【展示】プーシキン美術館展 -旅するフランス風景画- @国立国際美術館
H30.7/21(土)、プー展(略)が始まりました。仏に的を絞って、西欧絵画における風景画の歴史をロココ前後から印象派のあたりまで駆け抜ける企画です。
メインコンテンツは、大改造されたパリ(19C半ば)という近代都市と、印象派前後の作家らとの関わりについて。モネ、セザンヌ、ピサロ、ゴーギャンなど、超有名人が続々登場し、豪華な企画となっています。
H30.7/21(土)10時開場時。
「昼から行ったらどうせ混むから、朝から行っておこう」と思ったら、行列です。うあえあ。この美術館で行列ができるのは珍しい。印象派すごいな。どんだけみんな好きやねん。それでも人数はしれていて、混雑はしませんでした。
それにしても暑いです。暑すぎてしにます。昼からの客の入りがえらく少なかったのは、暑すぎて外出意欲をみんな失ったせいかもしれません。あつい。
さて展示です。
この企画は、よくある「印象派で満員御礼おいしいです」に留まらず、絵画や写真において非常に重要な基礎である「風景」を理解する上で、よい学びの場となっていました。非常によくできていました。夏休みの課題はこれで決まりです。お子さんのいる家庭で、夏休みの読書感想文や自由工作で困ったら、本展示を活用して「風景とは何か」という問いを学校教師に叩きつけてやると良いでしょう。夏休みの宿題を撤廃せよ。学校教育は糞だ。わああ。だめだ体温が上がる。
はい。
とにかく「風景」の成り立ちを簡潔に解き明かしてくれている点が、この展示のメリットです。場内の解説文が分かりやすいので、事前に小一時間ほど西洋絵画史の近代あたりを押さえてから観に行くと、更に効き目があります。
風景という概念が絵画史において、どのように育まれていったか、それを現物の絵画で、300年分の歴史を要約して巡っていくことで、「印象派マジでやばい」とか「モネは神」「セザンヌのぶっちぎり感は異常」だの、「風景写真の評価基準って数百年前の絵画から変わってないんじゃ疑惑」などの感想を抱くことになり、晩酌がすすみます。「結局あんたも印象派好きやん」 そだねー。黙りな。
本展示で示された体系と気付きを以下にまとめます。
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(1)仏・市民革命(1789)までの絵画(バロック~ロココ調あたり)
〇基本的に神、神話、聖書を基調としつつ、遠近法と細部の描き込みを超しっかりやる
〇想像、戦略で構成する (✖目の前の景色、見たままの光景 ←度外視)
→・16~17世紀、風景や農村を描いた画家はいたが、風景画自体の評価は低い。
・登場人物はほぼ全員、画面を理想的に構成するためのモーションをとる(不自然な仕草が連発)
・光あるところに、神もしくは貴族の親玉など、一番偉い者がいる。忖度芸術。
・ロココはゆるふわ、キラキラ
・上流階級って暇なの?
