写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】インベカヲリ★「ふあふあの隙間」@ニコンプラザ大阪 THE GALLERY

【写真展】インベカヲリ★「ふあふあの隙間」@ニコンプラザ大阪 THE GALLERY

きわめて「普通」で、真っ当な展示内容だった。

先行された東京会場での感想がTwitterで流れていたので、やや身構えて足を運んだ。曰く、感情が抑えられなくなった、泣いた、その場に居られなかった、会場の隅でうずくまってしまった、等々、ノロウイルスでも蔓延しているかのような様相だった。実際には、ただただ制作に携わった全員が誠実なのであった。しかも、恐ろしいほどの生真面目さで、自己責任論の究極の体現者として。

 

全員というのは、企画・撮影者であるインベ氏と、自身のことを語り、被写体として晒したモデル各位のことを指す。作品は写真と、モデル及びインベ氏の語りによるテキストの2つから成っている。そのため「作品」を語るときには写真の撮られ方とテキストの語り方とを行き来することになる。

なお、本展示の作品制作に関わる情報や評についてはあえて調べていないので、ここで書くことは全て私見であることを断っておく。まずは知識で見るより体で感じて考える方が有益だと思ったためだ。

 

まず写真作品の世界観は、野良の劇場のような、舞台上の世界である。都市空間の中や、ちょっとした自然の中に適地を見出しては、撮影者と被写体の二人が、舞台演出を即攻で仕掛け、写真の形に仕上げている。どのカットもポーズや表情、ロケーションは狙い澄まされていて、薄味ながらしっかり構築された写真――穏やかなコンストラクティッドフォトの妙味を感じる。それらはモデルとなる女性らとインベ氏が面談し、モデルの語る「私」についての独白を基にしてビジュアルを構築し、両者で場を作り上げていったものと考えられる。

 

トークショーをいずれも聴けていないので残念だが、飯沢耕太郎であればここで荒木経惟との関連を示しそうな気がする。かつて80年代には、自己表現の手段として女性らがアラーキーという写真家をカメラとして活用し、その独特な「私」の劇場を演出したと。そして90年代にはヒロミックスに代表される、手軽なコンパクトカメラ、使い捨てカメラという新しい機材を活用する世代によって、撮影という特権が男性から女性へ移譲され、鮮やかな感性と軽やかなスナップ写真で「私」を語る文体が敷衍した、と。

写真により「私」を語ること、写真史的に「私」の写真を語ることは、まさに現代の日本写真界では(先行するコンポラ写真という流行も踏まえて)80年代から荒木経惟を核とした「私写真」の系譜としてその構築が取り組まれてきた。現代日本写真史という、西欧・アメリカとも異なる独自の世界観を(特異な「東京」という都市景の写真とともに)世界に打ち立て、その活動に最も尽力したのが飯沢耕太郎であったと思う。その文脈に照らし合わせるとインベ氏の作品もまた、都市生活を送る現代の女性らが、自らの出自や毒、容姿について「写真」を以って語る行為として「私写真」の系譜として語ることは可能であろう。

しかし別の観点からも見てみたい。昨今では、instagramに象徴されるように、スマホ時代での個人の自己メディア化が進み、「写真」は無名の一般人が自分を演出し、発信するためのツールとなっている。そこでは「私」のありようも変容し、いかに自分の思ったことを思った通りに(あるいは期待値以上に)「出す」かが要であって、そこにはある個人の内面からの視座(作家性)よりも、外部から多くの眼で見られた際に成立する「私」が念頭に置かれる。現在のメディアの中で「私」とは、「私写真」から横へスライドしたもの、演出と消費の上に成り立つ対外的コンテンツであるようにも感じられる。

 

インベ作品ではその演出行為を極めて強力に推し進め、本来ならば不安定に滅茶苦茶に揺らぐであろうモデルらの「私」を、一旦、瞬間の演劇として一枚の写真へ固定しているように見える。その固定のポイントは、一見、自己露出が過剰なビジュアルに見えながら、相当にエンタメ性も含んだ絵作りが為されていることから、「私写真」的な「私」(写真家の側が主権を握っている視座の世界)ではなく、撮り手とモデルとが対等に舞台を共同構築し、更に観客のリアクションも織り込んだ上で、両者の納得が得られたところにあるのではないかと判断できる。

演出により表出される「私」に軸を置いてインベ作品を見るとき、参照どころは澤田知子なのではないかと考える。

www.fujifilm.co.jp

澤田作品は、作家自身が入念なメイク、変装を施して、無数の一般人へと変装してゆき、その集合群を写真作品として提示する。森村泰昌と同じく、自身の身体をメディアとして活用し、フィニッシュを写真という形で提示している。言わば「自分」と「写真」とがほぼ等価な位置付けにある(=身体のメディア化)。澤田知子が指摘したのは、個々人の多様な「個性」と呼ばれているものが実は表層的に交換、演出可能であること、外見のパターンの微妙な違いによって生み出されるに過ぎないということだった。そこには「私」はなく、あるとすればそのフォーマットを駆使する作家自身の作家性のみである。

