【写真展】タシロユウキ個展『hyperlife』@ギャラリー白
会期:H30.10/22(月)~10/27(土)
大阪・梅田の都市空間、自宅、寝室、職場など生活全般において目にする「パーツ」、都市のディテールを元にして擬人化を推し進め、独自の生態系を見出す写真作品である。
※筆者とは関係がアレなので、ここでは写真作品の作者を全て「作者」と表記します。
作者はこれらを発見し、産み出す視点を「ゲーム脳」と表現している。展示タイトル「hyperlife」とはそれら非生物による生命感を表したものだ。
作者にとって都市のパーツ(及び、それらを組み合わせて産まれた存在)は、幼少期より親しんできたゲーム世界の映像に由来するという。その言によれば、まさに少年にとってのカブトムシやクワガタのように近しい存在であり、憧れの対象であるはずだろう。だが作者の作品には、憧れや郷愁、あるいは交流というよりは、拒絶とまでは行かずとも、どこか相手とは断絶した場所からの表情が写し出されているように感じる。
作者は序文で曖昧模糊とした動機を語っているが、要は自身に搭載されたサブカルチャーの感性(ゲーム脳)によってこれらの「生き物のような」存在を発見、あるいは遭遇し、その存在に対してはできるだけ価値判断を差し挟まずに、いったん出来るだけ丸のまま受け容れる立場をとっている。
日常生活の全ての場面を舞台として、都市のパーツ、ディテールを、異世界の住人、ゲームで言うところの「モンスター」と見なして撮り溜めてゆく制作スタイルだが、その受け皿として用意しているのが、拡張されたRPG(ロールプレイングゲーム)としての独自のフィクション世界である。会場で配布されていた物語の設定集を見ると、今ここを流れる「日常」が何らかの破綻を来してしまったという、パラレルの未来世界を舞台としており、彼ら異形の超生物らを何とか活かして育てようと苦心していることが伺える。
すると作者にとって写真作品は、都市論でもスナップ写真でもなく、ましてや私写真とも異なる文脈、すなわち自身の生きてきたオルタナティブな現実である、サブカルチャーの世界を語るための手段だということか。
背景がやたらと暗く、擬人化された疑似生命体の顔や立ち姿が、クローズアップの一枚絵として浮かび上がる。このフォーマットは、80年代後期に蒭勢を誇ったファミリーコンピューターにおける視座、すなわち敵キャラクターに対峙する視座そのものである。初期のゲームでは乏しいデータ容量(不朽の名作ドラゴンクエスト1は64KB、2は128KB、3は256KBという、今から思えば驚異的に小さな容量)をやりくりするために、可能な限り削り込まれたデザインによって世界観が語られた。敵キャラクターは単色寄りかつ荒々しいドット絵で描かれ、データ容量を食わないよう黒く塗りつぶされた背景で出現し、ほぼ静止画の状態で、光や効果音を頼りにして戦闘が繰り広げられる。
作者の視座は初期の「ドラゴンクエスト」、「ファイナルファンタジー」の戦闘画面のビジュアルに置き換えると通用しそうな構図をしている。もちろん「女神転生」や「mother」でも構わない。(後者2作の方が、現実の社会が発狂して日常生活が怪物だらけになるという筋書きなので、作者のやっていることに近いと言える。)
しかし作家が提示したのは写真作品である。ゲームの話だけで終えずに、写真史上で参照すべき作家はどうであるかも探っておこう。
作者が度々語っていたのは「2年半前に学校(写真表現大学)に入ってから、このテーマが発見された」「大量に撮っていて浮かび上がってきた」ということと、「それ以前は普通の都市のスナップだったが、森山大道の展示を観たとき、自分の作品がその再生産だと気付いて絶望した」ということだ。
ここで言う森山大道の展示とは、『オン・ザ・ロード 森山大道写真展』(2011.6月~9月 @国立国際美術館)である。写真集もまともに読んだことのなかった作者が、無手勝流の都市景スナップを10数年続けていたら、全ては釈迦の掌ならぬ、森山大道の文体の内をうろついていたに過ぎなかったという。実によくある話である。