(2)市民革命後(ロマン派、新古典主義)
〇神話などを範にとりつつも、徐々に神の支配濃度が薄れ、自然の太陽光がなす陰影、色彩の変化や地形が注目されてゆく
=風景が徐々に「立って」くる。
〇けど構図の厳密さは強固で、宗教画の発展版という感じ ←脳、理性できっちり「構築」して描いている
〇農家、農村や、異国をテーマにした作品が多くなってくる。
・なんか「画面内の全てにピントが合っている」「けど遠近法はばっちり」「構図のバランスと面白さが計算され尽くしている」あたりは未だに写真では追求されているテーマだから、根の深い血縁、呪いのようなものを感じる。
(3)19C:自然主義、写実主義
〇息の詰まるような完璧さ、厳密さ、神々しさが徐々に穏やかになる →「自然」な外界、景観へと眼が向かう
〇クールベは神や神話への忖度を終わらせた。「いたしませーん」「私見えないので」 →眼に見えている「日常」、さりげない身近な光景を主題とする。冴えないものへの眼差し。それは彼が左翼的な、反教権主義の運動を行っていたこととリンクしている。
〇「自然主義」コローあたりから、主題(主となる登場人物)と風景との力関係が逆転し、風景そのものを描くようになる →かなり印象派のイメージに近付く
〇農村、農民に崇高さのようなものが宿る。
(4)印象派&パリ大改造期
〇 時代としては、写真史の始まり(1839~)、パリから汽車の発展(1843~)、バルビゾン派(1849~)、そしてモネ『草上の昼食』(1863)、第1回印象派展(1874)、といったところ。
〇印象派画家は明らかに「光」を見ており、「形」や「型」を描いてきた従来の絵画と明らかに、あまりにも違う。当時理解されず非難されたのも納得できる。新しすぎた。
・一方で、現代なら写真で撮られるべき画風の絵画があり、写真と絵画が分離する最後の時代(=絵画が唯一の映像メディアだった時代)であることが分かる。
→ルイジ・ロワール『パリ環状鉄道の煙(パリ郊外)』(1885)、ジャン・ベロー『芸術橋(ポン・デ・ザール)近くのセーヌ河岸、パリ』(1890年代後半)は、まさに都市景写真そのものの形をした絵画。視座に誇張がなく、ちょうど街の中でフラットに、かつ構図としての安定感をもってシャッターを切ったときの画角で描かれている。単なる「風景画」ではない。とても写真的だ。
→これ以降、写真技術が急激に発達するため、外界の景色・景観の描写など、従来の絵画仕事は写真がお株を奪い、絵画は「絵画にしかできないこと」という新境地を目指してゆく。
・なので絵画が一気に「わけのわからん絵」(=抽象的)になっていく。フォービスム、キュビスムなどといった「芸術(家)=わけわからん」の系譜はこのあたりの、写真との分岐から始まっている模様。
・そう思うと印象派のぎりぎり感は奇跡的。風景として「分かる」し、ほどよく「抽象的」な上に、光を描いていて「美しい」ので、観る側の主観だけで共感し、耽溺することが容易である。日本人がめっちゃ好きなのも納得できる。
→極論すれば印象派は、絵画史でも有数の、美術史の知識が全く要らない領域であろう。見て感じるだけで、十分美しい。実際、ルノワールは反則級に美しい。
(5)後期印象派、フォービスム、キュビスム
〇異国へ向かう(ゴーギャン)、リアリズムや自然主義に抗して内面を描く(象徴主義:モーリス・ドニ)、想像だけで描く(アンリ・ルソー)、視覚上の実験によって世界の多相な在り様を捉える(セザンヌ、キュビスム)、色と平面に特化する(マティス、ドラン)、などが展開される。
〇さらにはシュールレアリスムの影響も入る。 →夢、深層心理、無意識などの動員を試行錯誤
・つまり、目に見える「風景」という枠組みを超えたものを求める運動となっていく。この頃の絵画史は科学技術の変遷と同じく、昨日より今日、今日より明日、と、常に新しさに向かって走っている。(= いわゆる「モダニズム」的な時代)
→走った結果、「絵画表現には何が可能か?」というメタな次元の問いかけへと足を踏み入れる。この流れがデュシャンまで続く。
・「風景」がやたら抽象化され、より平面の躍動感、色の「塗り」の概念を追求する方向に走ったのは、自動車や蒸気機関車といった近代産業の恩恵の影響が大きいのではないか。これまでの経験則を超えた視覚・視座を獲得したことの驚き、革命があったのでは
(=座ったままの姿勢で、時速60㎞前後で流れ去る「風景」を、窓から一方的に浴び続けるという、前代未聞の体験)
・しかしフォービスムは、個人的には何言ってるか分からんので苦手。たぶん私が現地の風土を知らないせいかも。あの鮮烈な色彩べたべたの支配感は、実際には現地の夕暮れなどに見られるのかもしれない。
⇔同時代、現実の客観的描写、ジャーナリズムやドキュメンタリーは写真の独壇場となっている
