写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】mikko「±40」@Gallery Solaris

【写真展】mikko「±40」@Gallery Solaris

タイトルの「±40」(40プラスマイナス)とは、40歳前後、俗にいうアラフォー世代を指す。作者の身の回りにいる登場人物、そして作者自身の属性、境遇、特徴を最も端的かつフラットに言い表したタイトルだ。

【会期】2019.11/26(土)~12/8(日)

 

本展示は、作者にとって初の個展となる。本シリーズは2016年半ばから撮り始められた。作者と同年代の、様々な生き方を選んだ女性ら、『会社員、フリーター、セラピスト、専業主婦、育休中の会社員、安定した職を辞め新たな道に進んだ者など』が主人公である。

 

現代の写真作品には、共通項というか、欠かせない不文律がある。3つ挙げるなら、フラットネス、多様性、社会性だろう。

「フラットさ」とは、作者の個人的な主義主張は表に立たせず、あくまでビジュアルそのものや被写体を主体とし、それらに語らせることに徹する姿勢だ。「多様性」とは、「フラットネス」に通じるが、言わずもがな現代の社会・人々は画一的な言葉で語れるものではなく、特に写真や現代美術は権力や世論(=多数派を生成・強化したり、統制を強いるような言説)に抗する/から脱する役割が期待されていることから、個々人のばらばらの「生」(作者自身の生き難さ・語り難さも含めて)を認める姿勢だ。そして「社会性」とは、そうした個々人のナイーヴな、語りえぬ個別性を扱いつつも、伝えるべき相手は常に一般社会であるため、コンセプトやメッセージは仲間内輪の交流を超えた、部外者にも通用する指摘や提案、問題提起が求められるということだ。

 

本作はその3点をバランスよく満たしている。 

私と作者・mikko氏とは、同じ写真・映像系スクール(写真表現大学)で同じ時期から写真を学んだ仲間である。それゆえにどのような試行錯誤を経て、今回の展示にまで行き着いたかを一定理解している。

テーマは早期から決まっていた。「今しか撮れない写真」という時間的制約が強いことが、テーマ設定の最大の動機だったように思う。取材源となる知己も豊富であった。課題となっていたのは、撮ってきた写真をどう解釈するのか、同じ属性である作者自身は彼女らとどう関わるのか、であった。個性的で魅力的で、誰とも似ていない登場人物らについて、いかにして作者自身の中で距離を取りつつ、されど我が事として語るのか。まさに登場人物らとの関係性、そして作者自身との関係性とを問うてきた。そんな3年半だったと感じる。

 

「被写体に撮らされている」「この人たちに飲み込まれている」「一番最初の写真の方が面白かった」、講評の度に厳しいコメントが続く時期があった。被写体となる彼女らは、それぞれに強さと美しさを持っている。それゆえに手強い。無意識の賛美や憧れが、シャッターの動機を占めてしまう恐れが常に伴うからだ。だから講評には危機感があった。

私たちの子供の頃:昭和末期~平成初期に比べて、社会は大きく変わった。自分で自分の生き方、転職や起業あるいは退職、結婚あるいは離婚、その他様々な「選択」を主体的に行うことが、男女ともに、各段に自由になった。(まだ全然不自由だが。) ところが、実際に自分が「多様な」生き方を「選択」できるかどうかは、全くの別問題である。生来の性分の問題もあるし、外圧・内圧の有無もある。そんなわけで、ベンチャーマインドを持って独自の生き方を貫いている(ように見える)「個」と向き合う時、その力強さや美しさ(のように見えてしまうもの)に、思わず何かを譲ってしまう。写真であれば、主役の座を。文章であれば、一人称を。そうした作家活動上の構造的な危険性に対して、写真が単にファン写真、記録写真に留まらないための格闘、作者が作者として、彼女らと対等に、その場に存在できるための格闘が続いていた。

作者が最後まで譲らなかったのは、登場人物らの個性や「選択」を理解し、受け止めながらも、作者自身は変わらずに・同じように、そこに(対等に)「いる」ことを示すことだった。作中で登場する琵琶湖の凪には、そんな思いと、作家としての決意が込められている。

 

この風景群を、違和感なく、また個人的な心象光景とも異なる視座として打ち出すことに、本会場ではバランスよく成功していると感じた。人によっては、作中の登場人物らの心身や暮らしのコンディションを暗喩しているようにも見えるかも知れない。誰もが必ずしも順風満帆とは限らない、時には見えない闇の中にある、そんな想像もできよう。

