写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】落合陽一「質量への憧憬~前計算機世界のパースペクティブ」@ amana square

【写真展】落合陽一「質量への憧憬~前計算機世界のパースペクティブ

膨大な写真である。広い2フロアにまたがってテーマ別に写真群が壁面に整然と配置され、あるいは壁全体を埋め尽くす。その合間の床には立体作品を置き、花が咲いたり機器から光が飛び交ったりし、フロアを横断する長い台の上には書籍から切り離された頁が積もっている。

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落合氏はメディアアーティスト、研究者、教育者として目まぐるしく活躍する中で、「デジタル」という世界を主に扱っており、高度に理論化、抽象化の推し進められた試みをデジタルデータという形式を介して、各種の機器、メディアによって出力し、光や音といった自然界の産物や現象と一般人の身体体験とを結びつけるべく奔走し試行錯誤している。そうした活動の中では、まず理論化から漏れ落ちた生の「モノ」としての世界が後退してしまうこと、そして作者自信の存在感すら匿名化、抽象化されてゆく(=アーティストや魔法使いといった抽象的なラベリングしか残らない)という事態が起こる。

そうした背景もあって、落合氏が外界と主体・自己との関係の再確認にあたって活用したのが「写真」という比較的物的な映像メディアであると考えられる。ただし動機や目的は、後述のとおりテキストの意を読み取ることが困難なためあくまで私見として。

 

本展示では「憧憬」というどこか人間くさいニュアンスの言葉がタイトルとなっている。これは会場内のキャプションでも語られていて、質量とデータとの間にノスタルジアがあること、質量なきデータ側の世界から、質量のあるものを見たときの物質性を求めているのだ、と記している。

 

未来社会のデザイナーのごときスターたる落合氏が「憧憬」などという言葉を使うと、私のような土にべったり根を生やして生きているアナログ文系人間はドキッとしてしまうが、そこは先端技術の研究もさることながら、ヒトと世界との関係性自体を模索してきたアーティストゆえの言葉なのであろう。関係性において問われるのは距離感と、その距離によって引き起こされる各種の・正負の反応である。

ここでの憧憬を生じさせている主体と対象、因果については単一のものではなく落合氏の思うところが多々ありそうなので端的に捉えておく。質量とは一般的には生体の生命活動に根差した本能的なテーマでもあろうが、ここではまず、デジタルの世界はそれそのものとして存在していることが前提となるようだ。逆にメディア側は、たとえばナムジュンパイクの作品が今鑑賞すれば劣化を来している(=エイジング)ことなど、旧来の物理的なテープやCDなどのメディアデータ・出力機材は「デジタル」の世界とは別の次元でモノとしての不可逆の現象に晒されている。外界とは別枠の次元に「デジタル」観があり、そこにはただ情報としての存在がある。計算式の出力構造、「数」の世界そのものを思えば良いだろうか。たとえばナムジュンパイク地球が破滅しても「数」の世界は損なわれない。「数」を扱う人類や演算機は消滅してしまうかもしれないが。世界は「数」(式)で記述でき、存立可能で、数自体に大きさの概念はあれど、それ自体が触れる質と重みを持つわけではない。と。ギリシャ哲学に立ち返った話がこのWebの時代に改めて必要なようだ。

 

落合氏は、メディアを通じてそのデジタルの永続的な世界の側に身を立たせることは一定可能としつつ、あえて不可逆の、忘却や劣化にまみれた「質量」ある世界を希求している。その先に「祈り」があるというのだ。

 

写真活動によって質量の実感が得られるとしたら二つあって、一つは人間の眼、視覚認識を超えた解像度によって外界の事物を記録し、モノとして情報を出力できること、もう一つはそれらの出力結果を更に加算名詞たるモノとして増殖させ、編んだり盛ったり貼り出したりする(時に不加算名詞化する)ことである。

本展示ではこうした一般的に思い付く物質的作業がほぼほぼ網羅されていて、デジタル界の先行研究者がもう一度改めてこの「世界」の隅々を再点検し、自身の掌で確認しているかのようであった。調査ではなくあくまで自身の手で、直接のモノとしてではなく「質量とデータの間」を探るものとしてだ。

およそ学校の卒業展示における学科単位ほどのボリュームを擁する物量とテーマ分類には脱帽させられる。まさに「質量」の探求の名に恥じぬ取り組みだ。それだけではない。写真自体は都市景、看板、電線、レンズのボケの光、空、都市のパーツなど、この/落合氏の日常世界を構成する物理的な要件ばかりを大量に集めているのだが、それらを分類しラベリングされたテーマ名は非常に客観的だ。見た目はフォトジェニックな光景も多いのだが、そこに個人の詩的表現を差し挟んでいないことが大きな特徴だった。つまり落合氏の写真行為は、一般的な写真家やInstagram利用者などとは目的がかなり異なるのではないか、ということに留意すべきだろう。

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まず写真自体の文体だが、名詞である。モノをモノとして直視し、ほぼモノ・対・像で一対一のシンプルな対応となっている。その姿勢を都市のパーツ群にもレンズのボケにも海の波にも適用している。まさに世界の名付けを再度検証しているように見える。金村修が空間を都市のノイズ系で埋め尽くすのとは根本的に原理も意味も異なる。落合氏はもっとはるかに素朴な確認を行っているとみられる。

