写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】林優子 個展@ギャラリー白 (ハク) kuro

【写真展】林優子 個展@ギャラリー白 (ハク) kuro

【会期】2018.10/15~10/27
f:id:MAREOSIEV:20181024163434j:image

私の個展と同じギャラリー(階が違う)にて、ちょうど同時期に開催されている写真展である。しかし同じ写真表現でもその主眼は大きく違う。私の作品が、写真という眼差しの技法において「視点」に特化したものであるのに対し、林氏は「網膜」、すなわち光が眼の中の受容機構に届いて、ものが「映ること」と、それが引き起こす感情や記憶について語っている。

 

 

展示は3部構成となっていて、真っ暗な会場内で光彩が静かに咲いている。3セクションそれぞれのステートメントには「本当にあった事?」「HEART」「Smoke」とタイトルが振られている。どの作品も、光が像を結ぶ以前の光景のように、幾重にも重なりあっており、そこに何が写っているかは捉えることはできない。捉えられない光の重なりを見ているうち、観客は作者の眼の中、網膜の内側、そして知覚の作用について見ているのだと感じるようになる。

 

「本当にあった事?」は、色味の異なる3枚の写真で構成される。1枚目は緑、ピンク、白い輝きに満ち、その隣に水色、輝き、暗い青を湛えた作品、そして3枚目には銅色、くすんだ金色のような作品が並ぶ。

これらの3枚はそれぞれ、被写体として光の粒、輝きそのものが写し取られているが、マット感のある紙のピグメントプリントが、光に素材性をもたらし、光は被写体であることからメディウムへと転じていく。

すると、ここでの真の被写体は何か?というと、この様々な光にゆらめく視界そのもの、もっと言えば、このような視界を抱くに至った作者あるいは鑑賞者の心理、感情なのではないだろうか。明確な色の違いで併置された三枚の作品は、対比されることで例えばそれぞれに、
◯喜び・沸き上がる希望 
◯理性的な思考、洞察 
◯満足、充実感 
といった、作者の体の内に生じる反応を写し出しているように解釈することもできる。あるいはこれをキャプションに沿って、何らかの記憶に関する印象として見ることもできよう。

 

林氏の作品は、一見曖昧なようで、曖昧さを許していない。それは、具体的な事物を抽象化しているのではなく、この「世界」(外界、内面含めて)が知覚され、認識によって具象化されてゆく際のプロセスを撮影しているためだと感じた。それは「HEART」のキャプションで言及されているとおり、認識論の映像であることが分かる。

内面の化学反応を撮った映像だと考えると、この確からしい(ということにしている)「世界」というものは、ニューロンの発火の組み合わせから構成されているのだと気付かされる。

 

最後の「Smoke」では 、光の粒は一定のテンポを持ちつつ、視座が固定されており、あたかも眼前で鳴っている音楽が体へとやってくるのを知覚、認識する、その工程の一部を映像化したような光景となっている。音楽自体も、ジャズのように一期一会の形で揺らいでいる。

 

作品としてのフォーマットが強固な分、どの作品も抽象的でありながら、曖昧ではなく、イメージが個として在ったのが印象的であった。認識と形を巡る模索。もし画面を「作品」として強く構成する白い枠がなかった場合、「音」はどのような形で視界に響いただろうかと興味が湧いた。

 

 

( ´ - ` ) 完