写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【演劇】地点×空間現代「グッド・バイ」(原作:太宰治、演出:三浦基、音楽:空間現代)@京都芸術センター講堂

【演劇】地点×空間現代「グッド・バイ」(原作:太宰治、演出:三浦基、音楽:空間現代)@京都芸術センター講堂

本作は太宰治『グッド・バイ』を基としつつ、太宰作品の広範に亘って引用が行われる。太宰世界の再編集である。バックステージのリズミカルな生演奏を得ながら、それと一体化して俳優6名の身体は「詞」そのものとなり、太宰治の「個人」としての在り様を我々の体へと再提示する。

 

最初にお断りしておくと私は演劇や文芸の方面の人間ではないので、以下は感想や気付きのメモです。

 

〇全体の構成

非常に不可思議な講演だった。これを「演劇」と括ることが果たして正しいのか分からない。三次元に立ち上がった「詞」だと言おうか(文芸のフォーマット、技法としての「詩」ではなく、人間の営みから立ち現れる「ことば」としての「詞」)。

俳優らはバーに入ってくる。そして終始、バーのカウンターで椅子に座り、カウンターに腰かけ、酒瓶を振り上げ、声を上げて、順番にリズミカルに発語し、演技としてはほぼそれが全てであった。

動きは最小限にとどめられ、まるで彫像、スタチューか、あるいは写真のように太宰は動きがなかった。静止と、ミニマルな動作の反復が続く。脚の高い椅子に腰かけながら、林忠彦のポートレイトよろしく、演者は、動作を取ってはすぐに静止し、俳優と彫刻の狭間―写真に近いイメージを振る舞っていた。 

バーカウンターに横一列に並んだ俳優らが何者であるかは名言されず、作中でも明かされない。それぞれがリズミカルに太宰作品から引用された台詞を断片で語り、語りの一部を断片的に繰り返し、「グッドバイ」という語を更に分解して順番に発語・唱和する。それぞれの演者は個性を有したキャラクターのように見えて、実は写真的な凍結したイメージ体であり、主役は演者の身体から、その場を駆け巡る声―「詞」、「ことば」そのものへと移相している。

6名は左から順に、ベストを着た伊達男、シャープな細身の20代半ばから後半の美女、いかめしい文人くずれらしき男性、着付けをした30代後半から40代位のご婦人、あどけなさの残る学生服の青年、透明な清潔感に満ちた若い女子、着流しで白髪の初老の男性。   

彼らは全て太宰作品の登場人物であり、同時に太宰の分身ともとれる。太宰は一人称を女性とした作品も多く書いている(『斜陽』、『女生徒』など)。年齢の幅についても、幼年期、青年期の独白はさることながら、後年についても、実年齢は38歳で亡くなっているものの、『人間失格』では主人公がモルヒネ乱用の末に「27歳とは思えないほど白髪になって40歳に見られる」ように、精神的には初老の域に達している側面もあったと言えよう。

約70~80分の作品だったが、舞台側からは分節された太宰作品の太宰フレーズを、ビートに乗せて発し続け、観客はそれを受け続ける。始まったと思ったら、あっという間に終わっていた。劇団新感線ならこのあと第2幕が始まる勢いである。本当にあっという間だった。それゆえに既存の【演劇】として語ることは困難である。

 

〇物語が、ない。

ないのだ。ないのである。長大な散文詩、詩の朗読会のようにして終わった。冒頭から間髪置かずの「グッッ!」「ドッ!」「バイ!」の連呼、演奏との掛け合いが、掴みにしては長すぎる。長い、これはどうなるのか。随分と続き、観客の多くが思ったであろう、「この演劇、まさかこの調子でラストまでやり通すんではないか」、そのまさかだった。引用され次々に発せられる太宰作品の節々は、センテンスから時に音韻、音節にまで切り分けられ、声の掛け合いによって繋がれてゆく。更には、発話の途中でいきなり中断したりすることから、物語ることよりも「詞」としての身体性の問題に注目されている。だからここでの【演劇】は装置である。それは無数の太宰作品たちを切り刻んでエキスを抽出し、これまで語られた「物語」―文学性から解放した上で、解釈の可能なぎりぎりの単位で観客に受け渡す仕組みとなっている。あえて、ここにはストーリーはないと言った方が適切なのではないかと思う。

