写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】川崎祐「光景」@大阪ニコンサロン

【写真展】川崎祐「光景」@大阪ニコンサロン

時間の止まったような琵琶湖の凪が湛える、地元の家族ら、そして地元の町並み。それらが抱える時の流れを捉えてゆく。 

【会期】2019.12/5(木)~12/18(水)

 

 

水面(みなも)から始まる物語は、家族、地元を巡って、そして水面で終わる。物語の全ては静かな水の内に佇んでいる。

 

作者の出身地である滋賀県長浜市。ここは琵琶湖だろう。一艘の小舟かボートが、4枚1列に並んだ写真の中で、穏やかな水色の凪を真一文字に横切っていく。この並びの中では、物理的な時の流れが刻まれている。時間の矢であるボートの運動は、湖の水面を切り裂いてゆき、同時に、湖のブルーに飲み込まれていくようにも見える。

その4枚を除く写真群の時系列は、過去とも今ともつかないところを揺らめている。もちろん光学的には、作者が撮影を行ったその瞬間の光景が写るのだから、どれも「今」でしかないはずだ。手を振る二人の人物の影に誘われ、湖の水面の扉を開くと、作者の地元へと入り込む。その内では、かつての記憶、過去の暮らしの痕跡、今を生きる人々、変わり続ける町並みなどが現われ、時間が乱反射し、写真はたちまちに「今」ではないどこかを語りだす。本作の写真群では穏やかながら、水中で潮が様々な方向に流れるかのように、時の流れのうねりが見られる。

 

ステートメントなどによれば、これらのシーンは作者の地元、実家を巡って約6年の間に撮り溜められた作品群だ。登場する4名の人物:初老の男性と女性、茶色の髪で佇む眼鏡をかけた女性、そして遺影の中で元気におどける老婦人、彼ら彼女らは作者の家族だろう。

 

前半では家族に関するカットが非常に多い。廃墟めいた家の中の光景にぎょっとさせられる。人の住んでいる家にしては、荒れすぎている。実家とは別の、主を失った祖父母宅なのだろうか。遺された家財道具、台所用品は積み重なって固まっている。床に散らばる入れ歯の型の残骸に目が引き込まれる。恐らく歯科技工士だったのだ。誰が? 分からない。祖父か? 父親か? 分からない。

歯や石膏を削るのに活躍するのであろうリューターは、今度は窓ガラスを丸く切り出すのに用いられている。男性は切り出したガラスを運び出す。何をしているのか? 分からない。一つひとつのシーンの動作はそれとして、それらが連なる時に何が行われていて、どんな意味があるのかは謎のままだ。直線的には読めない、しかしエモーショナルな雰囲気への没入もできない。だが現実が記録されている。と思われる。映画なのか、写真なのか。創作のドラマなのか、ドキュメンタリーなのか。今なのか、記憶なのか。どっちつかずの、湖の中の物語。それが本作の特徴で、画期的な点だ。

 

古びた90年代ものの少年マンガ雑誌の束は、明らかに作者にとっての追憶にリンクする品物だ。一方、画面内に比較的大きく、はっきりとした輪郭で入り込む家族らの人物像は、作者の追憶や過去との照合ではなく、「今」、目の前を横切り、登場し、そこに佇む人たちとして現れる。短編映画の途中で静止ボタンを押したように、横切り、立ち止まり、振り返る。首、ともすれば顎から上で撮られた顔が、画面の大半を占めている。

これらは動的に「今」を語る。1本の矢としての物語性ではなく、写真群の中での関連性は少し切り離されて配置されている。そのため、カットの全体が面として、相補的にシークエンスを成している。ドラマなのかドキュメンタリーなのか判別できないのは、こうしてカットが自前で現在性を獲得しており、物語るための文法が後退しているからだろうか。それゆえ作者が個人的な情緒や追憶に浸ることを許さないし、また、鑑賞者のそれらからも自立した映像となっており、写真の登場人物らは、家族なのか、友人知人なのか、カメラ=作者との距離感を保留にしたまま、時を刻む。

 

後半は主に町の風景が写る。変わりゆく地元。とはいえ、部外者の我々にはその変化を認識することはできない。確かに、田畑や山ではなく、アスファルトの路面やセブンイレブンが写ってくるのは、まさに開発によって変化した表情の最たるものかもしれない。だが鑑賞者にとっては、全ては推し量るのみだ。そして、恐らく昔から変わらず在り続けてきた光景も並置されている。これも、察する他はない。これらの風景は、ミニマルに刻々と進みゆく時の流れそのものであり、同時に、総体としては何も変わらずにあり続けている、時の停留を示している。きっとこれが地方なのだ。

 

京阪神の都市圏から見れば、郊外のそのまた一つ向こうの町で、人知れずまたひとり、ふたりと「家族」が、彼岸へと旅立ったり、古くから続く家や店、空き地が消えたり、森は残っていたり、空は変わらなかったり、けれども住民は、家族らは、十年前と変わらないサイクルで、また新しい日々を生きていたりする。家族らには、一人ひとりの時系列がある。それらの変化や時間の流れを飲み込んで、湖は穏やかにたたずむ。きっとどの地方にも、この湖のような存在があるのだろうと想像する。山なのか、谷なのか、平野、河川、田畑、なんでもよい。そうして時の流れを受け止めて凪に変える、大いなるものがあるのだろうと思う。本作はその大いなるものがひとつの記憶のメディアとして、象徴的に湛えてきた漠としたビジョンを、カメラによって個別具体的に可視化させたように感じた。

 

各々の写真の――地元の光景のひとつひとつが抱える、小さな時の流れは集合し、混ざり合って、時折うねりを見せつつも、一つの大きな凪となる。大きな湖は水の流れを持たない。その水面には、強く光が照り返している。

 

 

 

結論はいらないと思う。ただ、漂うのみ。

 

 

 ( ´ - ` ) 完