写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】小さいながらも確かなこと 日本の新進作家 Vol.15(森栄喜、石野郁和)@東京都写真美術館

【写真展】小さいながらも確かなこと 日本の新進作家 Vol.15@東京都写真美術館

関西住まいなもので、年1~2回上京できればよい方だが、そんなことを言っているうちに「最新の」「新進の」「現在の」、は、更新されまくっていて、本企画『日本の新進作家』展も15回を数えるまでになっていた。関西の時間が止まっている訳ではないと思うが、こと、メディア表現における現代社会との接続性、問題提起にかけては東京の方が意識が速いと言わざるを得ない。速いす。

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本展示では全5名の作家(森栄喜、細倉真弓、ミヤギフトシ、河合智子、石野郁和)が取り上げられていた。時間的限界から今回は、最も気になった2名の作家(森栄喜、石野郁和)について気付きをメモする。なお個々人のキャリア、テーマの取り組みについては図録が詳しいのでそちらを参照されたい。私の感想は作家ステートメントならびに作品の経歴を忠実に踏まえたものではなく自由にドリフト(誤読)している点をご容赦いただく。ドリフトのない鑑賞は死人の目線だ、と誰かが言っていた。うそです。はい。

 

■森栄喜(もり えいき)

赤い。全部赤い。写真と動画の展示、写真は『Family Regained』シリーズ(2017)より。家族景が写し出されているが、赤い写真で、動画も赤い衣装をしている。家族という制度、枠組みの中に本来通っている血縁、血の繋がりを赤色のレイヤーへと血抜きして浮き上がらせつつ、その内臓である構成員を入れ替え操作を加えている。「家族」とは、縁というレイヤーと構成員という物的単位から出来上がっているらしい。

解説によると、作者自身が、無関係な家族やカップルなど40組の一員に加わり、撮影されているという。


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この違和感は一目で判る。大人の女性1名に対して大人の男性が2名だったり、男性が3名いたり、見た目上「男性」が余剰気味であることがまず違和感として浮かび上がる。また、家庭や生活景に上半身裸の男性が居ることの、「性」についての問い掛けがなされていることが明確で、家族、私的な関係における同性愛の問題、言わば、規定された形以外の「家族」や「カップル」のありようを投げ掛けていることに気付く。

私自身が強く気付かされたのが、「家族」に正解を、官製パッケージ品を求めるような視点が備わっていることだ。その確認手順は強固で、①人数確認 ②性別確認 ③年齢確認 ④マッチング確認 ⑤容姿容貌確認(服装、髪型、表情等)、といったフローが内在しているのを発見した。このフロー内に疑義が生じた場合、「わけありかなあ」とか「家族ではないのかもしれないなあ」と判断し、一般儀礼的な対応(「部長~、お嬢さん大きくなりましたねえ~」「奥様もお元気そうで~」等の社交辞令)を一旦留保する。社会ではむしろ留保しなければまずいことが多い。

 

森氏の真っ赤な映像は、「家族」「カップル」といった最も私的な関係性が、実は官製システムとなっていて、視覚上の文法としてさえも私たちの体に埋め込まれていることを静かに告発する。

そしてその上で、他の形の可能性(男性同士のパートナーに子供がいたら、等)をビジュアルで示してみせる。「多様性」という言葉を、政治や行政におけるスローガンやマニフェストから、個々人の切実な日常へ落とし込み試みだ。多様性という言葉は便利で有用だが、実用に当たっては刃物のようなところがあって(全ての言葉がそうなのだが)、それ自体に多様な人生や生活があるのではない。状況整理のために使う分には良いが、刃物自体はご飯として食べられはしない。人様にそのまま差し向けるとまさに脅迫的なことにもなりうる。森氏の映像の赤さは、まず「多様性」(という正論)を向ける前に「血」、「縁」をオーバードライブさせて鑑賞者に向かわせ、正論の押し付けを避けているように感じられる。