対するインベ写真作品においては、まず澤田作品との共通点として、メイクや変装によって演出を行う点、モデルが自分をメディアとして表現する点、その映像自体は演出の成果を表明するものであって、必ずしも文学作品のような自己の語りではないこと――提示される一つ一つの画面には誰の内面が写っているのか、「私」の内面があるかどうかは問題ではないという点が挙げられる。

しかし澤田作品と大きく異なるのが、作家性の拡散である。澤田作品は、澤田知子という個人の作家が強力に存在する。しかしインベ作品における「作家」とは、インベ氏でもモデル個人でもない。あくまでモデル達との共同作業の結果であり、なおかつ、第三の視座として、鑑賞者がそれらの舞台をどのように見るかが織り込まれており、最初からその視線を吸収した形で画面が作られている。この舞台作りにおいては演出家、企画者としてのインベ氏の作家性が光るが、映像の外観だけに絞って言うならまさに、instagramSNS等で隆盛を極める各種フォトグラファー、コスプレイヤーらによる演出的なモデル撮りの技法と近いものがあり、作家性の固有名詞は拡散している。

 

ただし、インベ作品がいわゆるinstagram上でのフォトグラファーやモデル達との活動と、遥かに一線を画するものがある。それは本来モデルでも写真に撮られ拡散されることに熱中する層でも何でもない、社会に潜む一般人であろう演者らとの深いコミュニケーションと、その独白を起こしたテキストである。その文言の切実さはもはやキャプションとは呼べない。身を切って流れ出た、血のように真摯な言葉だ。

 

作品テキストでは、登場するモデル個々人の過去、傷、こじれた思い、ねじれた感情、独自に編み出された論理などが、モデルらの発言とインベ氏の言葉によって交互に独白されている。

私が冒頭で「普通」の展示と称したのは、この語りについてだ。私は道徳の授業が大嫌いで、人道的な説法を聴くぐらいなら変なお香でラリった方がマシだと真剣に思っている。しかし回り回って道徳的な話になるが、大前提として、人間は全員、違っている。みんなとか「普通」だとか言うが、その全員がそれぞれ違っていて、全員が個々の「ややこしさ」を持つ。インベ作品はこの「人間は全員ややこしい」ことを誠実に、血を流すように語っている。それが従来の「私写真」ともinstagramerの活動とも異なる点だ。

どんなに大人しそうな人も、可愛い人も、ごく普通の人も、嫌な人も、半分死んだような人も、それぞれにこの現世に留まっている限り、種々の「事情」がある。過去があり、傷があり、疾病や不具合があり、キレやすさがあり、身体性能があり、願望があり、人間関係があり、そのことごとくにひずみや影を持つ。呪われていると言っても過言ではない。それらの総体が一個の「個人」を形成している。

本展示は、写真こそキャッチーさを孕んだ演技性をやや強めに放っているが、それぞれの独白のテキストは、あくまで一個人たちの「ややこしさ」を真摯に吐き出している。その点が「普通」なのだ。それこそが普通の人間だからである。

個々人の有する「ややこしさ」は、よほどの訓練、準備を行っていない限り、不特定多数へ伝わるように語ることは不可能である。いや、当人の内から言葉に表す、声に出すことすら、難しい。対外的に発せられ、一定の了解可能なものとして受け止められたとき、その「ややこしさ」の群は「私」としてキャラ立ちする。

対外的な表出のスキルやスタイルによって回収されなかったもの、日常のやりとりからは零れ落ちてきたもの、封殺されてきたものを、インベ氏は作品制作の形で「私」へと昇華させるべく、引き受けてきたと言えよう。

 

インスタグラマーに代表される多くの表現者らが、写真あるいは登場人物自体をメディア化し、演出行為のスキルと知名度のアップに奔走し切磋琢磨する。が、万人が個々に抱える「ややこしさ」を聴き取って紡ぐことについては、ほぼ避けて通っている。 なぜならそれは消費やエモさから最も遠いことであり、得票、売り上げに結びつかないからだ。また、仮にそのような独白で売りを伸ばすにしても、Twitterやblogなどそれぞれの媒体によって、食いつかれる語り口調、スタイルが異なり、表出の最適化には一定の高いスキルが必要である。

