nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】岡山芸術交流「IF THE SNAKE もし蛇が」2019 ③(林原美術館、岡山城)

これで岡山芸術交流2019は〆です。動画系作品が主です。やはり人工の生命、プログラム、個の生と総体としての生、といったテーマが浮かび上がる展示となっています。何度か通いたかった。

 

 

 

 

 朝8時前から岡山入り、9時から作品鑑賞、12時半に飯というさくさくした進行です。このあと15時には鑑賞終わります。はやい。

www.hyperneko.com

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最後は【G】林原美術館、【E】岡山城、あたりを回って終了です。14時半には終わってやることなくなりました。2年前よりかなりスリム化した印象。

 

その前にやで。

 

◆中華料理 山珍(さんちん)

( ´ - ` )ノ なかなか◎

丼です。なかなかうまい。豚まん的なものが名物らしい。

 

かいふく&セーブをしたら、散策再開です。

 

 

【G】林原美術館

(  ╹◡╹) 城!??

 

ちがうわ。

 

2年前に来て観てるはずなのに何一つ覚えてないことが発覚。近年の記憶力がザルすぎて老後が不安です。さて。

 

◆【A&C 4】ヤン・ヴォー『我ら人民は(部分)』

これは作品・・・ではない。案内板です。作品みたいになっている。入口とは逆の裏側(中庭)に回り込みます。

 

金属片。銅です。でかい銅。人の背丈ぐらいある「片」。

クイズ番組みたいな作品ですが、これはある「物」の原寸大パーツです。わかるかな。

 

答えは「自由の女神像」。原寸大の女神さまを300のパーツにバラした、その1部だそうで。言われるとこのレンガっぽい表面の模様とかカーブは納得する。アメリカという国家の精神や国家の在り様の象徴が、バラバラ。何とでも解釈できそうだし、現代アートでなかったら炎上していそうな話だ。作者のヤンはベトナム人ですが、4歳の頃にサイゴン陥落で国外にボートピープルとして逃れ出たという経緯があります。それが内向的な作品にならず、国家のアイデンティティーを考えさせる作品に昇華されている点は、学ぶべきところがあるでしょう。

 

正面に戻ってきました。入ります。

 

館内です。空虚です。本来あった作品は全て撤去され、あるのは通路とガラス張りの展示コーナーだけ。ガラスと枠の照り返す照明光が虚無感をかきたてます。私が入った時、ちょうどパフォーマンスが行われていました。 リアルな少女が観客に向かってセリフを独白し、そして聴かせるだけではなく鋭く問いかけを行う。観客は戸惑う。答えていいのかどうか? どう答えればいいものか?

 

◆ピエール・ユイグ『2分、時を離れて』

アン・リーというキャラの映像が自身の体験を語る。

このキャラは法的・仮想的に自立した存在だ。まず元々は日本の代理店が版権を持っていたが、ユイグがそれを購入。次に、様々な作家が本キャラを用いた映像作品を制作したが、作家らはキャラクターの版権をキャラクター自身へ譲渡した。よって、彼女は商品でありながら、ユイグの手からも離れており、自分の存在の根拠を備えている。

彼女は言う、
わたしには2分ある。あなたの直線的な人生の中の2分間。
どうせわたしが物語に登場しても、そんなに長くいられずに忘れ去られていたでしょう …2分もしないうちに、わたしは消える。
わたしの名前、わたしの名前はアン・リーアン・リー。よくある名前。
わたしは動かない画像、皆さんに差し出される根拠だった。
そして動きを与えられたけど、それはあらすじのある物語によってではない。
違う …あなたの想像力に囚われている…あなたのそれが欲しい…。
わかるでしょ、あなたの娯楽のためにわたしがここにいるんじゃない…わたしのためにあなたがいる!

展示品が何もない薄暗い美術館、周囲や背景が空虚な状態で、表情や個性を欠いたキャラクターがセリフを喋り出すので、相当な虚無感が漂っている。瞳の中には光も宿していない。元々は記号、消費、娯楽として作られた存在だったのだろう。だが先述のような権利関係の経緯から、彼女は単なる消費されるだけの、可愛い少女キャラクターなどというものではなくなっている。彼女は虚ろに立ち、向かいに立つ私達を吸い取るように、光のない眼差しを投げかけている。

彼女は一体何を考えているのだろうか。セリフは残念ながら英語のため分からない。彼女は何もない美術館に漂う、美術史に漂う亡霊だろうか。自我はあるのか、何のために喋り出すのか。もっと知りたかった。

  

◆イアン・チェン『BOB(信念の容れ物)』『BOBのいる世界(教典その1)』 

これが「BOB」、Bag of Beliefs である。芋虫やムカデに似た形態で、ゲームやアニメのモンスターのように可愛らしい外観をしているが、動きの定まったキャラクターではなく、AIを搭載した生き物である。せわしく動き回り、食事し、新陳代謝し、成長し、死んだりする。一体ではなく、複数体が動き回る。神話に登場するヒドラのように、複数に枝分かれした首がある。複数の頭はそれ自体が胴体のように、あるいは脚のように目まぐるしく入れ替わり動き回る。これは単一の個体なのか、多数の生命から成る群体なのか。そして生きているかと思ったら不活性になる、死んだのかと思ったら生きている。その顔は昆虫やモンスターというより、土地の神様のようだ。