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成人男性2人と子供1人の疑似家族3名が、街中で通行人に記念写真を撮ってくれるよう依頼して回る映像作品『Family Regained: The Picnic』(2017)では、まさにその手法が効いている。3人とも上から下まで子供の人形服を改造したような赤い衣装でお揃いという過剰な装いをし、周囲の道行く人々からは完全に浮いている。「家族」を問うシリアスなアクションをコミカルに転化させるとともに、「家族」(?)の視覚的フォーマットが浮き上がるのだ。使い捨てカメラでの撮影をねだられた人々はお約束の「家族の記念写真」を撮ることを通じて、このいつもと違う組み合わせを「家族?」として改めて向き合うことになる。この3人は家族なのか? それを鑑賞する我々は、「家族」や「カップル」などの私的な関係性は、視覚的な約束事として、フォーマットなのだと気付き、作者が新しい視覚的体験を民にもたらす機会作りを行っていることに気付いていく。

 

裸の男性が日常景に登場することについては、この5年10年ぐらいで相当慣れた感がある。鷹野隆大の活動、雑誌an・an等での美男子の裸の表紙、BL文化の浮上といった動きが、それぞれ属する界隈、メディア、文脈は全く違えど、「男性」の裸に対する感性に変化(=慣れ)をもたらしているのは確かだろう。何にせよ制作者の仕掛けてきた意図をすぐに察知するようになってきた(=生理的拒絶の回路が解除されてきた)ことが分かる。この立ち位置には歴史的に女性が「見られる裸」として観賞に具すよう配置されてきたかと思うと、作者の意図を超えて考えさせられるものが今もある。

 

残念ながら動画映像作品については意味を解しかねる部分が多かった。ステートメントを読んでからじっくり観るべきだったが、なかなかそこまで到らない。『Family Regained: The Splash - We brush our teeth, take a shower, put on pajamas and gou out into the street』(2017)、風呂場で男性2人が浴槽に身を潜め、一方がもう一人にかいがいしく歯磨きや洗髪を施す(という身振りの演技)情景の映像は、子育てを演じ、「家族」の役割や枠組みを追体験しているのかなあと思ったが、80年代にエイズで命を奪われた同性愛者達の、生活動作にかかる介助を模した追憶であったようだ。今や服薬によって普通に暮らすことのできる疾患となっている上に、出会いと性交渉のコンビニ化によって性的志向を問わず誰もが感染リスクのある疾患となっていて、テキストを読み返しながら、エイズの象徴性が非常に薄れたことを実感した。

 『Letter to My Son』(2018) は、数秒刻みで細かく繋ぎ合わされた東京とNYの都市景、都市生活に登場人物の表情、指先などディテールの「動き」の連続に目が奪われ、さらに間隔を置いて重ねられた3枚のスクリーン布のうねりと揺れからは、映像が質や形をかなり伴っていたので、また別の意味が生成されていた。作者の言う「世代の異なる3名が登場し、時代や都市を超えて生き続ける、強固なつながりを描いた」という意図とは全く異なるものを私は観ていた。都市や関係性のノイズ、そこに紛れ込む同性愛者であることの告白、社会的禁忌から身を隠しつつ、判る人には判るサインを織り込んでいる、隠れキリシタンのような映像なのかと解釈してしまったのだ。ノイジーな映像は解釈のブレ幅が大きいこと、その日の都合や体調によっては10分前後の動画を「正しく」鑑賞すること自体が難しいことを体感した。

 

■石野郁和(いしの ふみ)

今回一番胸に響いた作品で、ただ事ではなかった。『Melon Cream Soda Float』シリーズからの16点の展示。タイトルを読んで、作品が更に体に染み入る思いがする。久々にあの原色を、原色をさらに深くした色を、「クリームソーダ」という緑色の液体、液体化された「色」、液体の緑色のことを想った。今思えば、あれは飲み物と言うより「色」を飲んでいた。むしろ「色」に、舌や咽頭が浸潤されるものだった。さらに白く濃ゆいフロートまで載せた日には、舌も脳も祭り状態だった。色と甘味で理性の秩序はなぎ倒され、「色」が体の器官を侵し、それ自体がべっとりと偽膜として体の指示系統を狂わせる。


