写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【映画】世界で一番ゴッホを描いた男 @シネ・リーブル梅田

【映画】世界で一番ゴッホを描いた男 @シネ・リーブル梅田 

 

大量のゴッホを描きまくる中国の工房のドキュメンタリー映画。2重、3重に衝撃の映像であった。美術や絵画に興味のある人は、現代の絵画(関連)ビジネスの一端と、その渦中に生きる人々の想いが見られるので、必見です。

 

 

中国の深センにあるダーフェンという街の工房が舞台である。この街は絵画の複製を世界に向けて制作し納品し続ける「油画村」として知られており、海外の土産物屋などで販売される油絵を、1万人以上の職人らが体当たりで手作りし続けている。

工房は広くはなく、衣・食・住が一体となっている。描き上げられた商品が何枚も吊り下げられ、家族と従業員らはゴッホの垂れ下がる中で寝起きし、飯を食う。そして壁に白い紙を貼りながら、日々、ゴッホを何枚も複製していく。その様子が写し出される。

これらはガチの美術品に対応した偽物、贋作ではなく、あくまで「複製画」であって、美術(品)とは切り離されたところにある商材と言えよう。注文はインターネットで受け、来月末までにサイズいくらのゴッホの「ひまわり」が300部、「灰色のフェルト帽の自画像」が300部、といった内容を受注すると、工房の主人が職人たちに指示を出し、ポスターか何かの複製を手本としながら、時間がないぞと急かしながらとにかく描いていく。

 

見ていて最も不安になり、また興味を強く引き付けられるのがこの点だ。

彼らは一体何をもとに「ゴッホ」の「複製」を描いているのだろうか?  絵画に関しては素人の私でも、見ていてかなり不安になる。本当にこの描き方で「ゴッホ」の絵画は再現したことになるのだろうか? 明らかに絵画の専門ではなさそうな職人が、工房長の指示に従いながら、何かぺたぺた筆で塗りつけて、注文の数をこなそうとしている。工房長はもっとこうしろああしろ、色はもっとこう、描き直せと指示を出すが、その指示の元となっているのもまた複製品である。 

 

皆さんもよくご存知の通り、生の、現物の絵画と、記録・複製とは、別物である。美術館で生の作品を見た後に、物販コーナーで図録や葉書を買おうとしたときの、あのとんでもない落差。絵画とはその場かぎりの体験のことなのかと実感した経験が、皆さんにもおありだろう。この映画に登場する職人らは、そのような落差の経験すらない(映画の後半で主人公はまさにそれを初体験する)。その経験がないが、経験もないままに、本作のタイトルの通り、この世の誰よりも「ゴッホ」を描いてきたのである。すごい世界だ。

工房を切り盛りしている主人公、農村からの出稼ぎ者のチャオ・シャオヨンは、独学で油絵を学び、20年間にわたってゴッホの複製画を描き続けているが、まだゴッホの原画を見たことは一度もない。また作中の会話から察するに、身を粉にして働いている割に、金は子供の学費などの生活費で消えていくので、海外に出たことはないとみられる。

つまり生のゴッホを知らず、専門家の指導もなく「ゴッホ」を20年間描いているのだが、そんな彼らに複製品を依頼しているのは、アムステルダムの土産物店である。ここに1つめの衝撃がある。こうした複製品を喜んで買い求めているのはまさに我々のような、海外旅行に行く余裕があり、絵画が好きで、それこそゴッホの原画を見たこともある人間だということだ。その我々が「手描きの油絵っていいですね」と食指をそそられる品の出所は、混沌としている。よく中国のごちゃごちゃした個人経営の食品加工業者が、粗ビルや路上で食い物を加工したり袋詰めにしている光景が報道で流されたが、その食品をゴッホの絵に置き換えてもらうと分かりやすいだろう。筆致も色合いも絵の具の混ぜ方も、そもそもそれで正しいのか誰も検証していない世界がある。まあ観光地の土産物だからそのぐらいの相場なのかもしれないが、「絵画」や「美術」から我々が期待する世界(幻想)が強力に覆され、大変面白かった。

 

第2の衝撃は、彼ら工房の職人の内面、想いが映し出されたことである。彼らは金になるからというだけの理由で複製画業をやっているのではなかった。ゴッホを崇拝し、ゴッホの精神に一歩でも近付きたいと本気で想いながら、つまり芸術家としての魂を抱きながら、日々の仕事に取り組んでいたのである。

この映画は大きく二つの構成から成り、前半は油画村ダーフェンという特異な都市の様子と、そこに生きる人々についての総合的かつ社会的なドキュメンタリーである。しかし後半は、工房主シャオヨンの内面へとフォーカスが絞られ、パーソナルドキュメンタリーへと移行する。一万人の複製工人としてではなく、芸術家の魂を持った一人の人間として、カメラはゴッホへの敬愛に満ちた、熱っぽい眼差しと語り口を描写していく。

彼の念願叶ってアムステルダムゴッホ美術館へ辿り着き、本物と対峙したときの感動と、自分の今まで描いてきたものとの落差への気付き。そして、複製画しか描いてこなかった人生 =本当の画家ではないことへの焦りと、オリジナル作品を作ろうと決意する心の動き。こうした多くのドラマが、緊張感と希望をもって紡がれている。

農村部から出稼ぎに来て、都市の片隅で食うために格闘している中国人のことは、「都市部で苦労する中国人」という、現代社会の現象としてしか見ていなかったことに気付かされた。彼らは私などと同じように、自意識を抱え、なんらかの才覚を持ち、かつ限界に満ち、日々を生きるなかでどうやって自己実現を果たそうか、必死で考えていたのだった。そんな基本的なことに気付かされた。それが衝撃だった。日本から中国の都市部を見る時には、大手メディアの報道を通じて触れることになり、社会現象・問題としての視点がどうしても優位になる。そこに生きる個々人のパーソナリティーは無いものとして、視座の前提が出来上がっていた。それをこの映画は打ち崩した。

シャオヨンがゴッホの原画に触れて、いかなる意識の変化を迎えたかは、ぜひ映画を観て体験していただきたい。

 

また、第三の衝撃は、作品の強度、プレゼンテーションの力である。中国で作られたこのドキュメンタリー映画は、国際的に恐らくどの国の誰が観ても、スッと頭にストーリーや趣旨が入ってくるものだった。シーンの切り替え、尺の伸ばし方、BGMの使い方はお手本のように分かりやすく、効果的だった。このようにプレゼン力の高い映像を制作・発信できるポテンシャルが中国にあるということ、それ自体がわりと衝撃であり、他人の国の知財法や領海を侵すだけの国だと思って舐めてたらだめなのです。いや、侵したらあかんけど。

 

そういうわけで久々に映画館にふらっと立ち寄ったらとても衝撃を受けました、というお話でした。ドキュメンタリー系が好きな方にはお薦めです。

 

(○ ´― ` )  完