そういった反省を踏まえて写真表現大学に入学した後は、自覚的に写真に取り組み、写真集にも初めて本格的に触れた。特に被写体については独自ルールを設定し、「何を撮らないか」という縛りを掛けることで、自己のテーマを培っていったとのことだ。特定の作家の世界観を目指して足し算の活動に取り組んだと言うよりも、逆に引き算によって被写体を削り込んだ結果、都市から浮かび上がってきた存在が、本作「hyperlife」、超生命体であるという。
とは言え、作者は少なからず写真史に関心があり、マン・レイ、モホリ=ナギ、東松照明、奈良原一高といった古典的な作家に学ぶのを好んでいた。共通するのは、彼らはあらゆる光学上のテクニックを駆使し、複数のイメージを重ねて一枚の「写真」を創作する作家であるという点だ。東松照明に関しては意外に思われるかもしれないが、日本の米軍基地や長崎の原爆の爪痕といった社会派のドキュメンタリー写真だけでなく、前衛絵画のような大胆な色彩のぶつかりや広がりを表現したり、自らの手で作った電子回路の疑似生物を写すなど、多彩な実験を行っていた。また、あるテーマについて語る際に、写真を1枚、あるいは「組」で語るのではなく、「群」として提示することを説いたのも、東松照明である。
こうした写真史上の大家の試行錯誤に後押しを受けた作者は、被写体のモチーフについては引き算で絞り込む代わりに、映像化の手法については間口を広げ、ストレートあり、コラージュあり、疑似的な多重露光(Photoshop上でのレイヤー重ね合わせ作業)あり、そうした乗算の工程を通じて、生命性を帯びたイメージと偶然に遭遇する瞬間を求め、日々を費やしてきた。
ちなみにこの作業の手を止める上で基準となるのは、どこで生命感が出るか、そしてどこまでが「写真」であるかという線引きだ。この判断には、ゲームの感性のみならず、写真として成立する像のあるべき姿について論じる必要があるが、実は大学の写真部でモノクロの銀塩プリントを経験しており、よく議論になる「デザイン」と「写真」の線引きについては一定の理解があると見られる。
さて、ここまで述べてきて、作者の作品が「ゲーム脳による、都市イメージのゲーム的再解釈」であると結論付けて良いだろうか。否、これは「写真」である。
前述の通り、作者の依拠しているのが写真技術・写真史そのものであることは言うまでもない。モンスター達を題材とした架空のゲーム的な、パラレル世界としての壮大な設定集は配布されていたが、扱いの目立ちにくさもあって、後付けの観客サービスに近いものを感じた。むしろ会場を占めたクラシカルな展示方式に注目すべきだろう。ホワイトキューブ4面を、黒い細身のアルミフレーム、マット無しのA3とA2の作品・40数点を、4枚組~9枚組にて配列するというスタイルが示すものは、ゲームとは一線を画した、正真正銘の「写真」作品なのである。
ここに作者の現状、よく言えば写真作家として踏み出そうとする実直さ、批判的に言えば経験が浅いがゆえの(本展示が初回の個展)手堅さ、振り切れなさが伺える。鑑賞者にとっては、ゲーム的な解釈を行うための手掛かりは、設定集のチラシか作家本人の解説ぐらいで、後は全て「都市の写真」、つまり展示の総体としては、どこまで行っても都市論なのである。
ただし、現代の日本写真史における「都市」が主としては東京であったことを思うと、これらの風景は不思議である。大阪・梅田界隈だと断定できる物件もあるが、むしろ少数で、ほとんどは出どころの分からないオブジェであり、一体どこの都市の話なのかは伏せられている。大阪キタの象徴的な建築物、村野藤吾の「梅田換気塔」も、大阪キタのランドマークとしても、モダニズム建築の事例標本としても、あまりに異形の姿で迫っており、むしろ匿名化され、本作のテーマの根幹を成す存在として重要視されていることが分かる。
「都市景」としては断片すぎ、物語化されることは拒絶され、風景と記憶を巡るような考察物でもない。強いて言うならばSF、レトロフューチャー、近未来のイメージか。