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最新鋭の、零度のフォービスム。石野作品は、「色」が立ち上がって粘菌のように動き回り、写真の構成要件であることから氾濫・反乱を起こして、画面内の「文法」そのものへと立ち上がり、意味の構造、力関係を逆転させようとしている。

従来の古典的な写真では、外界にある被写体の存在なり形なりが自明のものとして在った上で、それをどう写し止め複製するかという実在論の上に成り立ってきた。そして映像の生成においては(特にモノクロ写真は)、内に複製・再現された色や光を、外界の光を吸収することによって「写真」としての像――絵画と動画映像の中間メディアとしての像を見せるものとして稼働してきた。そしてこれらの組み合わせを論旨、主張に応じて整理したものが作家的作品なり広告なりジャーナリズムとなる。

石野作品ではその力の生成が反転していて、「色」が目に飛び込んでくる。むしろ「色」がモノや現象のように画面内の主役、被写体となっている。それらの色を宿しているモノ、コトの「形」は、色の背後へ追いやられている。つまり文法が逆転していて、被写体という本来の具象物は逆に構成要素へと後退しているのだ。そこには作家の巧みな配置や露出の計算があり、この画面全体を観るときには、鑑賞者の視覚の中で新しい「像」が生成・体験されるよう構築されている。まず支持体となるインクジェットプリント紙からして特殊で、光沢面が鏡のように光っており、内側から光を発する仕組みによって、力関係を逆転させるよう仕向けられている。

扱われる被写体は、日常の光景から見出だされる小さな、取るに足らないものばかりだ。鳥に食われて崩れたオレンジの柿の実とフラッシュ光を照り返す緑色の葉、紫の明暗の粒で表された病理標本の拡大図、茶色いスペアリブを盛った真っ白い皿とそれを差し出すスカイブルーの爪、真っ白なテーブルに配置された黄色いフエキ糊と味の素のパッケージ、等々。作者は「色」の実在を認める。形を超えて屹立する「色」を認める。自然景として色・形が横溢し、オーバーフローしたものと、何らかの人為的な手が加わって構成されものとが並置される。

皆さんもご存知の通り、色にはなかなか厳密な約束事がある。色は、飯の美味い不味い、性的に燃える萎える、寝付ける寝付けないといった、ヒト生理への影響だけでなく、社会的・歴史的にも、信仰、儀式、礼儀、権威といった人類の文化、制度を支える強力な力学要素となってきた。紫は高貴な職業に好まれ、黒は威厳や喪を意味し、赤は情熱や女性らしさから国家の象徴にすらなってきた。色は、権力の実体と言っても過言ではないだろう。デザイナーも服飾関係者も心理学専攻者も、「色」の基礎を学ぶことなしには前に進めない。色彩とは、言語における助詞・助動詞のように、尊敬や謙譲その他諸々の力学の作動に関わるところがあって、権力へ相当に大きく根深い働きを担ってきた。男性性・女性性に関する働きについては言うまでもない。石野作品は、デジタルの画質とインクジェットプリントから、「色」そのものが内側から光を発し立ち上がるように仕向け、「色」を制度から獣化せしめ、更には「写真」の文法構造を内側から覆らせようとしている。デジタルで描写される世界だから温もりなどない、零度である。だが何か、悦び、快感を伴った。

 

( ˆᴗˆ )

この二人の作家について優先的に書くこととなったのは、映像にエクスタシーを感じたからだった。私にとって「書く」とは、脳が忘れようにも忘れられないもの、痺れについて、悦びとしてしっかり触れ直すことに他ならないだろう。それは作品制作にかかる技術力、クオリティや、社会に対する告発や批評性、問題提起という次元を超えて、本源的にこの体に訴えかける力である。何だろうか。 


時間があったらミヤギフトシについても考えたい。

( ´ - ` ) 完。