 

〇音節、文節、カットアップ

本題『グッド・バイ』を太宰治を象徴する―凝縮する一句として選び、徹底的にばらばらにして演者は発語する。ここに男女や職業、服装といった演者の外見の記号は意味をなさない。観客の座する場は「グッドバイ」という一般的な別れの言葉から、太宰作品へ、そして不可解な領域へと至ってゆく。

客席への「グッッ!」「ドッ!」「バイ!」の連呼が続くにつれて、大宰本人/作品の登場人物が何に「さよなら」を告げているのか、そして我々観客は何を「さよなら」されているのかが不確かになり、分からなくなる。むしろ促音で切られることで聞こえが変質し、「good!」「bad!」の掛け合いにも取れる。太宰の精神の高揚と急落か、我々の瞬間の気分装置と化したコミュニケーションの暗喩か、宙吊りとなった空間で音韻が響き渡る。

地点と空間現代の前作『ファッツァー』(2013)の動画を見てみると、本作と同じ文体で演じられているのでよく分かる。彼らは基本的に物語性、言葉を一旦バラすようだ。文節で切ることに留まらず、音の単位でバラし、しっかり間をおいて客席へ投げ掛ける。ここで「ことば」(音韻)と「間」(無ことば/演奏が流れているので無音ではない)は等価に扱われているようだ。

 

◯何処にも依拠できない「個人」としての呻き

本作で分節化された台詞、物語と等価に扱われるのが、酒による酩酊の合間に差し込まれる落胆、呻きである。演者が演奏と一体になって「グッッ!」「ドッ!」「バイ!」を回していく最中、演奏が途切れる時がある。その刹那、全員が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。「うぇっ」「ああっ」と呻き、喘ぎ、「もうだめだ」と言わんばかりに肩を、頭を落とす。

太宰(ら)の口が回り、弁が立っていくと、必ずこの「間」にぶち当たり、足が取られる。酩酊によって人生や社会、女について饒舌になっていた太宰が、酔いの切れ目で突然、素面の自分の理知の刃に襲われるかのように、その「間」はリズミカルに予期的に(発話の全ては音楽の節に従っているので何処で音を外されるかは予め判る)現れ、演者は「ああっ」と言葉の流れを立ちきって呻く。

自分の考えを語り、思いを語ればそれだけ、間断なく働いていた理性が、酔いの途切れに深いクレバスとして現れる。不幸なほど時代の先を行き、たった独りで「個人」という概念を身に宿してしまった者の在りようではないかと感じた。この辛辣な自己、何ものにも身を寄せられない「個人」という概念に目覚めてしまった次世代の苦しみが伺える。夏目漱石ら明治の知識人は、その火傷しそうなぐらいの「自意識」を、西欧近代を目指し急造する国家のビジョンや問題意識へ、自己を超えた社会的意義へと昇華しただろう。しかし次世代の太宰には、自意識の「個」だけが残された。しかし依拠できるものはどこにもなく、文学活動はそれを先鋭化させ、ただ独りで神経を剥き出しにしているようだ。のどこまでも自覚的な自家中毒として、薬物の酩酊、自殺、冷笑がつきまとう。一生涯がその有様である。

この音節の「間」の立ち切りが来なくなるのが、彼(ら)の弁論がキリスト教信仰に及んだ時である。依る辺を見出だした時、太宰(ら)は呻きに落ちなくなる。自分を置く場所を見い出だしたからだろうか。本気でキリスト教を信じていたかは定かでないが、近代的自我に目覚めた寄る辺無き「個人」たる太宰は、奇しくも西洋人らと同じ手順を辿って自己の居場所を見出だしたらしい。社会革命をうんぬんと主張している時も同様である。近代的自我の拠り所は、ひとまず信仰あるいは社会運動ということになろうか。