写真史における「都市」とは、主に東京における高度成長期以降のパワフルな近代化、カオティックな猥雑さ、止まるところを知らない建造物や車や電線・電柱、放置自転車といったインフラの自己増殖、混迷、そしてそれらオーバードライヴ化した都市インフラの狭間に空虚にたたずむ人々、或いは無機質なカオスに順応して日常を生きる人々などの姿を捕捉するものである。あたかも「私写真」と表裏一体の関係――カオスで虚無な都市に投げ出された「私」が、パーソナルな視点から自己の生と性を語る(ということにされた)私写真的なものと補完し合う舞台、映像文体が、写真史における「都市」写真ではなかろうか。
だが、この作家の撮る「都市」には写真史的な意味でのカオス、しいて言えば「場」がなく、地理的にも文体上も写真史上の「都市」からは切り離されている。なおかつ、都市生活者の混迷や私情、性もなく(夜ごと変形を繰り返す自室の布団を撮っているにも関わらず)、つまり私写真の文脈ともリンクしていない。ただ、都市生活に生息する何者かが、こちらを見ているだけなのだ。それも都市への批判とは異なる色合いで。
伊奈英次『Watch』の素朴かつ鋭い指摘とも異なり、内山英明『Japan Underground』のごとき壮大さへの没入感も伴わず、個々の超生命体がぎらぎらと目を向けているだけのこの視点は、果たして作者の言うとおり「ゲーム脳」と呼べば良いのか。はたまたアウトサイダーな、現代アートを齧っては曲解した末の都市写真なのか。単なる作者固有のフェティシズムと割り切ればよいのか。
この視座について、作者が自分の言葉でもう一歩、二歩と踏み込んで語るようになると、我々の都市生活に対するなにか新しい物語なり批評なりが生まれるかも知れない。
本展示は、幕の内弁当である。都市の棲息者として、都市のディテールと自室の寝具や勤務先の病院の器材などがいっしょくたに並べられている。それはそれで面白いし、共通した味付け(=視点、テーマ性)も感じられる。しかしこのコミカルで雑多ながら、どこか不穏な視点が、どこに由来し、どこへ向かうのかを、「ゲーム」の一言で語り切ってしまうのは惜しい。もしゲームであると言い切るならば、撮影時のフレーミングのみならず展示のフォーマット自体をゲーム批評とし、サブカルに典型的な物語の文体に呼応した空間とする工夫が必要だろう。
本作で重要なのは、作者自身を初めとする我々「ヒト」は、如何に都市をキャラクター化しようとも、何者かを召喚して味方につけようとしても、それらの存在とは根本的には断絶状態にあることを示している点ではないだろうか。作者がトーンカーブの調整、レイヤーの重ねの操作によって深めていくのは、親愛の情や親しみなどではない。対峙の緊張感である。撮影し、作品を作り込むプロセスにおいて、異次元に潜んでいた超生命体たちが都市景の中で顕現する。さりとて作者自身の分身や友人と化すわけでもなく、RAW現像、レタッチの度に、建築家やゼネコンの意図、作者の思惑からさえも切り離された「個」として認めざるを得なくなる。ここには、彼らを圧倒的「他者」として成らしめる、本質的な線が1本通っていることを意味する。
都市システムは、我々ヒトの動向や内面には頓着しない。全く別の理屈でそこにあり、稼働している。作者はその前提を、不幸にも覆すことが出来ない。自身のフィクションに引きずり込むだけの強引さを持てないためか、あくまで写真家としての弁えなのか、作家性を出そうと力を入れても、それらと対峙する眼差しの緊張感が強化されるに止まる。制作の興が乗って、映像に溺れることは時折あるだろう。しかしどこか冷ややかな世界が自己の外側にあり、その一線は守られている。
ここでの緊張関係とは負の意味ではない。脅威、興奮、驚き、喜び、やりがいなど肯定的なニュアンスを多く孕み、特に3秒ごとに画像の切り替わるデジタルサイネージでは、総じてテンションの高い内容となっていた。作者の目下の悩みは、一部の撮影先で警備員の態度が硬化しており、撮れない場面が増えてきたとのことだが、何のことはない、社会が警戒するぐらい日々執拗に撮り続けてきたのである。都市との断絶を超えられないことを半ば自覚しながらも、そのやりがい、喜びは何処から生じているのだろうか。
