【写真表現大学】H30.7/15(日)ゼミ③ ~個展の計画を構築しよう~
この1ヶ月で、地震やら大雨がありましたが、早くもゼミの日です。
気温が38度あって、人が生活する水準ではなく、もはや大気で低温調理が出来そうな気がします。へい旦那なに温めましょうか。
本日の授業では、10月下旬に行う個展のプラン骨格作りをしました。
写真をやっている人間は、展示(個展)をしないと何も始まらないので、観念して準備をします。しましょう。
昔は「Webで出して当たればそれで良いんでは」「VRはよ発達しる」と思っていましたが、実際の写真展示を色々見て回った結果、生の展示に勝るものはありませんでした。
なぜかと言うと、第1に、写真は非常に繊細な映像メディアであるため、見せ方によって伝わることが大きく変わります。並び順やサイズを変えるだけで、作品のメッセージ性が揺れ動く。
そして第2には、それゆえに作家のコントロールから手放し、観客に直に触れてもらい、解釈を委ねる必要があるということ。
これは小説や映画と全く異なる特徴です。そんな変数お化けの暴れ馬を何とかするという仕事が、作家として大事なステップになります。そもそもWebでは、観客は五感で作品と対話できません。モバイル環境違ったら見え方変わるし。あきらめましょう。
(※紅葉とか美人なお姉さん、飛行機や廃墟など、1点ずつが独立し個々の強度で成り立つ広告・ファッション等のフォトジェニック系写真は、また話が別です)
畑館長「写真は、展示することにおいて、作家の思想が宿ります」
はい。( ´ - ` )
これはやばいです。
見る人が見たら、作家が何を考えてるかが見透かされるわけです。逆に、展示をしなければ、作家の考えが見えてこない=評価されない、ということでもあります。
経験上なんとなく分かるのですが、作家の思想が乏しい展示は地獄です。
例えば風呂を勧められて、喜んで入ったら、シャワーのお湯が出ず、石鹸もシャンプーもなく、湯船も栓がなくて水が溜められない、けど「うちの檜風呂どや」と圧だけはすごい。そんな居心地の悪い経験ありませんか。ぐう。自分はそうはならないようにしたいものです。します。
というわけで個展に向けた構築ですが、全体を通じて、ざっと以下のようなプロセスを踏みます。踏んできました。
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①テーマ構築 ⇔ 撮影 ⇔ 合評(プレゼン&批評)
↓↑
②コンセプト深化 & 再撮影 ⇔ グループ展計画
↓↑
③グループ展 & ポートフォリオ作成 ⇔ プレゼン&感想受け
↓
④PDCA総括 →個展企画(場所、時期、テーマ)
コンセプト深化 ⇔ 撮影 ⇔ 合評
↓
⑤個展計画(テーマ、コンセプト、点数、セレクト、構成、納期、予算、等)
↓
⑥詳細計画:構成&セレクト
(客動線、ストーリー、作家性、キービジュアル、ターゲット、仕掛け、次回展開)
↓
⑦発注・依頼(DM、プリント、額、その他展示物、各種協力者への要請)
↓
⑧展示実施(プレゼン&感想受け、販売)
↓
⑨(④に戻る + 次回以降の展開 …写真集作成など検討)
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粗いけど察してください。先月あたりからフェーズ⑥に入りました。
( ´ - ` ) せっかくなので、本日検討した⑥の中身を、もう少し具体的に見ましょう。
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a.客動線:
来場者がまずどこを見るか。作品世界にどこから「入る」か。次にどこへ歩いていくか。そのとき眼を逃がさないための流れは。最後どこから出ていくか。会場の作りから考えられる最適な配置は。
→入ってすぐの取っ掛かりは「都市がかつて求めていた姿」、モダニズム建築家の思想からスタートする。うずまき回遊を想定し、壁4面はフルに展示に用い、ポートフォリオやテキストは会場中央に机を置いて対応。
b.ストーリー:
作品で伝えたいこと、論旨は。一体この会場で何を伝えようとしているのか。作品に何を語らせるのか。疑問・衝撃と、理解・納得のリズムを作る。
→モダニズムの都市デザインから、 現代の都市のデザイン、サブカル感へ、そして現在の都市生活、生活者の頭の中・視界へと視点を移す。「何気ない日常」を送る我々の世界はどうなっているか。
その世界には、ゲームやアニメの影響が色濃く現れる。一見、各ブロックで別の作品のように見えるかもしれないが、全て一つのテーマタイトルの下で展開していることを強調。
c.作家性:
この作家は一体何者なのか。キャリア、生き方、写真との向き合い方、バックグラウンドは。政治的・宗教的信条は。傷、トラウマはあるのか。過去にやってきた一連の展示はどうだったか。ライフワークは何か。
→この作家は、平々凡々とした勤め人であり、文系大卒、30代後半、男性、独身。日本有数の大都市(大阪・梅田)を経由して郊外の戸建てに在住。
写真に親しむ者であり、写真史を縦横断する者であり、写真を語り発信する者である。つまり、一定の多様さを持った都市生活者である。
d.キービジュアル:
本命はどれか。「今回のライブのセンターは誰か」。欠ければライブが成り立たなくなるメンバーは誰か。
→ ウフフ
e.ターゲット:
誰に見せたいか。上位5人は誰か。それはなぜか。誰に何て言ってほしいか。褒められたいか、好かれたいか、語り合いたいか、コラボしたいか、異議申し立てか、それとも?