最も困難だった作業は、そのような作者のスタンスの表明のみならず、総勢10名前後にも及ぶ登場人物の「選択」した「生き方」をいかに見せて伝えるのかという、コンテンツ量との編集力の闘いでもあった。一人あたり2~3枚ではうまく伝わらない、だが人物間で扱いの軽重を付けることは望ましくない。客観的すぎるセレクトでは何も伝わらない、主観に走れば琵琶湖の風景の意味がブレる。そもそも会場に収まらない…等等。冒頭で「バランスよく」と評したのは、そうした懸案課題をうまく解消した展示になっていたためだ。 

具体的な解決策として、登場人物1人につき4~6枚でグリッドを組んでフラットな構成をとり、取材した全員を均等に取り上げた。会場に収まるギリギリのサイズまで小さくし、全カットを同じスケールとした。またフレームも、予算をにらみつつ、主張の穏やかな既製品を大量に入手できたため、会場全体の調和が取れている。

こうして徹底的にバランス感覚に力点が振られた本展示は、冒頭に挙げた三点の要素を踏まえつつ、同年代の女性らの「選択」を全面的に受け止め、穏やかに肯定するものとして仕上がった。これまでの奮闘の経緯を知っている身としては、安心して観ることができました。お疲れ様でした◎

 

「自分と同世代の女性らを撮る」というテーマは、今まさに始まったところだ。

 

今、話題の作家・インベカヲリ★とは、対象の射程が似ているが、中身が真逆だ。インベ作品の登場人物は、自己責任社会の最前線(底辺)に位置する。組織や集団の要請する、本人のものですらない、不特定多数の他人の押し付ける「自己」と「責任」までをも、何故か半無限に一身に引き受け、受け切れずに壊れてしまうような女性達だ。mikko作品に登場する人物らは、真逆の自己責任論を生きている。つまり相当程度、理性的に自分の人生を「選択」し、マネジメントしている女性達だ。極端な比較だが相対化するとそのような違いが明白にあり、後者の登場人物らは圧倒的に「普通」である。「表現」によって心身や「生」を曝したり訴える必然性が薄いとも言える。自身の生き方によって一定の「責任」の完結をみているからだ。

写真家としては今後、登場人物らの「生」の受け止め、肯定が、一体どこまで及ぶのか――共振となるのか、介入となるのか、挑発となるのか、はたまた...  と、彼女らの「何」に訴え、「何」を伝えるのかが、より問われることになってゆくだろう。登場人物らの「多様さ」を担保するものが、服装と仕事場のビジュアルのバリエーションに留まるとしたら、それは職業図鑑を現代的に改定する作業であり、女性の項目を増補しているのだとも捉えられかねない。

 

勿論、作者の本心はそこにはない。本心は、琵琶湖に射す光にあるのだろう。

普段は穏やかで親しげな琵琶湖が時折、悪天候や真っ黒な夜の中で、不意に見せる深淵な闇。見ているだけで抜け出せなくなりそうな、海よりも静かで深い闇。その水面を照らす、一条の月の光が、彼女らの「生」に深くリンクする瞬間を、そして作者自身の内なる光源と、細い糸で繋がり合う瞬間を求めて、作者はシャッターを切っている気がする。その契機がどこにあるのか、鑑賞者は期待するようになるだろう。何よりも、作者自身が渇望するのではないだろうか。作家としてのサガゆえに。

それは、本作ではまだカメラの及んでいない部分、更に深い関係の構築によって掴み取られるビジュアルのことかもしれない。個々人の「選択」の後に、彼女らがどのように生き抜いていったか、時の経過を追い続けながら刻んでゆく先に見えるものかも知れない。写真というメディアの総合的な解像度があばき出す何物なのかも知れない。いずれの選択肢においても、今まで以上のある種の踏み込み――積み上げたバランスを突き崩して、また積み直すような、少しばかりの残酷さを伴う仕事になるのではという気がしている。

 

40年前後という、半端ない年数を生きてしまった、まだ若輩者の私たちが、人生これから、何をどこまで出来るのか。そんな内省も込めつつ、ひとまずは、組織で粛々と働く傍ら、本名を潜めつつも写真作家を務めるという、作者の勇気ある「選択」に乾杯したい。

 

 

( ´ - ` ) 完。