※それでいて前衛芸術には写真も盛大に駆り出される。写真無双。
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という感じ。
体系的な学びをやってる人が観に行くと、強化されるので、効果があります。
何より現物を観るのは最大の学びだし、最大の糧です。魂がよろこびます。
会場の最後に記念撮影コーナーがあります。アンリ・ルソー『馬を襲うジャガー』(1910)を大きくした背景セットですが、この絵がどう見ても「白い馬が何の感動もなく肉食動物をむしゃむしゃ食ってる」ようにしか見えず、すごい怖いです。なんやろう世界の秘密の真実みたいな。こええ。
今回の展示図録はとてもよくできていて、展示作品の65品すべてについてかなり綺麗な写真と、丁寧な解説キャプション、そして見やすいデザインで作られており、絵画史を復習するのによい資料です。しかも値段がやたら安い(2300円!)。
それでも、図録の掲載されている絵画の写真は、資料としては綺麗によくできているものの、反面、実際に会場で体感する陰影、謎めいた魅力などは消し飛んでいます。つまり別物です。
特に、今回の目玉である、クロード・モネ『草上の昼食』『白い睡蓮』、セザンヌ『サント=ヴィクトワール山、レ・ローヴからの眺め』は、全く別物になっています。現物は凄い。平面芸術ながら、映像装置としての効果があって、この眼で見ていると、色や形が合わさって、この体内で動きを生じるような効果があります。動くんです。印象派の凄さはそこにあります。
特にセザンヌ。この男が、印象派とキュビスムを繋いだ、絵画史上の革命家である。教科書的にはそういう理解となりますが、現物を観ると納得というか、「何を食ったらそんな絵画ができんですか」と真顔で問わざるを得ません。天才過ぎて意味がわかりません。
おそらく、単体で展示されたら「ああ、抽象的ですねー」で終わるのでしょうが、1時間ほどかけて絵画史を歩いてきた上で『サント=ヴィクトワール山、レ・ローヴからの眺め』を見せられると、「死ぬ1年前(66歳くらい)にこんな作品を・・・」「一体どういうこと・・・」と呆然とします。この絵は、わけがわかりません。ごっちゃごちゃの、ぐっちゃぐちゃで、色なのか形なのか、山の麓の街を描いたものなのか、絵画へのメタな反抗なのか、判別ができません。
わけのわからないものを、創り出す力というのは、本人は理解されなくて不幸だったかも知れないけれど、少なくとも100年後の人類にとっては福音であり、救済です。分かるもの、分かりやすいものがとにかく怒涛のように押し寄せるWeb世界に慣れ親しんでいると、圧倒的に意味不明な「力」でぶん殴られる機会というのは、たいへん重要な体験です。合法的にわけがわからなくなる手段は限られているので、アートを服用しようぜということです。わけわからなくなりましょう。ぎゃはは。
セザンヌについては、そのお人柄などを予習していくと色々面白いというか。「今でこそ、こうやって歴史上の偉人になってるけど、コミュ障ひどすぎ」というのが定説です。知れば知るほど残念な人です。唯一の親友(エミール・ゾラ)に後年小説で批判されて絶交したり、俺の技術を盗もうとしている!と猜疑心の塊と化したり、クレイジーな話が豊富です。
モネの「草上の昼食」(1866)は、現物で観ると大変美しく、森の中での自然光の多彩な色調の妙が体感できますが、これを複写してポストカードや図録にした途端、登場人物に射す森林光が緑色なので、一転してゾンビのような顔になり、全く美しくありません。なんだこのゾンビ絵画は。つくづく、複写の難しさを知ります。
なお、先輩のクールベから「こうしたほうがいい」とアドバイスされて、言うことをきいて修正したら、作品に満足できなくなってお蔵入りする羽目になったという黒歴史があります。そんな話を100数十年後に国立の美術館で、大衆の眼前に晒されることになろうとは、有名人はつらいですね。
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ちなみに、この『プーシキン美術館展』がフォービスムやシュールに達するあたり(1920年代)で幕を閉じる分、その続きの現代美術については、同時開催中の『コレクション1:2014 → 1890』が引き継いでいます。
しかし、解説がない上に、日本国内の現代美術史は、世界の絵画史とまた別の歩みがあるわけで、あまり聞いたことのない作家の絵画を置かれると、しかもそれが70年代以降だと、とたんにわけがわからなくなり、苦労しました。中ザワヒデキとか椹木野衣の研究を参照して体系的理解をしないとだめです。
( ´ - ` ) けど写真作品が豊富で、石内都の初期モノクロ写真があったりして楽しかったですお。
完。