→ ウフフ
f.仕掛け:
写真だけが展示ではない。壁面、床、机、椅子、照明、チラシ・DM、ポートフォリオ、端末、モニター、題字、無線・有線・・・会場内で使えるものは? 会場内外で連動できるデバイスは? それによって生まれる「場」とは?
→来場者の参加を前提としたい。「来た・見た・終わり」ではなく、来場者が感想なり批評、思いついたことのコメント、投稿を投げかけて、それがリアルタイムに反映され、展示の一部として融合されるのがよい。来場者の働きかけが「場」に影響を与えられる仕組み。メディアミックスの可能性。
例えば感想がタイムラインで掲示される、そこいらで写メを撮って送ったらモンスターの一部として採用される、送ってくれた「あなたの棲息者」写メをアルバムに追加していく、等
g.次回展開への展望:
これまで発表してきた作品と、まだ見せていなかった作品の関係はどうか。
→ ( ´ - ` ) 彼らは優秀な無名のゲリラなので、まだがんばってもらいます。
h.セレクト:
・・・といったことを実現できる作品はどれか。
→すぐに決まる。これまでの合評、セレクト作業で残ってきた作品が真っ先に展示候補となる。他のカットと力が断然違う。昔、即・候補落ちしたカットは、今確認してもやはり採用できない。とは言いつつ、たまに再発見があって面白い。
i.展示規格:
・・・といったことを会場で実現するにあたって、最適な仕上げ、サイズ、額装、高さ、間隔はどうか。
→詳細は寸法計算すればOK。当面は組み方とかレイアウト詰める。
j.総体:
・・・ということを一空間で展開するに当たって過不足はないか。伝えるべきことが伝わるか。足りない要素はないか。会場に私がいなくても、伝えることは出来るか。観客へ問いの投げかけはできるか。身の程をわきまえつつ、攻めに出ているか。等々。
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( ´ - ` ) といったことを、1時間ほどの講師とのディスカッションの中でダーーッと詰めていきました。
( ´ - ` ) 真面目でしょ?
