写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】一之瀬ちひろ「きみのせかいをつつむひかり(あるいは国家)について」@大阪ニコンサロン

【写真展】一之瀬ちひろ「きみのせかいをつつむひかり(あるいは国家)について」@大阪ニコンサロン

光や風のようにしてそこにあるものが、国家、法の存在である。当たり前のようで、常に忘れられている。 

 【会期】2019.10/24(木)~11/6(水)

 

 

昔、色々あって憲法民法を勉強していた時期があったが、その時はっきりと分かったのが、私達人間の生活や仕事などの営み全般が「ゲーム」だとすると、法というものはゲーム上の挙動や仕組み、つまり世界を統括・制御している「設計書」「指示書」なのだということだった。

キャラがどんな風体か、どのようにどのぐらい動けるか、どのように立つのか、どんなコマンドが出せるのか、どんな行動にどんな効果があるのか、どの場面で何ができて何が出来ないのか、etc、etc。さらにもっとメタなところでは、その「世界」における「私」――自キャラとは何か、味方・敵とは何か、どういう形でその世界に「いる」ことにするのか、それらの関係の間でどのようなコミュニケーションの形を可能とするのか、etc、etc。そうした全てのことを規定している「約束事」の根本にあるものが、すなわち現実世界で言う憲法や法律なのだと実感した。それはプレイヤーには与えられたシステム=「世界」の姿として溶け込んでいて、直接見ることは出来ない。

 

本展示は、眼には見えないが、私達の生存、日常のあるところ、全てに憲法の効力、すなわち国家の存在が及んでいることについて、自覚的に撮り、編集したものだ。 作品で撮られている光景は、あくまで作者の日々の生活である。作者のステートメントがそのことを分かりやすく表している。

生活の中で触れている風景やもの、たとえば、家から駅までの道のりや、通勤途中の車窓からの眺め、学童クラブにお迎えにいくときの夕方の毎日違う色の街並み、それから子供との会話、そういう色々なことに反応して、毎日何かを考えたり感じたりしている。気持ちや考えだけがひとりでにあるのではなくて、具体的な毎日の暮らしと連動して、風景や出来事に反射して、身のまわりのことや一緒にいる人と混ざりあって、思考が動いている。 

 

作者は暮らしの中の何気ない、あらゆる場面、瞬間において、そして自分自身の心身においても、法、国家の存在が働いていることを認める。それは光や重力などと同じく、広範に効力が及んでいることを捉えようとする。一見、センスがありエモーショナルな写真の中には、色味や空気感の良さといった「雰囲気」が満ちているが、その正体は、地学的に言えば天体の運動が生み出す風や光の力であり、法学的に言えば、暮らしを覆う法の効力、国家の権能による恩寵の力とも言えよう。あなたは誰のおかげで平和に暮らしていけているのですか? そのような問いをも孕みながら。

日常景には書籍の写真が織り込まれる。ハンナ・アーレント国民国家の没落と人権の終焉』や、ホミ・バーバ『散種するネイション』などのページだ。多くのマーカーが引かれ、書き込みがなされている。国家、政治、主権、市民、人間、時間と空間、平等、などといった概念に対して作者が思索を巡らせている様子が分かる。眼には見えないがそこにあり、効果をもつもの、権力なるものを相手取るには、哲学を以って抗せねばならないということが分かる。物理化学を理解しない者には、重力や光の存在、メカニズムは認識できないのと同じことだ。

作者の態度は冷静で、あからさまな批判を繰り出すものではなく、ただただ、透明な空気や光のような法の権能を踏まえて、日常を見つめ、捉えている。腰を据えた姿勢を崩さない。

 一方で、ステートメントにある通り、その強大で透明な力が及ばない領域をも見たいとする作者は、自身の子供に多くの眼差しを寄せ、そこに、まだ法の内在化されざる存在としての可能性、美しさを認めている。子供は何歳の時点から国家の一部となるのだろうか。その波打ち際の、海中へと飲み込まれるか否かのはざまを見ようとし、二人の娘の姿を撮り、彼女らが書いた落書きやメッセージを集め、自身が書き留めた憲法の条文や哲学書の一節とともに並置する。

 

本作では、世界は誰のための、誰のものなのかという普遍的で重要な問いを問うている。法という見えざる、厄介な権力が機能していることを作者は認識し、本来は光学的に写らない制度を、輻射熱を感知するようにして日常の中から浮かび上がらせる。

人は、好き好んで国家へ従順あるいは恭順しているわけではない。一部の層は声高に国への積極的帰属を尊び、その姿勢を美と評価することを憚らない。言外に、帰属せざる者、できぬ者に対する深い断絶と排他を孕み、時に示威的な煽情パフォーマンスへと繋がる。多くの人はそうした態度に与することも触れることも面倒だと感じている。一方で、積極的に国や法へ反発し批判的に振る舞うことの面倒さ、コストの高さも自覚している。そのため、国への帰属と批判を適宜、日替わりで繰り返すという実用的な中庸の姿勢を保ち、日々の生活を送っている。

作者は哲学書にマーカーを引いて読み込み、それを写真に撮る。静かで、極めて、批判的な態度である。本を読むこと、思想を持つこと、そのことを映像化すること。それは、国なるものの醸す空気感へのスマートな帰属が求められる――表現の自由を自制することが焦眉となっている現在の状況において、重要な取り組みだと感じた。

 

会場では、壁面での写真作品の展示と、フロア中央に机と椅子を配し、その上に写真集の展示を行っている。テーマは一貫して同じなのだが、手作り写真集『日常と憲法』(2016) は本展示の原点となったもので、掲載されている作品や手法が展示とはまた異なる。

作者の娘が描いた落書きなどと、国、法の存在とが並置されるとき、多感な子供の成長段階の中で、見えざる法の一部となる/免れて生きる姿の揺らぎを見ることになり、妙にスリリングさを感じた。それはまるで、性の目覚めの起源、兆しを目の当たりにしてしまうような、我々の出生の秘密に関わるものを見る思いがしたのだ。発達段階をとうの昔に終えた我々は、もはや国家、法の一部として完成されており、出来得ることは、それらの存在に気付くか気付かないか、認識するか無視するか、従うか抗うか、といった選択肢を選ぶことぐらいなのだろう。

 

果たしてそうなのだろうか。何か思い付きそうで、思い付かずに、いる。 

 

 

自分の生の由来を振り返るような思いをした。よい展示だった。

 

 

( ´  ー` )完。