しかし太宰にはどこまでも「個」が燻っている。

それが「ロマンス」という重要な単語だ。彼の作品にはしばしば登場し、実際に文学研究上もロマン主義という枠組みで分類がなされている。ロマンとは理想を語ることであり、小説そのもののことを指す。写実でも自然主義でもない、「私」が思い、願い、生きることという、「個」としての文学活動、生き様の極致と言えよう。それが、尽きることのない一人称単数現在系としての独白であり、酩酊・嗚咽・慟哭であり、個人的な情動からの自殺という極端な悲劇で現れている点が、ブンガク的すぎて歴史に残るのだろう(まるで荒木経惟だ)。

だが、軽妙だ。おどけてみせるものの苦悩が深すぎ、深いわりに理知がすぎて全て言語化してしまい、「私」を行き過ぎて死までが速すぎる。結局死んだのだが、洒脱なのである。他人の眼を絶対に意識し続けている伊達男。どこか憎めない、どこか理想を希求する心の動きに、魅了されてしまう。それらの点をリズミカルに【演劇】という「場」で再編集したのが、本作ではなかろうか。

 

〇結局今も昔も

なぜ現代に太宰(ら)を呼び戻す必要があったのか? 演者の体と、演奏と音韻を媒体にして。言うても100年近く昔の人間である。

というのも、今や太宰治はあまりに教育的な存在となってしまったのではないかという個人的な思いがある。国語の教科書で小学生が学ぶものとなり、文学的教養の代名詞なるものと化し、なかば制度化すらしている。しかし実情は、独りで抱えることのできない「個」という存在を初めて担わされた、最初期の世代の喘ぎ・呻きである。玉ねぎの皮を剥くように、次々にヤク中、アル中、自殺中毒で、要はもう全部酔っ払っている。

本来こんなものは義務教育で取り扱える代物ではないはずだ。セックス・ピストルズX-JAPAN文科省の指導で小学生に教える時代は来てしまうのだろうか? さきの演者らの喘ぎ・呻きには、そういった現代の教条的な扱われ方に対する「やめてくれ、これは酔っ払ったある失格者のポートレイトに過ぎないのに」という絶望感も含まれてはいまいか。実体としてはアウトロー、反文学、反知識人エリートとしての嗚咽の痕跡のようにしか見えないのだが、国家はそれを文学と名付けて飼い慣らしたようにも思う。

本作は、教養・制度化された「太宰治」を再び軽やかに、我々個人の身体へと取り戻すために、あえて「詞」のリズムとして提示されたように思われた。

 

更に付け加えるならば、結局のところ現代に生きる我々は、太宰治の時代と何ら状況が改善していない。ここ、現在の根底にあるのは、信仰もなく、歴史は何度も断絶され、共同体は幾度となく解体され、脱臼したまま「個」として生きざるを得なかった状況の、生きることのキツさだけが残されている。そして国家や天皇制はしっかり維持されてはいるものの、究極的には「個」を救わない。(救いの場とする人たちによるコミュニティ形成の場としては一定の機能はするが、それらは反動的に他との断絶、排外を念頭に置いている) 

太宰世界を「文学」から解放し、個々人の体のリズム感で捉え直すこと、そこからにじみ出る太宰世界の吐露、嗚咽の響きは、洒脱な韜晦にして、時に力強い。投げ出された「個」について、太宰の時代と最も異なるのは、現代は通信技術の革命によって、常時接続状態となったことだ。「グッド・バイ」は今、最も言いづらい言葉の一つではないだろうか。常時、LINEやメッセンジャーGmailで繋がれ合っている私たちは、「見てない」「読んでない」「返事してない」が通用せず、常時接続状態を踏まえてコミュニケーションをとるよう強いられている。それに対して、空気を読むことを至上命題とする私たちは、こちらから「別れ」を告げることが実に困難であり、自主検閲状態にある。(代わりに実用面からブロック、スルー、鍵アカウントといった別の姑息的テクニックが発達することとなった)

場に連呼される「グッッ!」「ドッ!」「バイ!」が次第に体へ染みて慣れてゆくとき、普段、自主検閲している「別れ」が新鮮な響きを伴って立ち現れ、再発見に繋がるとも言えないだろうか。

辛いときは「さよなら」を軽やかに告げて、身を翻しても良いのかもしれない。

 

 

というようなことをあれこれしました。乱文私感です。

( ´ - ` ) 完。