怪異な写真と猫の絵を産み出している割には真面目かと思います。
写真家、特に「作家」系の活動って、作家が好きなことを好きなようにやるイメージが強いと思いますが、わりと地味に、基礎的なことを考えて物事を進めているということが、お分かりいただけたでしょうか。いやまあ好きなことやってますけど。はい。
無論、空手の状態から1時間でプラン骨子を立てるのは絶望的に無理です。構成やストーリーの素案は、事前に家でああだこうだ仕込んでおくのが吉です。師匠にラーメンの味を見てくれと言って「いや何も作ってません」「けど最強のラーメンにしたいんです」「どうしたらええすか」と言ったら、師匠は血圧上がって倒れるだけです。スープぐらいは作っておくとああだこうだ議論ができます。
余談ですが、都市×写真というと、どうしても東京のイメージが強くないですか。強いですよね。強いです。東京ってなんやの。ああもう東京。
むしろ東京以外の都市については「なぜ東京以外の地方都市を撮ったのか」を説明しないと辛いようなところがあって(と個人的に苛まれている)、何ていうか写真史と東京は密接すぎて困る。
というか東京は「Tokyo」という固有のブランドを冠しているが、そのイメージは天皇制度ぐらいに浸透(&再強化)しているのでほぼ一般概念になっていて、逆に地方都市を扱うと瞬時に固有名詞化し、「なぜその個人の話をするのか」という議論がメタで入ってくる。うげぐ。
しかし「都市生活」「生活者」となると、どうかな。列島、いずこも、状況は大して変わらないでしょう。2018年度現在のスマホ普及率をこたえよ。
暮らしに埋もれた身の回りの器具、風景の破片、都市のパーツらは、優秀なポテンシャルを秘めたゲリラ兵みたいなところがあって、誰の統治下にも置かれていないし、仕えるべき神も将軍も持ちません。ゴーサインの出し方によってはうまく動いてくれるんじゃないかと。魔王軍補佐官みたいなことを考えて日々を暮らしています。だめだ。
というわけで、写真と都市生活とを繋ぐ評論ができればなあと考えています。あなたは今夜どこで眠りますか。
( ´ - ` )
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さて、こんな私と対照的に、ゼミ生・鷹岡さんの作品は相変わらず質感を大事にされていて、写真家の鑑です。
私とは逆に、しっかりと空気感、対象の存在感を見ておられるので、気が引き締まります。
海外での展示に向けて、テストプリントを繰り返しながらイメージを固めていった経緯が示されました。
色の発色だけを見ると、インクジェットプリントは優秀です。家庭用もあなどれません。しかし奥行き感は犠牲になり、平坦です。
そこでラムダプリントですが、インクジェットと遜色ない発色で、奥行き感が保たれるので、いいなあという結果でした。なるほど。
この作品は、枯れゆく花シリーズと同じく、自宅の出窓で、自然光の下で撮られたものです。レースカーテンいいなあ。光そのものを見ているかのようです。
抽象絵画を写真でやってみましょうよという話があって、ハイパー印象派です。かっこいい。
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本日の出席者は2人で、時間が余ったので、おまけです。
先日の大阪北部地震で、図書館の蔵書の整理をしていたら「婦人公論」創刊号などが出てきたとのことで、それらの古書を見せていただきました。
元は個人の持ち物で、寄贈されたのだそうです。ここにあるのは大正末期から昭和初期あたりの品で、百年前の物です。非常に綺麗。
しびれますね。タイトルの語気がみぞおちに来ます。見ていると、女性の自立、女性の権利、女性の主体性といったテーマが立っている。太平洋戦争以前の日本はけっこう進んでいた国だったんではないか。空気を全く読めない石川啄木に平塚雷鳥が市電の車内で平手打ちをかます光景を思い出します。(『坊ちゃんの時代 3.かの蒼空に』)明治以降の日本とは。
カラー写真がまだなので、白黒写真に着色してますね。子供向け絵本みたいになってる。
モノクロ写真はかっこいい。陛下。
広告が激しく面白いです。権威ぶった博士風の顔写真とか「博士」という称号が乱発されていて味わいがあります。
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そういう感じでした。
今日一番の学びは館長が「・・・実は写真やるのって高いインテリジェンスが要るんですよ」と仰り、「同感です、、」と胸の内で合掌したあたりです。
写真は非常に民主的な表現手法ですが、ひとたびガチの「写真界」「写真史」に足を踏み入れた途端、基本的にみんな知力が高すぎて修羅の国です。
彼ら彼女らは、地頭というか、洞察力、論理性、探求心、記憶力、情熱、調査力、論述力、その他諸々、能力値が一般人を遥かに超えています。名の売れている写真作家は基本的に鬼です。
若くみずみずしい感受性や、刹那の感傷、生まれ持ってのセンスだけでは、絶対に勝てない山が幾重にも連なっているなあとニヤニヤしております。いいですね。鬼が跋扈する魔界は見ていて飽きません。
ただ、みんなが鬼になる必要はなくて、皆さんがそれぞれに自分のやるべき使命を果たしていくことが、人生でも写真でもゲームでも大事です。商業カメラマンが作家風をふかすと商売に支障をきたし、シーフが斧や大剣を装備すると骨折し、ヒラが部長の仕事をやると組織が傾きます。日常を淡々とやりましょう。
( ´ - ` ) まとめっぽいことを言いながら完。