 


岡山芸術交流2019_イアン・チェン《BOB(信念の容れ物)》1@林原美術館

 


岡山芸術交流2019_イアン・チェン《BOB(信念の容れ物)》2@林原美術館

BOBにはユニークなAIモデルが搭載されており、そこには動機付けされた「悪魔」の集団と、知覚経験を通じてルールに基づく信念を学ぶ感応式エンジンが含まれています。それぞれの「悪魔」は、自分の小さな目的を達成することに執着する小さな個人です。

説明文にある「悪魔」がどの部分を指しているのかは分からなかったが、大まかな生態の仕組みは理解できた。

BOBの生命、運命を司るのが、画面内に投げ込まれている様々な形の物体だ。観客はBOBの動き回る姿を一方的に観るだけでなく、専用アプリ「BOB shrine」を手元のスマホにインストールすることで、奉納物(餌?)を投じることができる。この餌には刺激の2つの軸「cursed - lucky」「orderly - chaotic」のパラメーターが設定できる。この刺激のパターンを元に、BOBは様々な反応を示す。ただし、スマホからは奉納物(餌)を投じるのみで、BOBの姿を確認することはできない。また、モニタ上でも即時反応はせず、タイムラグがあるようで、ダイレクトにBOBとやりとりすることは出来ないようだ。 

これがアプリの起動画面だ。ユーザーそれぞれの名前に応じた「Shrine」(聖堂、廟)が立ち上がる。BOBはここには直接現れず、与えた餌(お供え)は見えない何ものかへと投じられる。まさに神社に祀られている神様のような存在だ。

 

お供えは岩やキノコ、黒い球体などが選べ、それぞれのパラメータを変更でき、それによってBOBの性格や運命に影響する。岡山芸術交流が終わった今、BOBの姿を確認できないので、アプリで何をしても分からない(でもどこかで生きているはず…)のが残念だ。 

私が見たBOBの姿はわりと大きく、体の枝分かれが進んでいたので、生育がかなり進んだ状態だったのかも知れない。知人が鑑賞に行った時には、かなり小さく粒のような形態だったという。新陳代謝、生命のサイクルを持っているのだ。この後どうなっていくのか、アプリか何かで確認できればありがたいと思う。というのも、BOBをかなり好きになってしまったらしい。画面に夢中になっていた。不規則で、予測のつかない動き、燃えたり飛び上がったり回ったり…。

 

BOBの世界観、設定を書き起こした漫画。これも相当なボリュームがあり、もっと時間をかけて読みたかった。

このように、流れがあるような、ないような、一筋縄ではいかない漫画なのです。「AI付きヒドラがエサ食ってる」だけの映像に見えがちだが、もっと深い世界があるようだ。またどこかで再開したい。

 

 

( ´ - ` ) 移動しましょう。

 

【E】岡山城

岡山城。黒いなー。軍事施設という感じがムキムキする。ほんと黒いなー。観光名所というより軍人の香りがする。岡山市街地は施設がキュッと詰まっていて歩けばすぐ着く。岡山城もすぐ。林原美術館から10数分後には城。近いなー。城の中ではないですが、廊下門、不明門に映像作品があります。

 

◆ポール・チャン『幸福が(ついに)35,000年にわたる文明化の末に(ヘンリー・ダーガーシャルル・フーリエにちなんで)』

(  >_<) 普通に怖い。

世界報道写真展で見るような、人間社会、人間の歴史の不穏な有り様が、より一層凶悪になって戯画化されていて、銃を持った民兵のようなやつ、民家に火をつけるやつ、指導者っぽいやつ、そして死んでるのか横たわっている民が描かれる。絵はキャラの手足など一部分だけがカクカク動いていてより一層不気味さが漂う。銃を構えて撃ち続ける兵士、燃え続ける炎。日本人にとっては遠い光景だが、これが世界のどこかで繰り広げられている悪夢なのだろうか。


岡山芸術交流2019_ポール・チャン @岡山城

絶えず何か不穏に響く音が背後で鳴っていて、この世のどうしようもなさが漂う。H・ダーガーは妖精めいた子供の群れを描いた人、アウトサイダー・アートの代表格と言われている。C・フーリエは18~19Cの哲学者で、情念引力や四運動の理論などを提唱した、空想的社会主義者と言われる。

 

 

◆リリー・レイノー=ドゥヴァール『以上すべてが太陽ならいいのに(もし蛇が)』

今回の岡山芸術交流を総括するような映像作品。これまで辿ってきた作品の展示場所を舞台に、全裸のパフォーマーが踊っている。

踊り手は作者である。見覚えのある、観客のいない、まだ魂を吹き込まれる前の展示会場で、それは逞しい筋肉を以って、四肢を曲げたり伸ばしたり、飛んだり跳ねたりくねったり、リズミカルに動作を繰り返して踊っている。浅黒く、見事な筋肉の盛り上がりと光沢、凹凸、表情は顔にではなくむしろ体と動きの方にあり、それは「誰か」を問わない。それが踊ると、何者でもなかった真空の空間は徐々に異質な場へと覚醒していく。

