【写真展】浦芝眞史「スパークリング in 森」@ギャルリ・ド・リヴィエール
「個人の中に存在する神様に蓋をしてしまう」大人たち。その解放された姿をとらえるという試みの写真だ。大人の男たちが全裸で、自然に溶け込む。
【会期】2019.11/16(土)~12/1(日)
会場「RIVIERE」(ギャルリ・ド・リヴィエール)は、吹田:地下鉄・江坂駅から歩いて10数分、住宅街の中にある。古民家を改装したもので、1階が暗室、2階がギャラリーだ。外観は完全に一般の家である。こんちは。おじゃまします。
( ´ - ` ) うわっめっちゃ家や。
家ですなあ。
玄関入ってすぐ、受付で料金を支払い、スリッパを履いて階段を上がり、2階へ。完全に友達の自宅に遊びに来た時のあれだ。小学校時代以来のなんかこう懐かしいな。
階段を上がるとそれぞれの部屋には、森や木々や全裸の男たちがいた。作品の多くが全裸ゆえ、こちらも作品をあえて接近して撮っていない。そのため本blogで掲示する会場写真では、本来の世界観は十分に伝わらないことを断っておく。
まず誤解なきように言っておくと、これらは男性のヌードではあるが、男性の裸の美やエロスの追求を目的とした写真ではない。舞台に立った結果としての裸である。彼らは熱帯魚のように、鑑賞や消費のために服を脱いだのではない。
この舞台の上では、役割を演じることから降りることを求められる。そこでモデル――演者らは、自己を玉ねぎのように何層にも覆うコードやモードを可能な限り脱ぐために・脱いだ結果、裸となっている。それはこれまで女性らが脱ぐ/脱がされる時に浴びせられてきた口説き・煽りの論調と同じなのではないか、との反論もあろう。だが後者の目的は、思いきらせ、脱がせて活きのいいヌードを撮ることであり、更にその目的は、一定の水準を満たしたヌードを広く行き渡らせ、不特定多数の男性を刺激させるものだ。すなわち商法、産業としての手法である。ここでは個人の役割は「よく消費されるヌードモデル」へと切り替わっただけである。
他方、前者・浦芝作品の裸には、それを消費する主体がいない。マーケットがないのだ。よって想定される観客もおらず、脱いだ彼らには切り替わる先の属性がない。ただただ、裸である。色々な要素がないのに、彼らは脱いでいる。何故なら、自己の担ってきた役割から降りること、これまで立っていたどの舞台からも下りることが、この作品の場における真の目的だからだ。この極地で出会う何らかの状況のことを、作者は「神」という言葉に込めている。
彼らの体は森や岩などの「自然」と馴染む。自然は背景としてではなく、体と対等な存在として、画面内で横たわり、そびえ、隆起し、陰影を帯び、光り輝き、濡れている。エロスのためのヌードではないと称したのは、モデルの周囲や足元の岩や木々に宿る肉感、みなぎる生命力によって、裸の人間達は画面内でより大きな肉、生命の一部と化しているためでもある。役割や記号性を脱いだ人間と、彼らと対等に厚みや膨らみの肉感を以って盛り上がる自然物とが、ポジティブにせめぎあう。本タイトルの「スパークリング」は、その初々しく弾ける生命感を表しているのだろう。
「神々の戯れ」という言葉が脳裏によぎった。お笑い芸人(モンスターエンジン)のネタではないが、奇しくもあちらでも登場するのは、上半身「裸」となった男性2人の「神」である。極端にデフォルメされたポーズをとりながら、一本調子のセリフで達観したシュールなやりとりをする。浦芝作品に登場する裸の男性らもまた、我々、社会に縛られで私情にまみれた存在よりも、どこか達観した領域にいる。彼らは生身の人間というより、どこか現実離れしている。衣服や記号、実社会での役割を脱いだだけではなく、個人としての経歴や感情、人生などの諸々の事柄をも脱ぎおいているように見えるのだ。
そのビジュアルは「男性」という枠をも揺さぶる。男性器はあるが、体つきや顔つきはバラバラだ。中には女性的な丸みを帯びた、女性に近いメイクの男性もいる。この男性たちは、先祖返りをして神に近付いた人間を表しているのか、と考えた。
違う。
そうであればこのような洗練された、繊細な肌や肉の付き方はしていない。体や顔はあまりにも現代人のそれである。周囲の自然と一体化していると書いたのは、動物種として自然に回帰したという意味ではない。ビジュアルや存在性の話であって、こんなに優しすぎる体では自然界で三日ともたない。蚊や蟻に食われて発狂するか、火も起こせずこごえ死ぬだろう。だからここはあくまで舞台であり、現代なのだ。
個人としての感情や過去といった、人間ならではの影の部分をも脱ぎおきながらも、体つきや顔つきといったナイーヴな個人はそっくりそのまま残されている。あくまで個は個として分化した状態で、それ以外の役割を脱いでいるのだ。だから先祖返りによる野生化で性別未分化の状態に至ったのではなく、逆に、多様性を突き詰めた現代、更にもう少し先、「男性」という役割すら無意味になるほどに個々の「生」を分化させた地点で、差異と同一性の意味がオーバーフロ-したところに立つ人間たちを撮っているのだと考えた。
彼ら男性モデルは「自然」に身を投じている。そして滑らかに自然の一部として振る舞う。ライアン・マッギンレーが同様にしてモデルらを裸で自然に放った作品を思い浮かべつつも、それらとはかなり世界観が異なると気付く。温度、湿度というのか、こちら鑑賞者側と、裸のモデルらとの距離感がまるで違う。マッギンレーの描く全裸の人間と自然との関係は、男女がともに登場するせいでもあるが、聖書を遡るような大がかりな物語を感じる。だが浦芝作品の裸と自然には、大きな物語としての信仰が介在していない。
あくまでモデルら個々人の内にある、言葉に起こせない何ものか(=神)と、モデルら自身がそれぞれに邂逅しているのだろう。我々鑑賞者はそれを外側から見届けるのみだ。それが多様化を極めた世界の掟だ。
市場や物語に基づかない、様々な個人の雑多な「生」の美しさを、できるだけそのまま捉えようとする試みは、前回企画展「触彩の性」でも重要視されていた。
女性にではなく男性の側にその役を負わせたことに意味があると思う。一つは、女性が役割から解放されることを描くとき、作品は何らかの形でジェンダー論に回収される可能性を帯びることだ。もう一つは、そこにすら行き着かず、単に(またも)女性を被写体として一方的に見られる側・聖なる・始原の存在として利用したものとして論じられる可能性があることだ。
作者が試みる役割前の状況、内なる「神」との邂逅は、そうした従来からの議論からも自由になる必要があったのだろう。もっと個人的な内なる邂逅のための舞台。そのためには、多様化を突き詰めた先に立つ、男性の分化後の姿を示すことが最適だったのではないだろうか。今、10代~20代前半ぐらいの若い男性は、これまで女性特有のしぐさ、習慣、言葉とされてきた様々な要素を、ボーダーなく生活に取り込んでいると伝え聞く。性差上の未分化さと、多様な個としての細分化という、矛盾に満ちた最前線に立っているのは、他ならぬ若い男性なのかも知れない。
色々なものを脱ぎ捨てて自然と対になった人間たちが語るのは、生きること自体の喜ばしさ、この体であること自体の嬉しみのように感じた。
( ´ - ` ) 完。
触発されたのかこのあと太陽の塔に行きました。ウフフ。