 

そして落合氏のテキストだが、こちらは独特な文体をしている。A→B→Cと順序立てた正しい文章のように見えて、間を相当飛ばしている。A→D→Mぐらい飛んでいることがたり、そのくせ後段で結局 CとかEの話に戻ってきてたりする。思考に言葉が追い付かないのか、計算式や英語で書くのに慣れていて日本語の文体が合わないのか、ともかく事務職員やライターのように全てを順序だてて書くようなことはしない。よって落合氏の真意はよく分からない。

穿った見方をすれば、フォロワーらからの安易な理解や共感あるいは反論が押し寄せるを防ぐための戦術か、それとも、意味を一義的に固定してしまうことの狭さ、硬さを避けて、絶えず鑑賞者の関わりによって接続構造の可変する文体を以て現代アート的な揺らぎをテキストでも生成させたいという戦略なのか。もしかするとテキストを度外視して作品だけを鑑賞するのが最も正しいのかも知れない。

よって、彼のいう質量への「憧憬」、この希求から繰り出される写真行為が、どのような動機や形を伴って「祈り」への確信を得て、そのテーマを提起するに至ったのかは、私には正確には読み取れなかった。通常の日本語としての「祈り」の意ではないだろう。気持ちは大いに判る。撮るということ自体が何かしら自分という訳のわからない主体と、手に触れようもない外界とを強烈に接続するスイッチの瞬間を与えるということは、皆さんもご承知の通り。だがそれだけではない。

 

落合氏の写真からは、氏がこの世界の実感を徹底的に確かめていることがはっきりと判った。多忙な日常生活の中で合間を縫って、移動中の都市景や太陽、ふとしたときに目にした光の粒などをこまめに捉えている。この集積、観察眼が、先端的なメディア表現を実践する上での筋力となっていることは言うまでもない。落合氏は学者、研究者でもあるが、何より「アーティスト」の名義を全面に出している。一人が一つの職業に専念する時代ではないということだろう。

このことはシンプルに、ピュアな写真家、クリエイターにとって脅威であり、「写真表現の道を極めようとこつこつやっていたら部外者にものすごい速度で追い抜かれた」ことにもなりかねない。モダニズムの時代は終身雇用的な職人仕事が正しかったが、現代は3足の草鞋などとよく例えられるように、名刺は可変するのだ。私は希代のクリエイター、寺山修司を思い浮かべた。劇団を率い、詩を詠み、小説を書き、映像を送り出し、世間を、眠れる大衆を挑発した。昭和の最先端のメディアアーティストであったといえよう。寺山は実は高度な写真技術も有していた。写真家・荒木経惟の手解きにより、寺山ならではの演技的世界、自己の生い立ちすら改変する性を「偽写真」として開拓せしめ、秀逸な写真コラージュ作品を作るように至ったのだ。

落合氏の背を押しているのは誰だろうか。写真家ではなくそれこそ多数のメディアアーティストであり科学者なのだろうか、それとも日々を運行せしめている森羅万象そのものだろうか。

自身の理解の及ばない、変換の容易でない外界へ、いかにしてアクセスし、そこから主体(=自己)の小さな改変を繰り返してゆくか、それがなければいかなる最新メディアによる出力結果もたちまちに陳腐化する。精神的なアップデートがあればうつろいゆく世界と対話も一定可能なのだろうか。否である。それだけではプリントが上手くなったり画面構成が上手くなるに止まるのではないか。

落合氏には自己と被写体:外界、以外のもう一つの「世界」がある。恐らく「三界」が必要なのだ。自己、モノとしての外界、そしてもう一つの圧倒的に否定し難い領域を是認することが不可欠なのではないだろうか。落合氏は自身の千問領域として「デジタル」の無質量の世界を圧倒的に是認している。そして落合氏自身の身体こそが、モノ世界とデジタル界とを繋ぐメディアなのだ。「祈り」という無私の瞬間にその両世界は接続されるが、モノとしての情報「質」と「量」を往還させるためには、現状では、写真行為が最適だったということなのだろう。

思えば「質量」を伴わないということは、現世のものではなく、悟りの世界、彼方の世と親密な世界観とも言えよう。その深淵な、闇と光ともつかない領域を思うとき、落合氏があえて「祈り」という言葉を用いた気持ちも、だんだんと判ってくるだろうか。あるいは、彼という人物がもはや現世の大衆における最大級の「メディア」と化してしまっている今、氏はヒトとしての「生」の質感を取り戻すことが、自身を象徴化から引き戻す(=制度化、権威化を防ぐ)ための生存戦略だと認識しているのだろうか。

作家自身が、質量を持たない「デジタル」側に所属するメディア的存在であるとすれば、落合氏のいう「祈り」は我々とは真逆の方向から投げ掛けられるものとなる。我々、アナログやモノベースの大衆は、概念化された涅槃へ向かって悟り、救いを求めて手を合わせる。

本展示の取り組みがいかに落合氏の認識に影響を与えたのかが興味深い。

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(・_・)  以上メモ。