あてはなく、時間の流れもない。昭和の土地と写真の憧憬巡りに見えるモノクロームだが、画面に写り込んだ乗用車の型などから、紛れもない現在であることが分かる。モノクロで撮られているのは郷愁を表したいからではなく、今でもあり過去でもある、
作品の中には道路やバスなどの交通機関が多く登場する。どちらともつかない踊り場にて、あて先のない旅をし続けているのだという、作者の生きざまの表れだと感じた。歳を重ねるにつれて、人は目的や目標の内に生きることを好み、管理されることを求めがちだが、作者はそんな安心安全のモデルケースのうちには捕えられない、まつろわぬ存在であることを見た思いがする。
人生そうありたいものですね。なかなかそうなれない。
( ´ - ` ) 完。