悲観的に現代の都市環境を述べれば、都市とヒトとは一体化されえず、分かり合えることもない。逆を言えば個人としてのヒトは、都市や企業に、位置情報から検索履歴、嗜好から歩調、表情に至るまで、すべての情報を一方的に搾取されている。だが我々ヒトの多くは、都市での暮らしを生きゆく必要に迫られており、至るところで誰の所有物か、何のために設置されたか分からない監視カメラに一方的に観察され、各種のスマホアプリからは刻々と個人データを採取されながら、それでいて定時出勤、タスク処理、ワークライフバランス成立を効率よくこなし、健康かつ文化的な生活を送らねばならないのである。なんと涙ぐましい種族であろう。
これは緊張関係というより、既に主客の逆転した、権力関係なのではないか。私たちヒトは、都市システムに支配されながら、それを維持するために生きている。が、私たちの側からシステムを理解できることがない。
もしかすると、この圧倒的なパラドクスを、ヒトの側から一方的にうまく回収して、日々の楽しさに変換するというカウンターの試みが、作者の呼ぶ「ゲーム脳」という仕組みなのではないだろうか。
実際に、都市機構の多くはシステム化されており、その自律性は目に見えず、触れられず、私たちが何を思おうが操作、変更することができない。それとは、電波かもしれない。法制度かもしれない。契約書の文言かもしれない。人の手の及ばぬシステムの総体が、この都市空間、生活空間を形作っている。このシステムに手を加えて意図的に変更できる個人はいない。むしろ逆に、ヒトの側がシステムの判断に従って身体を動かしているのが実情だろう。例えば店舗スタッフも鉄道会社の社員も、彼らに雇われる警備員も、彼らが呼ぶ警察官も、うまく都市システムの演算と学習と警告に従い、自身をシステム化することで日々を円滑に生きている。
作者はこれらのシステムの専制、至るところに潜在する無機質な制度・権力に対する、一つの決定的な態度を示した。自分で勝手に遊ぶ、という態度である。
擬人化の限りを尽くし、誤読によって冷ややかな都市空間を、独自の遊び場に変換し、生きる糧にしようという試み。それは80年代生まれという、まさしくファミリーコンピューターやゲームボーイとともに育ったゲーム世代にできる、最大限にアナーキーな態度なのかもしれない。だがしかし、やはり作者は不幸にも、誤読に、創作に狂うことができない。いかに卓越したゲーム脳を搭載して、独自のゲーム遊びに興じても、彼は都市のシステムを認め、尊重してしまうのだ。その結果として、個々の写真で被写体となったモンスターらは、作者の主観から断絶されたところからこちらを睨んでくる。
作者は大学を卒業してからは、病院の事務職員として経営に携わり、法令や診療報酬制度、経営学の類を遵守して生活してきた。言わば、都市システムそのものの存在である。アラフォーである作者は、これまでの人生で本格的な「表現」を志したことがなかったのではないか。つまり「作家」として、圧倒的な「個」として――ある種の思想的テロリストとして、都市の前に立ったことはなかったのだ。それが、作家活動を志す中で、初めて「個」として、社会のシステムに対して態度を示したのだ。
都市景から呼び出された超生命体なるモンスターたちは、もしかすると作者が都市システムの在り方を無視して、自身の独自の「ゲーム」を一花咲かせるため、すなわちテロルを委託するための予備軍だったのかもしれない。
比較的平穏な日常系のパーツの作品は、都市システムの一部としての作者。ハードなSF的イメージの作品は、テロリスト予備軍を呼び集めたものの、特段の指示を出せずにいる作者。この両者が、行きつ戻りつしている姿が、展示会場に浮かぶ。このテーマの進展に伴い、作者はテロリストに染まるだろうか。あるいは日常に回帰するだろうか。
その両者の狭間で揺らぐ、割りきれない「何か」が、本展示で最も異質なモチーフであった自宅の寝具(ふとん)の、何ともいびつで解釈のしようのない姿形に憑依している、と言えば、出来すぎだろうか。
完 ( ´ - ` )。