インベ作品では、写真による映像化では「私」をキャラ立ちさせつつ、テキストによる各個人の独白、「ややこしさ」については、消費やエモさや分かりやすさには回収させないよう、回避しているように感じる。テキストは恐ろしく平易な日本語で書き起こされているのに、独白の中身へ身を投じたり心を重ねようとすると、極端に難しくなるのだ。語られていることが親子関係の細に入った話や、職場の人間関係でキツい目に遭った話、自分の心身と自分とが折り合わない話、といった実体験談がひたすら続く。それも、読み手にとっては訳の分からない理屈で煮詰まっている。対外的に可読性を考慮されて添削されたものではないため、論理上は飛躍やねじれが散見される。恐らくそのようにして、論理破綻しながらも、いや一般論で言えば論理破綻した状況に晒され、強いられながら、インベ氏を含むこの作者たちは人生をサバイブし続けてきたのだ。今もまさに現在進行形だろう。

このあまりに個人的で、独特な論理こそ、「普通」の人が皆、抱えている「ややこしさ」に他ならない。それは一般論での正義感やアドバイスを無化する。マジョリティに回収されないのだ。日本語としては読めるが本質的には私情すぎてノイズであるという事態は、読んだ側には感動や共感以外にも様々な効果(多くの場合は不快さを伴うか)をもたらすだろう。

 

しかし登場人物らは皆、ひたすら自分のことで苦しんで、格闘している。体の事情を抱え、過去の傷を抱え、人間関係のドロドロ、不仲、呪い、親子や親族間のトラブルに苦しみ、体と心が折り合わず、うまく言葉にもできず、それでも毎日をうまくやらないといけない。それは私を含む鑑賞者にとって、他人事でもはなく、ごく身近な人がほぼ全員、何かしらの形で抱えている事情である。このことは私自身が色々と経験し、また、人の話をつぶつぶと聴いてきたことで、はっきりと実感を持って分かっている。

事情のない人間はいない。

どこかで誰もがそれぞれの形で論理破綻を来しているのだ。かと言って、インベ作品を相対化という名のもとに無化したいわけではない。この演出世界が生み出されたからには、それだけの切実な事情があり、我々見る側、聞く側、通り過ぎる側には、そこまでの切迫した状況は無かったということもまた、はっきりしている。つまり一定の「ややこしさ」の格差は存在する。

 

これは、平成という時代の最期期が抱えた、社会的な症状かも知れない。

乱暴に述べれば現在は、自己責任や自己負担の名の元に、様々な不具合については個々人が引き受ける時代となっている。社会――自治体や企業の制度疲弊や不具合すら、個々人がバッファとなって吸収を強いられている側面もある。しかし社会をリードする層は、生産性や効率化、合理化、改革や革命、美しさというアッパーな言葉を好み、そこから漏れ落ちた人々の個別の顔や言葉は無かったことになっていないだろうか。

漏れ落ちた民が可視化されるチャンスはどこにあるのか。もはやyoutubeinstagramでは、成功者が固定され、稼ぎの階層が完成されている。ややこしさに呪われた民にできることは多彩で狭い。何気ない呟きが当たってRTを稼いでWebニュースに転載されるか、扇情的なツイやクソリプが炎上するか、オンラインゲームやスマホゲーのギルドで隊に貢献するか。極端に冴えない例だがいずれにせよ、どこにも浮上できない「普通の人」の「ややこしさ」は、どこにも持ち寄りようもなく、個々人で抱え込んだまま社会は回る。その個々に閉じた回路(会社や学校などのコミュニティ)の内部で、抱えきれなくなった「ややこしさ」の負荷の押し付け合い、マウンティングが必然的に起きる。社会的立場のより弱い層、発言力の乏しい層や、糞真面目な人、不器用な人、自分が悪いと思い込んでいる人などが、その一番重たいものを押し付けられる構造が出来てしまっている。

 

インベ作品の独白を読めば読むほど、登場人物らとインベ氏は、驚くほど自分で全ての負荷を引き受けている。これ以上にまだ引き受けようとしている。責任転嫁をせず、怒りを表明せず、逃避もせず、ラリることもせずに。よって、壊れそうになるか、壊れるか、より努力するか。あらゆる方向からの、あらゆる種類の理不尽を、自分の身で引き受けて、生きている。自己責任論の究極の体現者のように見えるのだ。無論、社会のリーダーとしてではなく、逆側の立場の者として。

インベ氏とモデルらが演じる「私」の舞台を通じて、皮肉にもこうした社会の内面が見える気がする。「私写真」ならぬ「公写真」になってしまう面白さがある。面白がっていないで社会に対して怒らないといけないところなのだが。勿論、誰も一言も、社会への言及はしていない。私が勝手に読み取っただけである。ここに、この作品制作に当たった方々の真面目さ、生きることに対してあまりに誠実だったことを改めて感じる。

 

( ´ - ` ) 完。