【ART】中ハシ克シゲ「触りがいのある犬」@兵庫県立美術館・県美プレミアム「美術の中のかたち―手で見る造形」
犬に触れてきました。
見た目には、「不完全な」犬(の作品)です。しかしこれが最適解です。
その理由は?
タイトルの通り「触れて視る」展示だからです。
これは作家自身が発見した最適解で、目隠しをして作られています。
初め、通常の手法で愛犬の存在感を彫刻作品にしたところ、外観は本物の雰囲気を伝えていたものの、目を閉じて触わってみたところ、期待していた存在感とは別の物になってしまった。その驚きと落胆から、目隠しをして「触りがい」のあるかたちへと向かう制作に至ったことが語られていました。
非常に興味深い話です。五感は視覚優位で統御・補正されており、視覚を除いて検証すると、実際のところから大幅にずれているという素朴な発見について語られています。
よく、食べ物を美味しいと感じるかどうかは、味覚もさることながら視覚のウェイトも大きいと言われています。味は同じでも、カレーが青かったり、白身魚の刺身が緑色だったら結構イヤだと思います。それと同じようなことが、同じかな、それ違う話のような気がする、違うな、まあいいや、同じことが、彫刻、ひいては、何かの「存在感」についても言えるでしょう。同じかな。青いカレーの(略)
芸術とか表現とか、視覚優位とか、存在とかは、難しいだの、よく分からんだの、めんどくさいだのと言う人のために、学芸員の方が書いたリード文がものすごくわかりやすい&ほっこりするので、まずは読んでみることをお勧めします。
( ´ - ` ) いいテキストなんですよ。
中学生でもよく分かるのではないか。
我々が何かについて「こんな感じ」という「存在感」を感じたり、伝達するときには、視覚を優先的に働かせていることが指摘されています。その何かがどういう「存在」か、我々が抱く実感、納得感は、五感なり六感なりを駆使してイメージを作り出しているものの、最終的には眼で見て、バランスがとれているかを脳に伝えて判断し、更に必要に応じて調整を行っている。このような認知経路が働いている、しかも結構強力に作用していることが、テキストから気付かされます。
これが、一般の生活であれば、このプロセスの精度が高ければ高いほど、そしてステルス化されていればそれだけ、合理的かつ無駄のない思考ができ、良いこととされるでしょう。
しかし、こと「存在」って何だろうか、「表現」とは何をすることかを考えるとき、実践する時には、大問題となります。「手触りの触感も含めた存在感を、立体造形で再現する」という今回の試みにおいては、「眼がイメージを総括し、バランスを計算し、必要に応じて補正を行う」という工程が想像以上に効いてくる=作品としては想定外に大きな逸れ方をする、らしいのです。
これは面白い話です。眼で見て完璧だと思ったら、違和感のあるものになった。「だまし絵」の逆が起きたということです。
わん。
外部のモノ、何らかの「存在」と向き合う、ということは、この五感なり六感があまり頼りにならないのでは、という疑念・不安(=所詮は脳が生み出す幻体のようなもの?)と向き合わざるを得ないことでありましょう。そして、それでもそれしか頼りに出来るものがないという、逆説的な確信を抱きながら(抱かないと表現はできない)、板挟みになりながら、やっていくしかない。そのようなことかなと感じます。
なぜ西暦2千年も過ぎたハイテク社会の現代で、未だにこのような観念論と実在論の間に掛かった吊り橋をゆらゆら歩く羽目になるのか分かりませんが、結局は人類まだまだ、何ら過去の問いを解決できていないのですねと、犬を撫でながら神妙になります。なあ犬。おれたちはどこへゆくんだろうなあ。
「おまいらは何処にもゆけぬのだワン」 はい。
「おまえらはわしの手を見てお手をせがんでいるようにしか思わないだろう、それがおまえたちの意識の陥穽であり限界なのだワン」 はい。
「わしを敬えワン」 はい。
そういうやりとりはしませんでしたが、いぬは可愛いです。これは私の写真がよくない。かわぅいいですよ。
本当に表情や仕草の再現度は高く、犬です。作者の目が開いていようが閉じていようが、あまり関係がない気がしてきました。凄い技術です。見た目の溶け感と色がガムテープの塊のようになっているので、一見油断しますが、立体、そこに立つモノとして撫でていると、まさに犬です。
私の実家に15年近くビーグル犬がいましたが、「犬を撫でる」動作をとると、当時の飼い犬のことが思い出させられます。動作に記憶が眠っていることが分かります。その動作を引き出すのが、形状や手触りなどの「存在感」であるようです。作品はイメージの総合体であり、また、鑑賞者の中で湧き起こったイメージをぶつける場そのものともなります。
よしよし。
しかしこれらの作品は、物理的には犬ではないのに、まず「これは犬(を再現しようとした作品)だ」と、こちら側がかなり強固に前提をセットして臨んでしまった点は気になります。ここまで犬ありきで良かったのかな。その問いについては、毛布に包まって中身の見えない作品が、一定のソフトな想定問答となっていると思われますが。
つまり、何らかの存在感をゼロから手探りで確かめるのではなく、鑑賞者が思い描くそれぞれの「犬」のイメージを、作者が込めた愛犬の記憶のイメージ、特に手触りにおける犬の存在イメージにぶつける「場」である。作者が見えない「触覚犬」を散歩させていて、鑑賞者はそれに触らせてもらい、めいめいの飼っている触覚犬の記憶を「撫でる」ことでイメージを交換し合い、そこに新しい(=視覚に依らない)「いぬ」が生じる。
眼をつぶって、手で鑑賞するという、面白いひと時でした。美術館の内よりも外に出してあげたい。
このテーマシリーズ「美術の中のかたち―手で見る造形」は、兵庫県美が1989年から継続しているもので、目の見えない方にも美術を楽しんでもらう目的であったとのことですが、目が見えるか否かと関係なく良い企画です。特に視覚に偏りの強い、写真だの映像表現をやる人は、頭(体?)の体操として、ちょいちょい触れておいた方がよさそうです。
写真をやっていると、撮った後の液晶モニターやデスクトップのディスプレイは貪欲に凝視するが、肝心の眼前の「何か」については全然見ていないということが往々にしてあります。ましてや、自分の内に据え付けられたフレーミングを一旦外して、眼前の「それ」そのものを見る、「触れる」という機会が、果たしてあるのか否か。
他分野の表現者から「おやおや旦那、ピクトリアリズムですかあ。羨ましいですなあ」などと揶揄されたりせぬよう、このへんの「存在」(外界)への態度の踏み込みについては内省しつつ、よい関係性を構築していきたいものです。
会期終了が近いので、「プラド美術館展」も観たのですが、体調が思わしくなく、途中から立ったまま眠るという危ないことをしました。作品に頭突きをかましていたら、今頃は家や腎臓を売る羽目になっていたかもしれません。おお。
フェリペだの何だのと、スペイン国王のツラが縦に長いことだけはよく分かりました。ムリリョとかベラスケスには、あまりときめきませんでした。ふう。
( ´ - ` ) 完。