体は神出鬼没、音もなく、黒く、くねり、揺れ動きながら、場に留まり、場を立ち上げる。肉体はメディアなのか、いやもっと歪で妖しく、美しい何かだ。踊りによって全会場が繋ぎ合わされてゆく。本作のタイトルに「(もし蛇が)」とあるように、今年の芸術祭全体のテーマへ強く接続されるものだ。肉体、踊りは個々の作品を直線的ではなく、うねるように結び合わせてゆき、それらは全体でひとつの繋がりを持った生体となって立ち現れる。

 


岡山芸術交流2019_「以上すべてが太陽ならいいのに(もし蛇が)」1

どこまでも科学的で、最新技術を用いられた作品群の中で、最もプリミティブな手法の作品だった。とにかく目が惹き付けられて痺れてしまった。なぜ人間が踊るという行為は目が離せなくなるのだろう。理論ではない、何かの力がある。それを見ているとトランス状態に陥るようだ。写真で切り取ってしまうと本当に全く意味が変わってしまうが…。 

 

 

城の散策を終えて、城門を出て下りていくと、菊の盆栽の展示会をやっていた。ほう、これはりっぱですね。

 

おや、

 

( ´ - ` ) ???

 

この日本語の、誠実さを装いながら根本からぶっ壊れてるようすはどうですかよ。文法がやばい。句読点の打ち方ひとつとってもクレイジーな力がありますね。花の絵文字は一体なんなんだ(誉め言葉)。

 

 

【H3】エリザベス・エナフ『ドリフト』

お城のお堀の水中に何か浮いてる。

《ドリフト》は、岡山の水生環境をマイクロバイオームの視点から調査するもの。インスタレーションは、DNAを埋め込んだ出版物と、サンプリングした場所を示すブイで構成される。

なんかもう説明文を読んでも何が行われているかわかんないんですが、とにかく目に見えない生物とか生態系と人間社会をからめてるということで理解しました。観ても全然わからん。

 

 

( ´ - ` ) これで大きな会場で、観れるところは全部観ましたね。

まだ14時半前。岡山散策するなら余裕がある時間だが、さんざん今まで市街地を歩き回ってきたので満腹感がすごい。

 

【A&C 7】ペーター・フィッシュリ&ダヴィット・ヴァイス『より良く働くために』

前回から展示されている、ビルの壁面の文字が作品。確かにまあ、こういう教条を守るように日々の職場でも管理・教育されてるように思いますね。笑顔とかね。メンタルバランスとかね。アンガーマネジメントとかね。しゃらくせえっっ。全人類サイコパスかよっっ。まあ笑顔で生きていきましょう。

 

【A&C 3】ローレンス・ウィナー『あっしゅくされた こくえんのかたまり このようなほうほうで ぼうがいにかんして ちゅうせいしのながれとともに あちら こちらに』

『より良く働くために』と同様に、ビル(シネマ・クレール丸の内)の壁面に展示されたコンセプチュアルな作品。日本語で短文ぶつ切りにされ、文章が途中で終わっているせいか、より謎めいている。余韻を残しながら宇宙の躍動を描く詩編は、彫刻のように響く。 

 

14:45頃。これで本当に観られる作品は観てしまった。やることがなくなった。

じゃあ散策しましょうか、と言いたいところだが、岡山の市街地は大阪に比べるとなかなか地味で、そら、そうやと言われるだろうが、まあその、やることが完全になくなってしまった。今思えば、理解しきれなかった作品を再考しに行くとか、幾らでも仕事はあっただろうと思うのだが、さっさと帰宅して写真やデータの整理をしたいという気分になった。なってしまったの。

 

岡山駅の南東、ちんちん電車の通っている大通りから南側のエリアが繁華街で、駅近くには高島屋と大きなイオンがある。飲食店の並ぶ界隈を通って駅へ向かったのだが、都市部というより絶妙に地元、田舎で、私にとっては大阪や東京を撮るような感じで散策するのとはニュアンスが異なる気がした。人様の「地元」だということです。帰ろうかな。

 

モンスター発見。ちんちん電車です。これはいいですね。地元のものではない。

 

JR岡山駅に戻ってきた。

このあと、同行していた小唄氏をおいて、先に大阪へ帰りました。総じて面白かったですが、ここまで早く回り終えるとはさすがに思っていなかったですね。前回が本当に巻き巻きで回ってぎりぎり17~18時に見終えたのを思うと、まあボリュームは2/3以下だったのでしょう。それでも十分、最新のテクノロジーに基づく思考を堪能できたので、収穫がありました。日本人の思考は抒情的すぎるということも。

 

( ´ - ` ) 完。